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【日本/埼玉県/秩父/横瀬町/地域おこし協力隊】【WBと家族編】【8月】【お盆】世界で一番尊敬するあなたへ~愛を込めて~(不完全な文章シリーズ)

皆さん、こんばんは。
横瀬町地域おこし協力隊
ウェルビーイング(WB)担当のやすこです。

今、0:21です。
なんだか元気なのでnoteに向かっていますw

noteさんからまたコングラ頂いちゃいました!
励みになる~!

2024年8月13日コングラ頂きました!

皆さま、読んでくださり
スキ♡も頂き感謝しています。
すごく、すごく、嬉しいです^^

1.お盆シーズンということで

今日からお盆シーズン突入ですね。
なんだか、いつもの町が
少しだけ特別に感じる期間です。

私は、やることが結構あるので
お盆ですが実家には帰らず
横瀬町でパチパチPCに向かっています。

よく横瀬町の方から
「近藤さんのご両親ってどんな方なの?」と
興味津々で聞かれます。

私にとって
父と母は
「世界で一番大切な私の宝物」です。

私が自己肯定感高く
いつも前向きにいられるのは
父と母の愛情を感じているからです。

今回も天狼院書店の
ライティングXの課題で書いた
母とのエピソードを発信したいと思います。

本当は、母の日に発信できたらと思っていましたがバタバタしてしまい今になりました。

お盆シーズンと言うことで
ご先祖様に催促された感じでしょうかw

ウェルビーイング(幸せ)の観点から
今回のテーマは家族です。

突っ込みどころ満載の不完全な文章ですが、
ほっこりしてもらえたら嬉しいです!!

2.世界で一番尊敬するあなたへ~愛を込めて~(課題テーマ:美しい仕事)


「お母ちゃんなんて大っ嫌い。お母ちゃんが私のお母ちゃんじゃなければ良かった」

私はわ~っと泣き叫びリビングの机の下に潜り込みひくひくと泣き続けた……。

思えば泣いている理由なんて些細なことだし、このような出来事は今になっては家族のネタ。

集まる度に家族の誰かが私の子ども時代の思い出を笑い話に変え、酒のつまみにして楽しんでいる。

ま~、私も昔の自分を思い出すと武勇伝がありすぎて失笑せざるを得ない。

私は青年期が抜けるまでしっかりと思春期っていうやつを通過している。

あの頃、私は母とよくぶつかった。

自分の気持ちなんて理解してもらえないと感じる度に、母が傷つくような言葉をわざと選び、放り投げた。

母も負けてはいないから時々取っ組み合いになる時もあったし、何日間もお互い口を聞かず無視し合うこともあった。

姉と兄は私が中学を上がる頃には独立していたので、実質、父、母、祖母、私の4人暮らしだった。

母とケンカ中の時は、父や祖母が緩和剤役になり、家族の不穏な雰囲気を和らげ、私たちの居場所をつくってくれた。

そして、いつの間にか母も私も普通に挨拶し、会話し、笑顔になって、また、日常に戻る。これがいつも近藤家のパターンなのだ。

こんな感じで今回も母に気持ちを受け入れてもらえなかったとケンカになった。

もはやなぜケンカをしたのかは全く覚えていないが、この時の光景はしっかりと覚えている。

母はすごい! と無償の愛を感じた日。
相変わらず素直になれない末っ子の私。

言葉は時に武器となる。
言葉は心に怪我をさせることがある。

「お母ちゃんなんて大っ嫌い。お母ちゃんが私のお母ちゃんじゃなければ良かった」私が放った言葉は、母の心を怪我させた。

分かっていて私はわざと言葉の武器を使った。
自分が悪い部分もあったのかもしれない。

でも、素直になれないし、認めたくなかった。
私は机の下にもぐり泣き続けた……。

そしたら疲れていつの間にかうとうとしてしまった。そんな様子を見て、母が私に近づいてきた。
私は目をつぶったまま寝たふりをする。

「やっちゃんは本当は良い子だもんね。お母ちゃんは知っているよ。やっちゃんはとっても良い子。お母ちゃんはやっちゃんのことがだ~い好きだよ~」と机に潜り込んだ私に、母は手を伸ばし頭を撫でてきた。

寝たふりをしていた私は我慢しきれず、再び泣き出した。

母の愛で私の意固地に固まった心は完全に溶け、母へ申し訳ない気持ちが込み上げ、私の目から大粒の涙が溢れだした。

「お母ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。傷つけること言ってごめんなさい。私はお母ちゃんが大好き、大好き……ひっく、ひっく、ひっく」

私は机の下から抜け出し、母に飛びつき、抱きついた。

そのまま、母の胸の中で泣き続けた。素直になれない私に、素直になるきっかけを与えてくれた母。

この時、私はこの女性には勝てないと悟った。この時の光景は今でもしっかりと覚えているし、母の偉大さを感じたエピソードなのだ。

大人になってからも時々母に自分の気持ちをぶつけることはもちろんあった……笑私は基本的に強い女性の部類に属するため、よっぽどのことがなければ愚痴等は言わない。

友だちに話す時もその話の内容が笑いになった時点で事後報告をする。これは癖と言うか、他人に自分の負の感情を共有するべきでないという私なりの思いやりなのだ。

でも、どうしようもない時は、母に電話する。子ども時代から変化したことと言えば、お母ちゃんから、恥ずかしくて、お母さんと呼ぶようになったくらい……。

久しぶりにそんな日がやってきた。

「もしもし? お母さん?」
「やっちゃん? なんか声が暗いじゃん!」
私の声の状態で調子が良いのか悪いのかすぐに母は分かるみたい。

「なんかさ、仕事でさ、超ムカつくことがあって」この日、私は仕事で抱えきれなくなった不満を母に打ち明けた。

「やっちゃん、良かったじゃん! また、成長できるよ! 嫌だなと思った人も縁がある人だから、良いことも悪いことも含めて、全てやっちゃんにとって良いことだから大丈夫!」とアドバイス。決まっていつも正論をめちゃくちゃ明るく言ってくる。

一緒にその人の悪口を私と言い合うことなどほぼない。「ありがとうございます。と成長させてもらえる機会だと思って、感謝して相手に言うと良いよ」とこの日も言ってきた。

毎回、母の良い人具合には、社会に揉まれ、発展途中の私にとっては、時にうざく、ムカつくアドバイスに聞こえてくるのだ。

正論は分かっているけど、母に相談したつもりが、余計に腹が立つ時がある。

「お母さんみたいな専業主婦には分からないよ。社会で揉まれている私の気持ちなんて。もういい。相談した私がバカだった」ガチャッ。私は母にバイバイを言わず、突然電話を切った。

私は知っている。
母はとっても良い人なのだ。
それが時に息苦しさを私に与える。

でも母が言うことはその通りなので、次の日にはLINEでメッセージを送る。
「お母さん、昨日はごめんなさい。アドバイスくれていつもありがとう。愛しています」と。

人はいつどうなるか分からない。だから、私は少し頭を冷やしたら、できるだけ早い段階で素直な自分の気持ちを大切な人に伝えるようにしている。後悔しないように。

私が大人になったと感じる瞬間。ちゃんと母に謝れる自分になれたことは大人になった証。

結婚する前、母は小学校の教師だった。
しかも、子どもたち、保護者からものすごく人気だったと聞いている。

母は小学校の教師を3年くらいしかしていない。
ある日、母が良い先生だったと確信した出来事があった。

その日、私はお金を下ろすために銀行にいた。
用事を済ませ、銀行から出ると後ろから

「高橋先生! 高橋先生!」と50代くらいの女性が私に駆け寄ってきた。

私は一瞬立ち止まり、声の聞こえる方を振り向く。何が起こったのか分からない私は、ぼ~としながら立ちすくむ。

「高橋先生、高橋先生! お元気ですか? 息子がお世話になりました! ○○の母親です」とその女性は私の顔を見ても尚話しかけてきた。

その表情は非常に懐かしそうに、且つ、嬉しそうな雰囲気で私が高橋先生であると疑いなく自信満ち溢れる勢いだった。

「高橋先生? 私は近藤ですけど……」
「あ~、もしかしたら高橋先生の娘さん?」
「あ~、母の旧姓は高橋で、結婚して、現在は、近藤ですが、私の母のことですか」
「あ~、ごめんなさい! あまりにも似ていたから、思わず声をかけちゃった! 高橋先生の娘さんだったのね! 高橋先生にそっくり笑 高橋先生のこと、うちの息子が大好きで、今でも高橋先生の思い出話になるんですよ」と教えてくれた。

私が似ていたという理由で、母の教師時代を知る人から突然話しかけられるという不思議な出来事をこの日初めて体験した。私が20歳前後の学生時代だった。

家に帰り、すぐ母親にこの日の出来事を話した。
母は想像ついたのか笑っていた。

どれだけ母の若いころに似ていたのかと思うと私も笑えてきた。

母は私に小学校の教師をしていたことは話してくれていたが、どのような先生だったのかは聞く機会はなかった。

母の教師期間は和やかな時代に恵まれていた。クラスでおにぎりをつくり、具材も子どもたちが自由に選び、学校の近くにみんなでピクニックに行く企画等をしていたようだ。今は許されない自由度がその時代にはあった。母の発想や人柄が子どもたちや保護者達には魅力的に感じたようで何十年経った今でも良き思い出として生き続けていることを知った。

そして、そんな出来事からも何年か経った。私は東京で仕事をしていて久しぶりに実家に帰省することになった。母とは頻繁にLINEで連絡しているし、時々、父も登場する。家族の近況等は常に報告し合っているので、物理的な距離はあっても、心の距離はいつもとても近かった。

子どもの頃から何も変わっていない実家。
私が母とケンカして潜り込んだ机もそのまま。
何年も会っていなくてもすぐに家族に戻れる居場所。

ふっと、リビングに置かれていた写真をパラパラと私は見ていく。

現在の母が花束を抱え、男性や女性10名くらいに囲まれ、みんな満面の笑顔で写真に写っていた。母が70代でその他は50代くらいの私の知らない人たち。

近くにいた父に私は尋ねる。
「ね~、お父さん、この人たち、誰? なんでお母さん、花束を持っているの」
「あ、この写真、この前、お母さんが小学校の先生をしていた時の生徒たちが同窓会をしたいと言って集まったんだよ! お母さん、人気者だよね。すごいよね! お母さんも生徒たちに声を掛けてもらって、すごく嬉しかったみたいだよ!」なぜだか父が誇らしげに写真のエピソードを話す。

そう言えば、電話で話した時に、母から教え子が同窓会を開催してくれたと話してくれていたことを思い出した。その時の写真だったのか……。

キッチンにいる母に写真を持っていき、
「お母さん、覚えてる? 私が学生時代にお母さんに間違えられて、お母さんの生徒の保護者の方に声かけられたこと……」

「わははっ! 覚えてる! 覚えてる! そのお母さんの息子さんがこの子だよ! 今回、〇〇くんが中心になって先生に会いたいと同窓会を開いてくれたんだよ!」

「お母さん、すごくない? だって、3年しか先生していなかったのに、何十年経っても忘れられない先生だったなんて、どんなけ良い先生だったの?」私も教育者だっただけに、何十年経っても人の心に残る母の教師として生きた3年間に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

母の教師人生はたった3年だったのかもしれない。でも、この短期間に母は生徒や保護者に尊敬される仕事を成し遂げてきたのだ。

母は22歳で教師になり、25歳で結婚を機に仕事を辞めた。そして、70代になり50年を経て、同窓会が開催された。

私は母が教師だった時期を知らない。

でも素敵な先生だったのだとその時代の生徒や保護者との出会いによって教えてもらった。

父ともなぜ母と結婚したのか散歩をしながら語り合ったことがある。

父と母は中学校からの同級生だ。父は中学時代から母のことがずっと好きだった。

「お父さんはさ、なんでお母さんのこと好きだったの」と質問すると、
「お母さんはね、勉強できる子にもできない子にもすごく人気だったんだよ! 明るくて、誰に対しても優しかったんだよ!」
「ふ~ん! えっ、じゃ、お父さんは勉強できる方? できない方? どちらだったの」私は父に少し意地悪な質問をする。
「さ~、どちらだったでしょう?笑」私たちは一緒に笑う。
「ね、なんでお母さんと結婚したの?」
「そりゃ、お母さんがお父さんのこと好きだったからだよ~笑」
また、また、私たちは一緒に笑う。

「結婚はね、宝くじみたいなものだよ! 買ってみないと分からない! お父さんは大当たりだったけどね!」なんだか父から出てくる母のエピソードに心が温かくなった。

母は、強くて、優しくて、純粋で、まっすぐな人。

この人が私の母で本当に良かったと思う。
社会で揉まれ、色々な人生経験を経てきたからこそ、母がどれだけ素敵な人なのかその価値を感じることができる。

大人になった今、私は一人の人として、女性として、母のことをとても尊敬している。

人はいつどうなるか分からない。
だから、私は大切な人には、その想いを言葉で伝えることを大切にしている。

「お母さん、私、お母さんのこと心から愛しているし、大好きだよ! お母さんみたいに純粋で、良い人の子どもに生まれてきて本当に良かった。私はお母さんから人として大切なことを学んできた! 本当にありがとう!」と私は母に恥ずかしい気持ちなど1ミリもなく素直に伝えた。

母は嬉しそうに、
「そんな風に言ってもらえて嬉しいな~」と言った。

母に昔、どんな人に育って欲しいか聞いたことがある。その時、母は、
「美しい花を見て、美しいと自然に思える子に育って欲しい」と母は私に言った。

母は多くを私に望まない。
でも、母は私に素直な気持ちで生きることを教えてくれた。
大人になった今でも、私は美しい花を見て、美しいと感じる心が生きている。

母はその時々で柔軟に優しく凛とした姿で人生という、人の心に残る「美しい仕事」を成し遂げてきた。

私はそんな母の娘として生まれ、自分の運命に心から感謝している。
あとどれくらい母と一緒の時間が過ごせるだろう……。

一日一生。
後悔がないよう、これからもたくさんの愛のある言葉を、母を含めた大好きな家族に伝えていきたい。

ありがとう!
愛しています!

*****おわり******

3.いつも心の中にいる

末っ子の甘えん坊な私ですが、
両親からの自立は早い方でした。
大人になってからも、
実家に行ったり、
来たりするような生活だったので、
離れていることが当たり前でした。

しかし、文明が発展し、
海外にいる時は、
ネット環境が整っていれば、
無料のSkypeやLINEで話せるし、
物理的には遠距離でも
精神的にはいつも近距離でした。

父や母には常にオープンなので
恋愛の話もしますし、
仕事の話もします。

前職を辞めて、
横瀬町に移住する時も、
私が何をやるのかはイマイチ分かっていませんでしたが
私の選択を尊重してくれました。

そして、
横瀬町に移住して1年半。
私がいつも活き活きと
横瀬町での日常を
電話越しで話しているため
父と母もすっかり横瀬町ファンとなり、
横瀬町の人々に感謝しています。

実は、地域おこし協力隊1年目が終わるころ
前職の所得が高かったことから
税金負担が思いのほか重くのしかかり
無報酬+マイナス的な感じで
真剣に辞めるか考えたことがありました。

その時に、
横瀬町地域おこし協力隊続行を
後押しし、応援してくれたのは
両親でした。

横瀬町の皆さんにとてもお世話になって
やすこも大好きな町なら
あと1年頑張ってみたら。
頑張れるだけやってみて、
それから決めてもいいんじゃない。
何かあれば、応援するから!!
と言ってくれたことが心の支えになりました。

2年目は、
税金負担が軽くなり
やっと経済循環が正常に回るようになりましたw
あの時、辞める選択をしなくて本当に良かったです。

私はやりたいことを
両親にダメと言われたことは
ほとんどありません。

しかし、
やりたいことが
どれくらい本気かは試されます。
両親に納得してもらえるような、
交渉、プレゼンをして、OKをもらいます。

その時に、
「やすこの人生だから、やすこが決めると良いよ。でも、やすこが常に幸せであることが条件だよ」と父から言われ続けてきました。

だから、チャレンジして、
失敗して、挫折しても、
その状況からどうやって
自分を自分で幸せにするのかという方法を
鍛え、見つけてきたように思います。

人生で苦しく、辛い状況の時は、
当たり前の身近な幸せが
どれほどありがたかったのかを
気づくきっかけになりました。

父と母から
信じてもらい
チャレンジしてきた私は
自分で自分を幸せにする方法を
学んできたように感じます。

年齢を重ねていく度に
父と母の偉大さを感じます。

どこにいても心の中にいる。
父と母は私の幸せの源なのです。

お盆は、私の命をつないでくださった
ご先祖様、父、母に思いを馳せ、
横瀬町で感謝をしながら過ごしたいと思います。

本日も、長文を読んでくださりありがとうございました。
フォローやスキ♡を押して頂けると
すごく励みになりますし、嬉しいです。

これからも応援をよろしくお願いします。
私も皆さんの幸せをいつも祈っています。

では、また次回~!!

元気ですか~? 元気があれば何でもできるw! 先日、町の人に教えてもらったフレーズ!

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