「鏡」という「文字」、鏡という「もの」(「鏡」を読む・01)
「「鏡」を読む」という連載を始めます。江戸川乱歩の『鏡地獄』の読書感想文です。体調というか病状が思わしくないので、この連載は不定期に投稿していくつもりでいます。
◆「鏡」という「文字」、鏡という「もの」
江戸川乱歩の『鏡地獄』の最大の奇想は、鏡ではなく「鏡」という「文字」を真っ向からテーマにしたことだと私は思います。この短編のテーマは、鏡という「もの」ではなく、「鏡」という「文字」だと言いたいのです。
たとえば、ある文章に「鏡」という文字がたくさん書かれていると、私たちはその文章は鏡について書かれたものだと考えるのが普通でしょう。
とはいうものの、その文章が小説である場合と、エッセイや論述文であるである場合と、詩の場合とでは、そこに書かれている「鏡」は微妙にずれてくるのではないでしょうか。
小説であっても、ミステリーと、幻想小説やファンタジーとでは、その作品に書かれている「鏡」に対する私たちの態度というか身がまえ方は微妙に、あるいはかなり異なってくるはずです。
*
極端な例を挙げます。
理科や科学の教科書や本に出てくる鏡と、詩や童話やファンタジーと呼ばれるジャンルの作品に出てくる「鏡」とを同列に扱う人は少ないと思います。
後者としては、たとえばグリム童話の『白雪姫』や、ルイス・キャロル作の『鏡の国のアリス』を思い浮かべてください。
それが「鏡」です。
童話や文学作品に書かれた「鏡」で荒唐無稽なことが起こっても腹を立てないのは、そこに書かれている「鏡」が現実にある鏡ではないと分かっているからです。
一方で、理科や科学の教科書や本に出てくるのは現実にある鏡の話です。
それが鏡です。
したがって、理科や科学の教科書には、不思議ではあっても、荒唐無稽な鏡の話は出てきません。読む人も、あり得ないという意味での摩訶不思議な話を期待してはいないはずです。
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鏡と「鏡」――を体感していただけたでしょうか?
ここでは、頭で理解するよりも、みなさんに体感してもらえるように心がけています。約物の一種である、「」という鉤括弧を頻用しているのは、理不尽とも言える文字の不思議さを体感してほしいからなのです。
何よりも不思議であり理不尽にも感じられるのは、無数にあるだろう「たった一つ」の「もの」に、一本化された「たった一つ」の「文字」が当てられていることです。
鏡――。
もっとも「鏡」は人工物であり複製が可能ですからぴんと来ないかもしれません。
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これが複製の不可能な「山」や「海」であったり、交流というか相互関係で結ばれることもある「犬」や「猫」、関係性に与えられる名称である「母」や「父」、あるいは集団や地域の呼称である「町」や「国」だったら、どうでしょう?
「同じ」どころか「同一」であり「たった一つ」の文字を当てることの不思議さをこえて、理不尽に感じるものもあるのではないでしょうか? その感情の根っこには愛着や愛しさがあるのかもしれません。
*
こうした文字のありようを、具象と抽象という言葉を用いて語ったところで、または「この・あの・私の・あなたの・彼らの」を付ければ区別できると言ったところで、「同一」であり「たった一つ」の文字(言葉でもいいです)を当てる不思議さは去りません。
その不思議さが体感していただければ、と願っています。
いま体感と書きましたが、鏡と「鏡」の違いは音読によって伝えることは難しいです。そのまま音読するのではなく、言葉を加えて説明する必要があります。
その意味では、体感するのではなく、視覚的に感じると言うべきなのかもしれません。
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話を戻します。
・「鏡」は鏡ではないのに、鏡としてまかり通っている。
・「鏡」という「文字」は鏡という「もの」ではないのに、鏡としてまかり通っている。
こうしたことが、私には理不尽かつ不思議に思えてなりません。
そんなわけで、ここでは「鏡」という「文字」と、鏡という「もの」とを区別しています。
◆人間椅子、「人間椅子」、『人間椅子』
江戸川乱歩の『人間椅子』では、人間が椅子の中に入り込むという奇想が、作品の中で「人間椅子」という作品になり、さらにまた、それを読者が『人間椅子』という作品として読むという奇想が見られます。
以上の奇想を、次のように見ることもできます。
人間椅子という物体の中にあったはずの現実の空間(人間が入るために作られた椅子の中の空間)が、実は文字からなる小説(虚構)の中の空白であるという奇想。
・空間(物理的な立体空間) ⇒ 空白(紙面という平面上に作られた空白
・人間椅子という現実 ⇒ 「人間椅子」という文字=小説
・人間が消える ⇒ 文字からなる作品が成立する
・letter(手紙・文字) ⇒ letters(作品)
私にとって、『人間椅子』という小説の奇想のキーワードは「space・空間・空白」です。
これは、江戸川乱歩の『人間椅子』を読んでいると、蓮實重彥『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収の「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」を思いだし、逆に後者を読んでいると前者を連想するという、私が勝手に作った見立てにすぎません。
「「鏡」を読む」という連載では、「sense・方向・意味」をキーワードにして『鏡地獄』を読んでみたいのですが、それは『鏡地獄』を読んでいると、蓮實重彥『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収の「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」を思いだし、逆に後者を読んでいると前者を連想するという、私が勝手に作った見立てだからにすぎません。
さらに言うと、「order・順序・序列」をキーワードにして、『押絵と旅する男』を「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」と絡めながら読んでみようという気持ちがあります。
話を戻します。
◆鏡地獄、文字地獄、影地獄
ここで鏡と文字について考えてみます。
*鏡、文字、影
鏡と文字は人にとって特権的な意味を持っている、と私は日々感じています。鏡に映っているものと文字が影だからかもしれません。
この影というのは、うつっている姿という意味です。古い日本語では影の意味は多義的で、たとえば月影の語義には「月のひかり。」と「月の姿。月の姿。」(広辞苑より)があります。
書き分けてみましょう。
うつっている姿・影:鏡像と文字
映っている姿・影:鏡像
写っている姿・影:文字
こう書いてみると、鏡像も文字も複製として存在していることに気づきます。「映す・写す・映る・写る」は複製を作ったり、複製ができたりすることのようです。
そう考えると「移す・移る」が浮いて見えます。先人たちが「うつす・うつる」という音に「写・映・移・遷」を当てた――あるいはその逆なのでしょうか――と思うと、気が遠くなりそうです。
*
話を戻します。
『鏡地獄』で書かれているのは、鏡地獄というよりも、むしろ文字地獄であり――この作品に出てくるのは鏡という「もの」ではなく「鏡」という「文字」だからです――、そうであることは、いわば影地獄を生きている私たちにとって――現在私たちは文字いう影と映像という影と切っても切れない生活をしているからです――きわめてリアルに感じられるのではないかとも思います。
*鏡の振りを装い、鏡を演じる文字
くり返します。
『鏡地獄』には「鏡」という「文字」がたくさんでてきますが、その「鏡」は鏡という「もの」ではありません。
「鏡」という「文字」が、鏡という「もの」の振りを装い、鏡という「もの」を演じているとも言えます。
人は生きていない「もの」にさまざまな「もの」の振りを見ますが、これは擬人の一種でしょう。絵や写真や動画を例に取ると分かりやすいかもしれません。
しみや画素の集まりに私たちは振りを見るのです。生きていないものにまるで生きているかのような振りを見ています。振りを顔とか表情とか身体と言い換えてもいいでしょう。そこには生きているものの動きがあるのです。
人類は一貫して擬人を基本とする呪術の時代に生きています。だから、私たちは大切な人の名前を書いた紙や大切な人の写真を踏んだり、はさみで切り刻むことができません。
呪術の時代に生きていることは恥ずべきことでも恥ずかしがることでもありません。ヒトという種であるしるしなのですから。
*
振りとは、意味であったり、物語(筋書き・ストーリー)であったり、ドラマだったりします。
この振りを影にたとえると分かりやすいかもしれません。影にたえとえるのは、影という言葉には本体とか実物とか現物の代りというイメージがあるからです。
いまイメージと言ったのは、代りがなくてその代りだけが振りを演じていることが頭にあるからです。絵や写真や動画は、何かを実写したとは限りません。勝手に人が作った影が意外と多いのです。
「何か」の代りであるはずの影が、「何か」の代りではなく振りを演じている。振りだけがそこにある。
影とはそうしたものではないでしょうか? 「写る・映る」とはそうした動きを指すのではないでしょうか?
*鏡地獄、文字地獄、影地獄
人が勝手に、つまり自由気ままに作った影を、自然界に自然にある影と区別して、とりあえず映像と呼んでみましょう。
映った影と書いて映像だとはいえ、映像は何かの実写とは限らないことが決定的に重要です。私たちはいま、実写ではない映像に囲まれて生きています。
ネット上で投稿・配信・複製・拡散・保存されている映像を思い浮かべると、その実物や本体や現物が不明であることに気づきます。
複製の複製、実物や現物のない複製、引用の引用、起源のない引用――こうした言葉とそのイメージがリアルに感じられるのが現在という時代です。
この時代には楽しいことばかりがあるわけではありません。
映像地獄。
鏡地獄、文字地獄、影地獄。
*「鏡」という文字、鏡という「もの」
「鏡」という文字が出てくる説話や童話や文学作品は多いです。鏡という「もの」の影を引きずっている鏡という「文字」と言うべきでしょうか。
かといって、理科や科学の教科書や、科学の論文で出てくる「鏡」という文字が鏡という「もの」であるとは言えません。やはり、文字は文字なのです。
ただし、次のように言えるとは思います。
・目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
・目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。
*
*文字と影
・鏡の振りを装い、鏡を演じる文字
・何かを装い、何かを演じる映像・影
上の二つのフレーズでは文字と映像を分けましたが、実際には絵や写真や動画という映像・影と文字・文書は、デジタル化されたデータ・情報として、区別されることなく投稿・配信・複製・拡散・保存されている気がします。
でも、私は両者を分けて考えています。
*
機械にとっては区別する必要はないのかもしれませんが、人にとっては文字と映像は区別したほうがいいように思います。
人にとって文字は時間と労力を掛けて真似る・学ぶものです。学んで覚えたことのない文字は読めないと言えば分かりやすいかもしれません。知らない言語の文字が好例です。
一方で、絵や写真や動画といった映像は、あえて真似て学ばなくても見ることができます。
もちろん、ある動作、たとえばあかんべーという動作や仕草が身振り言語として、ある集団や地域で特定の意味やメッセージを持つ場合もありますが、それを見ることはできるという意味です。
その意味で、文字と、絵や写真や動画といった映像・影を同列に考えることは人にとって現実的ではないと私は思います。機械にとってどうなのかは知りませんが。
・文字の使用は学習の成果
・映像・影の使用は先天的
いずれにせよ、上のようにまとめることはできそうです。視覚や学習に障害のある人たちの存在を忘れてはならないのは言うまでもありませんが。
*鏡と文字
話を戻します。
鏡と文字が人にとって特権的な意味を持っていると私は日々感じているのですが、それは両者が影だからではないかと思っているからです。
*
ここで鏡と文字の不思議さについて考えてみます。
まず、鏡でも文字でもない山について不思議だと思っていることを書きます。
・「山」という「文字」は山という「もの」ではないのに山としてまかり通っている。
・「山」という「文字」は山という「もの」にはぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。
上の二つの文の「山」の代わりに「猫」――私は両者を見たことも触ったこともあります(具象)――としても不思議さに大差はありません。私は見たことも触ったこともないのですが(抽象)、「愛」や「民主主義」であっても不思議さに大差はない気がします。
*
次は「鏡」と「文字」です。
・「鏡」という「文字」は鏡という「もの」ではないの鏡としてまかり通っている。
・「鏡」という「文字」は鏡という「もの」にぜんぜん似ていないのに鏡としてまかり通っている。
・「文字」という「文字」は文字という「もの」ではないのに文字としてまかり通っている。
・「文字」という「文字」は文字という「もの」にぜんぜん似ていないのに文字としてまかり通っている。
最後のペアに違和感を覚えませんか?
・「文字」という「文字」は文字という「もの」なのだから文字としてまかり通ってもかまわない。
・「文字」という「文字」は文字という「もの」にそっくりどころか同じなのだから文字としてまかり通ってもかまわない。
そんなふうに私は言いたくなります。
*
でも、ちょっと違うかなとも思います。
・文字という「もの」(抽象・一本化された「同じ」「同一」「たった一つ」)
と
・「文字」という「文字」(具象・それぞれが異なる複製・無数にある複製)
とを区別したい気持ちがあるからです。
ただし、このことについては別の記事で書くつもりなので、今回は深入りしません。
以上述べたことから、鏡と文字が人にとって特権的な意味を持つものだとは言えるでしょう。
*『鏡地獄』の奇想
くり返します。
江戸川乱歩の『鏡地獄』にはさまざまな奇想がありますが、鏡を「鏡」として正面から扱っているところが最大の奇想だと思います。
・鏡を「鏡」として扱う
・「鏡というもの」を「鏡という文字」として扱う
そうした見立てで読むと、『鏡地獄』で最初に出てくる「鏡」の話と、最後に語られる「鏡」による破滅の話が象徴的な意味を帯びて感じられます。
*
「彼」と「鏡」についてのエピソードの第一弾として語られる話に、鏡の面に映される「物」の姿としてはなく、金属の鏡を「表へすき通る」形で壁に映る「文字」が出てくることは興味深いです。
私にはこの「表へすき通る」「文字」が「物」に思えます。「怪物」であり「魔物」であり――「怪物」も「魔物」も「彼」を指す言葉としてこれから出てきます――、何よりも人物なのです。
妄想癖のある私は、この冒頭の話は最後の話の伏線ではないかと勘ぐりたくなります。「表へすき通る」「文字」というイメージが、これに続いてつぎつぎと出てくる鏡の話と比較して、最初に紹介する話としては無理があるというか唐突でちぐはぐなのです。
*
「表へすき通る」は「映る」よりも「写る」寄りであり、さらに言うならほぼ「移る」である気がしてなりません。
映る・映す < 写る・写す < 移る・移す
「移動する・移動させる」ことはしばしば困難であったり不可能であったりしますが、「映す・写す」は比較的容易です。
人類は「移す」の代わりに「映す・写す」で済ましてきた。「映す・映る・写す・写る」は「移す・移る」の代償行動である。そんなふうに私は感じています。
こちらから向こうに「移す・移る」ことは人類にとって常に悲願であり彼岸でもあるのです。
*
そのように考えるとき、鏡を張った球体の中に入り込むという、『鏡地獄』のラストの奇想が、叶わぬ夢、つまり彼岸への疾走とか飛翔に思えてきます。ひとりの人間が体を張って鏡を張りめぐらした反射(球体)の中に移るのですから。
この「球体」で、『人間椅子』の「人間椅子」、『芋虫』の「肉塊」、『押絵と旅する男』の「押絵」を連想する人は多いのではないでしょうか? 閉じこめられるというイメージですが、私は乱歩の願望じみたオブセッションを感じます。
引用文にある「鏡」が鏡ではないことは明らかでしょう。
鏡ではなく「鏡」をもってしても、「映る」ことによって、向こう側(彼岸)に「移る」ことは叶わなかったようです。それによって、かろうじて、『鏡地獄』はこちら側に踏みとどまったとも言えるでしょう。
もし、向こう側に移ってしまったとすれば、この短編は小説として破綻したかもしれません。
その理由をお話しします。
*
なお、『鏡地獄』は青空文庫でも読めます。
◆枠物語・額縁小説
*物語の中の物語、小説の中の小説
『鏡地獄』は次のように始まります。
そして、次のように終わります。
常体で書かれている出だしも、敬体で書かれている最後も、語り手は「私」ですが、出だしの「私」が「友だちのK」に語りをバトンタッチしています。
「話というのは、」という中途半端なセンテンスの次に、一行を空けた形で、「友だちのK」が「私」として語り始めるという形式です。
これは枠物語とか額縁小説と呼ばれることもある形式で、物語の中に物語がある、小説の中に小説があると言えば分かりやすいでしょう。
要するに、伝聞、つまり他人から聞いた話を書いている小説なのです。
*嘘であっても許される小説
たとえば『人間椅子』では、小説の中に出てくる手紙が小説であるような書き方がされています。また、『押絵と旅する男』では、語り手が汽車の中であった男から聞いた話が中心である小説です。
枠物語は他人の話を紹介する形を取っているために、読み手は少々嘘っぽい話でも、またはかなり誇張された話でも、あるいは相当いかれたというかヘンテコな話でも、受け入れやすいという利点があると言えます。
誰かがいかにも嘘っぽい話をしていても、「これは聞いた話だからね」という前置きがあれば、聞いているほうとしては、相手を責めたり、とっちめるわけにもいかないし、「ふーむ、そうなんだあ」という感じで聞き流すことができるのに似ています。
それどころか、思わず話に引き込まれるなんてこともありそうです。
*
嘘っぽい話を読み手が受け入れやすいということ以外に、枠物語には、もう一つ利点があります。
嘘を重ねるとか、嘘の上塗りという言い方がありますが、他人から聞いた嘘っぽい話を語る人間が、さらに嘘を重ねても聞いている相手には分からないだろうという利点です。
嘘が嘘を呼ぶという感じで、嘘がエスカレートしやすい。しかも、他人の嘘の中に自分の嘘を混ぜたとしても、聞いている相手には気づかれない。
みなさんにも、そうした経験がありませんか? 枠物語は嘘を重ねるのに便利なツールなのです。
だから乱歩は伝聞をよく使うのであり、乱歩は伝聞の使い方がとてもうまい作家なのです。
*語り口の巧みさ
以上のことを頭に入れると、以下の箇所の語り口のうまさがよく分かるのはないでしょうか。
いけしゃあしゃあとか、悪びれるふうもないとまでは言いませんが、乱歩らしいなあと感心しないではいられません。見習いたいものだと思います。
いずれにせよ、「私」からバトンタッチされた「友だちのK」である「私」が語る「一人の不幸な友だち」であり、「名前は仮りに彼」とされている人物をめぐっての話には、「そんな都合のいい話があるのかかなあ?」とか「科学的にあり得るのかなあ?」と疑問に思う部分が多々あります。
さきほど述べた小説の作りや、伝聞の処理や、語り口の巧みさがあって、はじめてあのようなラストの奇想が可能になると言えそうです。
というわけで、『鏡地獄』にたくさん出てくるのは「鏡」であって鏡ではありません。とはいうものの、「鏡」の話だからといって、また枠物語だといって、やりすぎてもいないのです。そこが小説家乱歩のうまさでしょう。
だから、この小説を読んで「この文章は科学的ではない、けしからん」とか言って目くじらを立てる人はいないのです。というか、たとえいたとしても、きわめて少数にちがいありません。
小説は事実の報告書ではない。言葉と文字は世界を写すものではない。言葉と物は別物である――。そういうことなのでしょう。別に難しいことではなく、誰もが日々体感し体験しているはずです。というか、体感から外れた思い込みをほぐして除くことのほうがずっと難しい気がします。
*
上で、このように書きましたが、今回は「sense・方向・意味」についての話に入ることができませんでした。次回(この連載は不定期になります)に譲りたいと思います。
(つづく)
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