小説が書かれる時間、小説が読まれる時間(小説の鑑賞・06)
「小説が書かれる時間」と「小説が読まれる時間」には「ずれ」があります。さらには「小説に書かれている時間」とのあいだにも、「ずれ」があります。
時間は一直線に進行していると感じられますが、そのなかに生きる人間にとって、時間は「ずれ」だらけ。人は時間の「ずれ」のパッチワークのなかで生きているのではないでしょうか。
小説は料理に似ている
小説は料理に似ています。つくるのには時間も労力もかかるのに、またたくまに食べられることがあります。
あっけなく平らげられます。せっかくつくったのに……という気持ちもありますが、それよりも、もりもりと食べてもらった喜びのほうがずっと大きいものです。
小説と料理は似たところもあるし、ぜんぜん違うところもありますから、同等同列にあつかうことはできませんが、つくるのに時間がかかるという点ではよく似ていると言えそうです。
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料理をつくる時間、料理が食べられる時間。
小説を書く時間、小説が読まれる時間。
ここでは、「小説が書かれる時間」と「小説が読まれる時間」の差について考えてみます。
小説の時間
よく考えると、「小説を書く時間」と「小説を読む時間」は、かなりずれています。「小説のなかの時間」も、ずれだらけだという気がします。
小説は一気に書かれることはまずありません。時間をかけて、途切れ途切れに書くものでしょう。数年かけて書かれるものもあるそうですし、複数の作品が並行して書かれることもあると聞きます。
それを読者は一気に読むこともあるでしょうし、途切れ途切れに読むこともあるでしょうが、小説が読まれる時間は執筆される時間にくらべればずっと短いです。
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極端な話が、小説より短い俳句や短歌も、紆余曲折があって最終的な形になるのだろうと想像しています。詩もそうにちがいありません。
読み手は、それを一気に読むのです。短いものであればあるほど、一気に読むようです。俳句を途切れ途切れに読むというのは想像しにくいです。
俳句は一気に読まれるもの。俳句はじっくり詠まれるもの。いや、俳句は一気に読んでから、じっくり何度も何度も読めるもの。
短い詩歌に流れている時間も、ずれだらけなのかもしれません。というよりも、川面に近いところはさらさら流れていても、長い長い伝統という時間が底にゆっくりと流れている気もします。
読まないと詠めない。たくさん読まないと、うまく詠めない。これは短い定型詩だけでなく、長い散文である小説でも言えそうです。
小説のなかの時間
一編の小説のなかには不思議な時間が流れています。
小説にかぎらず、そもそも話をするとか、ストーリー(筋)を語るという行為は、じつに複雑な時間を処理しているようです。
時系列に語ったとしても、「でね」「そして」「それから」「いっぽう」という言葉で時間の経過があっさりと処理される場合があります。
小説で、こう書かれていれば、「ああ、そうですか、十年が経ったのですね、はいはい」と読者は受け入れるしかないのです。
話が前後することも、小説ではざらにあります。それを不自然に思わせないのが、作家の技術なのでしょう。
私は小説を書くことがありますが、時間の処理が苦手で、いつも苦労します。
長期にわたって読んでいる小説
一気に読まれる俳句や短歌と異なり、小説の場合には、読者も途切れ途切れ読みますから――途中でトイレに行ったり、スマホをいじったり、翌日に持ち越したり、いまの人は何かと忙しいのです――、読者の興味を維持する書き方が求められています。
比較的暇人であるにもかかわらず、私には数年かけて読んでいる小説があります。聞くところによると、長期間にわたって読まれている小説は意外にあるようです。
持論なのですが、たとえば、マルセル・プルースト作の『失われた時を求めて』や、紫式部の『源氏物語』は、長時間の読書に向いた作品ではなく、長期間の読書に適した作品だと思います。
ちなみに、私が数年かけて読んでいるのは、ローレンス・スターンという人の書いた『トリストラム・シャンディ』です。
じつに長い小説で、恥ずかしい話が、私はまだ読みとおしていません。しかも、じつは途切れ途切れにしか読んでいないのです。
でも、この作品を最初から最後まで、しかも一字一句を完璧なまでに熟読した人を一人だけ知っています。見方しだいでは「書き写した」とも言えるのです。
すごい人で、尊敬しているのですが、個人で英語から日本語に訳した朱牟田夏雄先生です。
海外の長い小説の個人訳、とりわけ本邦初の個人訳というのは、まさに偉業だと思います。横に並んでいるものを縦にしたなんて話では、ぜんぜんないのです。
時間の「ずれ」のパッチワーク
時間は一直線に進行していると感じられますが、そのなかに生きる人間にとって、時間は「ずれ」だらけなのかもしれません。
「やりかけのもの」がたくさんあるという意味です。
読みかけの本、まだやり終えていない仕事、見終わっていない連続ドラマのビデオ、中途のままの別れ話、成長途中の子ども、治っていない病気、返済の終わっていないローン、係争中の裁判……。
そうした「途中にある」「途上にある」「過程にある」ものに、私たちは囲まれて生きています。その「もの」や「こと」には、それ固有の時間が流れているはずです。
それぞれの「もの」や「こと」のなかの時間は、それぞれ「ずれている」とも言えるでしょう。
というか、そもそも自分という存在が「進行中」「進行形」なのです。
人は時間の「ずれ」のパッチワークのなかで生きているのではないでしょうか。つまり、「ずれ」だらけの人生です。
この「ずれ」について、まともに考えたら、人は気が狂う気がします。
時計という「物」や、人が時計で見ている「時間」は、そうした「ずれ」を忘れさせてくれる錯覚製造装置なのかもしれません。
そうした錯覚させてくれる物や概念をつくることで、人は大きな狂いを回避しているのかもしれません。錯覚は知恵、おそらく暗黙知。
錯覚に感謝します。
直線上で迷う、直線は迷路
俳句も短歌も詩も小説も、最初の一文字と最後の一文字があり、直線状だと言えます。
しかも、私たちが目にする最終的な作品は活字で組まれています。一直線に並んだ活字はなんと美しく澄ました顔をしているのでしょう。
ところで、じつは、私たちは直線上で迷っているのです。詳しくは、以下の記事で、どうぞ。短くて読みやすい記事ですので。
大きな声では言えないのですが、じつは「私たちが直線上で迷っている」と口にするのはタブーなのです。
想像してみてください。「直線は迷路であって、私たちはその迷路で迷っている」なんて、ご近所の方に言えますか? お友達に話せますか?
詳しくは、以下の記事で、どうぞ。
活字は澄ましている
話をもどします。
私たちが最終的な作品を目にするときには、活字で組まれています。一直線に並んだ活字はなんと美しく澄ました顔をしているのでしょう。
活字は錯覚製造装置ではないかと思うほどです。まるで、一気に書かれたように、整然とした様子をしているからです。
作家や作者の苦労や、編集者や校正者や出版者とのすったもんだや、印刷のさいのトラブルやら、そうした諸事情がなかったかのようなポーカーフェイス――。
それにまんまとだまされるのが読者なのかもしれません。それが悪いと言っているのではありません。
「小説を読む」「小説を書く」とあっさり言いますが、それは錯覚のうえに成り立っているし(さまざまな「ずれ」を見なかった、考えなかった、なかったことにしている)、そういうものだし、それでいいのだろうと私は思っています。
そもそも錯覚がなければ、人は気が狂うにちがいありません。人は気が狂わないために錯覚という軽度の狂気を利用しているのではないか。最近、そんなふうに感じています。
錯覚に感謝します。
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