共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)
今回は梶井基次郎の小説の読書感想文です。まず、長いですが前提となる話から書きます。
◆物、言葉、そのイメージ
*共鳴、共振、共感
薄っぺらいもの、ぺらぺらしたものが、震える、振れる、鳴る、響く。音声、波、熱が生まれる。
空気、管、線、帯を、通る、伝わる。
薄っぺらいもの、ぺらぺらしたものが、震える、振れる、鳴る、響く。音声、波、熱が生まれる。
共に振れる、共に震える、共に鳴る、共に感じる。交わる。応える。
交感、交信、交通。照応、対応、呼応。
信号、符号、記号。表象、表徴、表号。しるし、符牒、痕跡。
*
薄っぺらいもの、ぺらぺらしたものが、光る、輝く、放つ、発する。
空気、薄っぺらいもの、ぺらぺらしたものを、通る、透る、透き通る。
薄っぺらいもの、ぺらぺらしたものに、当たってはね返る、当たってはじき返る。光る、輝く、放つ、発する。写る、映る。
交感、交信、交響、交通。照応、対応、呼応。
信号、符号、記号。表象、表徴、表号。しるし、符牒、痕跡。
*人の中
鼓膜、声帯、横隔膜、舌、網膜、水晶体
*人の表面
耳たぶ、顔の皮膚、角膜、まぶた、襞
*人の作るもの
太鼓やティンパニなど打楽器の鼓面(ヘッド)、管楽器の管(薄いものを管にしたもの)と弁、スピーカーの振動板、マイクロホンの振動板、障子、幕、膜、スクリーン、画面、紙、書物、巻物、屏風、板、盤、ボード、表、標、票、弁
*自然界
空気、風、空洞、土、地表、地面、水、水面
*動物
鼓膜・横隔膜・声帯、角膜・水晶体・網膜、皮膚、襞
羽、翅、翼
*植物
:葉、花弁、しべ(おしべ・めしべ)
*生と性
せいとせい――。
ぺらぺらしたものや薄っぺっらいものは、生き物の場合には生(生活)と性(生殖)にかかわっているように見えます。
たとえば、人が見たり聞いたりして楽しむ虫の音(翅どうしを擦りあわせたもの)、鳥の鳴き声・さえずり(薄膜状のものをふくむ鳴管と呼ばれる器官を震わせる)、花(花弁やしべ)の色や形は、生き物たちの性(生殖・生存)のために存在するのであって、人のためにあるのではありません。
いま性(生殖・生存)と表記しましたが、性を快楽を目的とした性行為として楽しむのはヒトだけではないでしょうか。それはゲームやスポーツと同じくプレイ(演技・遊戯・演奏・賭け・play)ではないでしょうか。
play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。
せいとせいとせい――性と生と腥。
*
はなのはなははな――。
花(桜)の花(華)は花だ、と誰が決めたのでしょう?
もちろん人です。人というよりヒトでしょうか。
はなの、はなは、はな。そう決めたのは、ひとというよりもひと。
*共鳴、共振、共感
薄っぺらいものを題材にして、歌ったり語ったり書いた、歌人・詩人(うたびと・かじん・しじん)や書き手(物語作家・小説家)は古今東西において、おびただしい数にのぼるでしょう。
ただし、「薄っぺらいもの」が題材になったとしても、「薄っぺらさ」じたいがテーマになることは稀だと思います。「薄っぺらさ」はふだんは意識されないからでしょう。
とはいうものの、薄っぺらいものは目に付かない形でその存在をあっけらかんとさらしているのです。見えていながら見えない。それが薄っぺらさのきわだった特徴だと言えます。
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今回は梶井基次郎の、ある掌編を取りあげます。
梶井の諸作品にはさまざまな薄っぺらいものとそれにまつわる言葉とイメージが出てきます。
昆虫もふくむ動植物を題材にしたものが多い梶井の作品は、広く読まれているようです。
私は小説の内容や筋を追うのが苦手なので、ただ細部を引用して、思うところを簡単に述べるという書き方にします。
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梶井基次郎の作品には、動植物に対する共鳴、共振、共感が顕著に見られます。
共鳴と共振は理科でも出てきそうな言葉でありイメージですが、その根底には共通して振動があります。
振動はぺらぺらしたものを舞台にして起きる現象です。「共に鳴る」、「共に振れる」ということでしょう。
共感とは「共に感じる」ことですが、これは人どうしのあいだで起きる感情をめぐっての言葉です。
でも、人は擬人をします。世界や宇宙に人、つまり自分を見るのです。
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ヒトは擬人をする生き物です。世界、森羅万象、宇宙を相手にして、人に擬する、つまり自分に擬するというきわめて珍しい行動を取ります。
つまり、擬人とは一方的で一方向的な行為なのです。自分だけに通じる話とか、自分だけが受けるギャグにたとえると分かりやすいかもしれません。
なんて書くと味も素っ気もない話になりますが、考えようによってはというか、見方を変えれば素晴らしい話にもなるでしょう。
私は梶井基次郎の作品にヒト以外の生き物、そして自然への共感を感じます。それは交感と言ってもいいかもしれません。
その共感と交感について書いてみたいと思います。
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梶井の作品は短いものばかりですから、未読の方は、これを切っ掛けにぜひ原文をお読みになってください。
引用にさいして使用するのは『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)です。
◆『愛撫』
薄っぺらいものと、それにまつわる言葉と、そのイメージ(視覚的イメージと聴覚的イメージと触感的イメージ)を列挙します。
タイトルの『愛撫』じたいが手を表面に当てて働きかける行為である「撫でる」「撫ぜる」「なでなで」です。対象を触知するイメージを感じます。
言葉、とりわけ文字で記述する行為は、体感したことや思いを文字という物に置き換える作業です。立体(現実)を平面(文字)に「変える」とも言えます。私たちは立体の「代りに」平面で済ます世界に生きています。
「ものを書く」とは文字ではないものと文字との類似点や呼応をはかり探ることにほかなりません。具体的には、文字を触知し、それこそ撫でるようにして、「なぞる」いとなみだと思います。
『愛撫』は絶妙なネーミングだと感心しないではいられません。
以下の細部で私が注目するのはルビの使い方です。漢字という文字の物質性とひらがなの音楽性――両者の類似を超えた呼応が楽しめます。
呼応と言えば、化粧という顔の表面の皮膚を撫でる、塗る、叩く、引っ張る行為と、猫の手(猫の前足)とを、紙の上の文字として絡ませた(出会わせた)梶井基次郎のしなやかな感性と手際に、「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的な出会い」(「マルドロールの歌」ロートレアモン伯爵)という例のフレーズを思いだします。
切り離されたとほのめかされている猫の前足(猫の手)が出てくる箇所を読みながら、川端康成(梶井と川端は親交があったそうです)の『片腕』を連想するのは私だけでしょうか。
なお、『愛撫』は青空文庫でも読めます。
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・p.215「猫の耳」、「薄っぺたくて、冷たくて竹の子の皮のように、表には絨毛が生えていて、裏はピカピカしている。」、「切符切り」、「抓っていた」
・p.216「外観上」、「厚紙」、「兎のように耳で吊り下げられても」、「引張る」、「破れた」、「痕跡」、「補片が当たっていて」、「指でつまむ」、「悲鳴」、「耳を噛んでしまった」、「悲鳴は最も微かなところからはじまる。だんだん強くするほど、だんだん強く鳴く。」、「なんだか木管楽器のような気がする。」
・p.217「猫の爪」、「爪を研ごうとする。」、「ブルブル慄えずにはいられない。」、「髭を抜かれても」
・p.218「柔らかい蹠の、鞘のなかに隠された、鉤のように曲がった、匕首のように鋭い爪!」、「新聞かなにかを見ながら」、「猫の手で顔へ白粉を塗っているのである。」、「それなんです? 顔をコスっているもの?」
・p.219「彼女の残酷さに舌を巻きながら尋ねて見ると」、「婦人雑誌か新聞かで読んだような」、「猫の手の化粧道具!」、「(猫の前足)の毛並を撫でてやる。彼が顔を洗う前足の横側には、毛脚の短い絨毯のような毛が密生していて、なるほど人間の化粧道具にもなりそうなのである。」、「私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠を、一つずつ私の目蓋にあてがう。」、「温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。」、「しばらく踏み外さないでいろよ。お前は直ぐ爪を立てるのだから。」
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猫の前足(手)という物を仲立ちにして、女性の化粧という行為と、「私」の猫とのじゃれあい(触れ合い)が、いわば皮膚どうしの「すりあい」「たわむれ」として言葉(文字)にされています。
私がいちばんそれを感じるのはラストの段落と一行です。
目蓋(身体の表面・平面)から眼球(身体の内部・立体)へという官能的なまでの展開が象徴的です。意表を突く鮮烈な展開で鳥肌が立ちます。
この描写を頭の中で視覚化してみてください。書きようによっては猟奇的で下品に(場合によっては滑稽にも)なりそうなのですが、ぜんぜんそうではありません。
映像ではなく、言葉だから文字だからこそ可能な技なのです。こうした技を使える書き手は限られていると思います。
眼球が肉球によって「愛撫」されるーーぞくっとするイメージではないでしょうか?
バタイユもびっくり肉球パフの眼球譚。
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自然と人工、自然物と人工物、動物と人間、物と行為、快と不快、快楽と痛み、慈しみと残酷さ、立体と平面、厚いものと薄いもの、厚さと薄さ、厚い皮膚と薄い皮膚、軽薄短小と重厚長大、表面と内部、表層と深層――。
シャルル・ボードレールが「Correspondances」(「交感」とか「万物照応」と訳されています)という詩でうたった、五感が響き合い、知と感がともに振れ合う世界のような文章です。
描写(散文)に象徴(詩)を読む、平面(記号・文字)に立体(深さと奥行き)を読む。これが、散文詩のようだと言われることもある梶井の掌編の醍醐味だと言えそうです。
こうした読みが、「作者の意図や思い」と呼ばれるものを超えた自立した存在である、平面上の薄っぺらい文字に立ち現れる「事件や出来事」との出会いであるのは言うまでもありません。
いま述べたことは、ものを書く人がその書く一瞬一瞬に体感しているはずです。主導権は文字と「読む」側にあるという意味です。
『愛撫』のラストにおける眼球と肉球の遭遇ーーこれは「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的な出会い」に匹敵する「事件」だと思います。
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引きつづき、梶井基次郎の掌編を読んでいきます。
(つづく)