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言葉をうつす言葉、文字をうつす文字(「鏡」を読む・02)


◆言葉をうつす言葉、文字をうつす文字

*文字がうつすものは文字

 江戸川乱歩の『鏡地獄』の最大の奇想は、鏡ではなく「鏡」という「文字」を真っ向からテーマにしたことだと私は思います。この短編のテーマは、鏡という「もの」ではなく、「鏡」という「文字」だと言いたいのです。
(拙文「「鏡」という「文字」、鏡という「もの」(「鏡」を読む・01)」より)

 上は、「「鏡」を読む」という連載の第一回に書いた文章ですが、今回はそれを変奏してみます。

 言葉は言葉をうつす
 言葉は世界をうつさない
 言葉は世界ではない、世界は言葉ではない
 言葉と世界は別物

 文字は文字をうつす
 文字は世界をうつさない
 文字は世界ではない、世界は文字ではない
 文字と世界は別物

 鏡は鏡をうつす
 鏡は世界をうつさない
 鏡にうつるものは世界ではない、世界は鏡にうつるものではない
 鏡にうつるものと世界は別物

     *

 言葉(話し言葉・音声)がうつす(写す・映す・移す)のは言葉であり、文字がうつす(写す・映す・移す)のは文字であり、鏡がうつすのは鏡像である――とまとめることもできます。

*「文章は言葉で書く」


 ところで、『鏡地獄』の細部を見る前に、さきほど読みかえした文章があるので紹介します。

 詩は言葉で書くとマラルメは教へたさうだが、同様に文章は言葉で書く。いや、文学論の席ではないから、ここでは別の言ひまわしを選ぶほうがいいかもしれない。それならいっそ、個々の文センテンスを分析すれば言葉といふ単位にたどり着く、とでも言ひ直そうか。とにかく、ハムレットではないけれど、言葉だ、言葉、言葉。
(丸谷才一『文章読本』(中公文庫)p.106)

 引用したのは、丸谷才一著『文章読本』の「第六章 言葉の綾」の冒頭です。この本で書かれていることを短くまとめろと言われたら、「文章は言葉で書く」だと私は答えます。

 この、あまりにも当たり前の事実について具体的に例文を挙げて書かれているのが、丸谷の『文章読本』なのです。挙げられているかずかずの例文は、その事実を実証するためだけに引用されている。そう言っても言い過ぎではありません。

 丸谷がこれだけ執拗に、言い換えれば、噛んで含めるように何度も「文章は言葉で書く」と説いているのですから、「文章は言葉で書く」と思っていない人がいかに多いかが知れるというものでしょう。

 僭越ながら私は「文章は文字で書く」と強調したいと思います。文字だ、文字、文字。Letters, letters, letters.

     *

 ただし、文字(letter)からなる文学(letters)に見られるさまざまな修辞(rhetoric)に与えられた名称(label)にとらわれて、生きた細部をないがしろにしたレッテル(letter)張りに熱中しないように気をつける必要があるのは言うまでもありません。

 文字(letters)、文学(letters)、レッテル(letters)。

     *

 なお、私は丸谷才一の『文章読本』では、「第九章 文体とレトリック」がいちばん好きで、ときどき読みかえします。

 そこでは、大岡昇平の『野火』から例文が取られて、丸谷によるコメントが添えられているのですが、具体的でとても読みごたえがあります。これほど説得力のある文章の分析を私は知りません。

 志賀直哉と同じく、レトリックとは無縁な散文の書き手と誤解されがちな大岡昇平の文章の修辞を具体的に指摘していく手際が見事なのです。方法は異なりますが、志賀直哉の文章にまつわる誤解に満ちた神話を鮮やかに解体してみせた後藤明生を思いだします。

 丸谷才一の『文章読本』は私にとって、他者の文章について具体的に語りたいと思うときに参照するお手本です。

 丸谷先生の足もとに遠く及ばない私ですが、できるだけ具体的に『鏡地獄』の文章を見ていきたいと思います。私の目の前にあるのは作品の文字しかないのです。

 とはいうものの、体力が低下しているので、この記事を書くためにノートに取った読書メモを、ここに書き写すだけになっていることをお詫び申しあげます。

 書けるうちに書いておきたいのです。

*枠物語・額縁小説という仕掛け


『鏡地獄』は次のように始まります。

「「鏡」という「文字」、鏡という「もの」(「鏡」を読む・01)」で述べたように、一行空けで語り手が変わりますが、いわゆる枠物語の形式です。

「珍らしい話とおっしゃるのですか、それではこんな話はどうでしょう」
 ある時、五、六人の者が、怖い話や、珍奇な話を、次々と語り合っていた時、友だちのKは最後にこんなふうにはじめた。ほんとうにあったことか、Kの作り話なのか、その後、尋ねてみたこともないので、私にはわからぬけれど、いろいろ不思議な物語を聞かされたあとだったのと、ちょうどその日の天候が春の終りに近い頃の、いやにドンヨリと曇った日で、空気が、まるで深い水の底のように重おもしく淀んで、話すものも、聞くものも、なんとなく気ちがいめいた気分になっていたからでもあったのか、その話は、異様に私の心をうったのである。話というのは、

 私に一人の不幸な友だちがあるのです。名前は仮りに彼と申して置きましょうか。その彼にはいつの頃からか世にも不思議な病気が取りついたのです。ひょっとしたら、先祖に何かそんな病気の人があって、それが遺伝したのかもしれませんね。(……)
(江戸川乱歩『鏡地獄』(『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』創元推理文庫)所収・p.144・以下同じ・丸括弧とリーダーによる省略は引用者による) 

 そして、次のように終わります。

 彼はその後、狂ったままこの世を去ってしまいましたので、事の真相を確かむべきよすがとてもありませんが、でも、少なくとも私だけは、彼は鏡の玉の内部を冒したばっかりに、ついにその身を亡ぼしたのだという想像を、今に至るまでも捨て兼ねているのであります。
(p.163)

    *

『鏡地獄』は青空文庫でも読めます。

*鏡を模倣した作り

 
 冒頭の「一行空け」に注目しましょう。あれは、鏡なのです。

 鏡は境、境界は鏡界でもあります。

私⇒K
(一行空け=鏡・境界)
私=K⇒彼

 私・W(鏡・境界)W・私

 鏡を真似て作ってあるのです。

 枠物語であれば、最初に出てくる語り手である「私」と、その「私」が語りをバトンタッチした「友だちのK」、つまり新しい語り手の人称代名詞を変えてもいいのではないでしょうか?

 混乱を避けるために、あるいは物語を本当らしくするために、たとえば「わたし」とか「僕」に変えるのが小説の技巧ですし、読者へのサービスでしょう。普通は。

 でも、かの乱歩はまったく同じ文字である「私」を当てているのです。普通ではないからにほかなりません。

 くり返します。

 江戸川乱歩の『鏡地獄』の最大の奇想は、鏡ではなく「鏡」という「文字」を真っ向からテーマにしたことだと私は思います。 

 私・W⇒K・気(K)・気(K)・気(K) 
 (一行空け=鏡(K))
 私・W=K・仮(K)・彼(K)・彼(K)・気(K)・気(K)

 共鳴と反復と反響と反射が起こっています。

 半分冗談(半分は本気です)はさておき、これを乱歩の技巧と考えなくて何と考えればいいのでしょう? 

 わざとやっているのに決まっています。



(K)



W┃W
 

 大切なことを言います。

 うつっているものも、うつされているものも、うつしているものも、文字であり言葉なのです。

 うつる・うつす、くりかえす、ひびく
 共鳴、反復、反響、反射

文字
(文字)
文字

*一人二役、分身

 冒頭にある「ほんとうにあったことか、Kの作り話なのか、その後、尋ねてみたこともないので、私にはわからぬけれど、」というほのめかしに、乱歩が頻用したテーマを垣間見ることができます。

 一人二役、分身というテーマです。

『一人二役』『二銭銅貨』『影男』『人間豹』『二癈人』『双生児』『白昼夢』『夢遊病者の死』『百面相役者』『人間椅子』『覆面の舞踏者』『人でなしの恋』『押絵と旅する男』――

 上の乱歩の作品名を見ていると、タイトルそのものから、

「AであってBでもある」「Aとも言えるしBとも言える」「AのようでもありBのようでもあり、どちらでもないようにも見える」

というオブセッションが感じられます。

 鏡はあらゆるものの分身をうつします。鏡を前にしたとたん、あらゆるもの――人も人以外の生き物も生きていない物も――が一人二役を演じざるをえないのです。

*鏡は「うつす・うつる」の代名詞であり王者

『鏡地獄』はそうした「鏡」をめぐっての話なのですが、枠物語の形で出てきた二人の「私」という語り手がそれぞれに持つ両義性が、鏡の特性と、それに似た言葉と文字の特性を浮かび上がらせる作りになっています。

 言葉は鏡のように世界をうつす
 文字は鏡のように世界をうつす
「鏡」は鏡のように世界をうつす

「○○は鏡のようにうつす」という言い回しがあることから分かりますが、鏡は「うつす・うつる」という現象の代名詞であり王者(チャンピオン)なのです。「鏡は○○のようにうつす」とは言わないという意味です。

「鏡」という言葉は「うつす・うつる」にまつわる比喩の王者とも言えます。なお、「のように」と直喩(明喩)という形で名指さなくても、つまり隠喩(暗喩)であっても、その影に隠れています。

 鏡の持つ意味性と象徴性がいかに特権的なものであるかが実感できます。表象、象徴、記号、意味といったことを考えるさいに鏡とそのイメージを除外するわけにはいきません。

 その意味で、首尾一貫して「鏡」と真っ向から向き合っている『鏡地獄』は実に野心的な試みをしていると言えるでしょう。

*語り、騙り、かたり


 一行空けの前と後との違いはと言えば、常体から敬体に変わったことぐらいでしょう。「ぐらいでしょう」なんて書きましたが、これもまた乱歩の技巧だと私はにらんでいます。

 常体 ⇒ 敬体
 
敬体 ⇒ 常体

 敬体は語るのに適した文体なのです。

 騙るのにも適していると言いたいところですが、主に敬体で記事を書いている私としては声をひそめたいところです。いろいろと細工ができることは確かだとだけ言っておきます。 

 一行空けて同じ顔をした「私」が声色を変えて話が始まったようなものです。敬体を用いて読者に話し掛けるようにして、まことしやかに、つまりいかにも本当の話らしく語るという仕掛けになっています。

*「鏡」という文字で鏡という「もの」を語るという大芝居


 くり返します。

 言葉は言葉をうつす
 言葉は世界をうつさない
 言葉は世界ではない、世界は言葉ではない
 言葉と世界は別物

 文字は文字をうつす
 文字は世界をうつさない
 文字は世界ではない、世界は文字ではない
 文字と世界は別物

 鏡は鏡をうつす
 鏡は世界をうつさない
 鏡にうつるものは世界ではない、世界は鏡にうつるものではない
 鏡にうつるものと世界は別物

 上の太文字の部分にカチンときた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 何をふざけたことを言っているのだ。言葉は世界をうつすし、文字も世界をうつすし、鏡も世界をうつすに決まっているじゃないか――。

というふうに。 

 私だって普段はそう考えています。というか、文字を目の前にしていないときには、そう考えています。ところが、文字を前にすると、文章を前にすると、とりわけ文学作品を目の前にすると、考えが変わります。

 言葉がうつすのは言葉
 文字がうつすのは文字
 言葉も文字も鏡ではない

     *

 話を戻します。

 言葉は世界をうつす
 文字は世界をうつす
 鏡は世界をうつす

 そのとおりです。

 それほど言葉と文字と鏡は同一視されているのです。

 だからこそ、

「鏡」という文字で鏡という「もの」を語るのです。

という形で書かれたこの小説はユニークであり、すごい奇想だと私は言いたいのです。

*鏡の裏に浮彫りになった文字が平面である壁の表面にうつる


 上で述べた見立てで読むと、『鏡地獄』で最初に出てくる「鏡」の話が象徴的な意味を帯びて感じられます。

 私に一人の不幸な友だちがあるのです。名前は仮りに彼と申して置きましょうか。その彼にはいつの頃からか世にも不思議な病気が取りついたのです。ひょっとしたら、先祖に何かそんな病気の人があって、それが遺伝したのかもしれませんね。というのは、まんざら根のない話でもないので、いったい彼のうちには、おじいさんか、ひいじいさんかが、切支丹キリシタンの邪宗に帰依きえしていたことがあって、古めかしい横文字の書物や、マリヤさまの像や、基督キリストさまのはりつけの絵などが、葛籠つづらの底に一杯しまってあるのですが、そんなものと一緒に、伊賀越道中双六いがごえどうちゅうすごろくに出てくるような、一世紀も前の望遠鏡だとか、妙なかっこうの磁石だとか、当時ギヤマンとかビイドロとかいったのでしょうが、美しいガラスの器物だとかが、同じ葛籠にしまいこんであって、彼はまだ小さい時分から、よくそれを出してもらっては遊んでいたものです。
 考えてみますと、彼はそんな時分から、物の姿の映る物、たとえばガラスとか、レンズとか、鏡とかいうものに、不思議な嗜好しこうを持っていたようです。それが証拠には、彼のおもちゃといえば、幻灯器械だとか、遠目がねだとか、虫目がねだとか、そのほかそれに類した、将門まさかど目がね、万華鏡まんげきょう、眼に当てると人物や道具などが、細長くなったり、平たくなったりする、プリズムのおもちゃだとか、そんなものばかりでした。
 それから、やっぱり彼の少年時代なのですが、こんなことがあったのも覚えております。ある日彼の勉強部屋をおとずれますと、机の上に古い桐の箱が出ていて、多分その中にはいっていたのでしょう、彼は手に昔物の金属の鏡を持って、それを日光に当てて、暗い壁に影を映しているのでした。
「どうだ、面白いだろう。あれを見たまえ、こんな平らな鏡が、あすこへ映ると、妙な字ができるだろう」
 彼にそう言われて、壁を見ますと、驚いたことには、白い丸形の中に、多少形がくずれてはいましたけれど「寿」という文字が、白金のような強い光で現われているのです。
「不思議だね、一体どうしたんだろう」
 なんだか神業とでもいうような気がして、子供の私には、珍らしくもあり、怖くもあったのです。思わずそんなふうに聞き返しました。
「わかるまい。種明かしをしようか。種明かしをしてしまえば、なんでもないことなんだよ。ホラ、ここを見たまえ、この鏡の裏を、ね、寿という字が浮彫りになっているだろう。これが表へすき通るのだよ」
(pp.145-146・太文字は引用者による)

*p.145
・「望遠鏡」:初めて出てくる「鏡」という文字。
・「ギヤマン」、「ビイドロ」、「美しいガラスの器物」:ガラスへの言及、ガラスの変奏。

・「物の姿の映る物、たとえばガラスとか、レンズとか、鏡というものに、不思議な嗜好しこうを持っていたようです。」:状況の説明。彼の「嗜好」の記述。「嗜好」という言葉の選択に注目。彼の異常性と過度の傾倒を暗示し予告する。

・「幻燈器械だとか、遠目がねだとか、虫目がねだとか、そのほかそれに類した、将門まさかど目がね、万華鏡まんげきょう、眼に当てると人物や道具などが、細長くなったり、平たくなったりする、プリズムのおもちゃだとか」
列挙に注目。言葉(文字)の列挙によって、雰囲気、「らしさ」、「っぽさ」を盛りあげていく。この作品が、ガラスとレンズと鏡についての小説であることの「証明」にする。「眼鏡」ではなく「目がね」と表記するのは「鏡」を故意に消しているのか。「鏡」という文字が連続すると字面がうるさくなるからかもしれない。

・「彼は手に昔物の金属の鏡を持って、それを日光に当てて、暗い壁に影を映しているのでした。」:いきなり「金属の鏡」の話になることに注目。昔の鏡はガラス製ではなく金属製だったからだろう。「らしさ」「っぽさ」を強調しているとも取れる。「影を映している」に注目。この小説の主要なテーマと主要なイメージ。「日光」と「暗い壁」のコントラストと反転。陽と陰、光と影、明と暗、昼と闇。

・「「どうだ、面白いだろう。あれを見たまえ、こんな平らな鏡が、あすこへ映ると、妙な字ができるだろう」」:「映る」ことで「妙な字ができる」、「うつる」が「妙な」もの(字)の生成へとつながる。「平ら」が「妙」に転じる。

・「彼にそう言われて、壁を見ますと、驚いたことには、白い丸形の中に、多少形がくずれてはいましたけれど「寿」という文字が、白金のような強い光で現われているのです。」

・「この鏡の裏を、ね、寿という字が浮彫りになっているだろう。これが表へすき通るのだよ」

【※「金属の鏡」と「寿という字」については、「「鏡」という「文字」、鏡という「もの」(「鏡」を読む・01)」で触れています。】

*写った文字と映った文字


 上で述べたことを図式化して説明します。

 ・金属の鏡の裏に浮彫りにされている文字「寿」立体(半立体)
 =写されている文字
 ・金属の鏡の表(平面)に日光を当てる・表面(おもてめん・ひょうめん)が反射する
 ・暗い壁(平面)に影が映る・「「寿」という文字が、白金のような強い光で現われている」・平面に文字の影(像・姿)が映る・反映・反影

 平面上の立体 ⇒ 平面上の影
 写 ⇒ 映
 写っている文字(複製) ⇒ 映っている文字(影)
 書かれた(掻かれた)文字 ⇒ 浮んでいる文字

 写っている文字は、写っている場としての物に付いています。その意味では物だとも言えるでしょう。処分しないかぎり物として(物に付いて・取り憑いて)そこにあります。

 映っている文字は、影ですから実体はないとも言えるでしょう。像として表面に浮んでいる感じ。影ですからやすやすと消せるし、放っておけばそのうち消えます。

     *

 写っている文字・何かの表面に付いている(憑いている)文字
 映っている文字・影として何かの表面に浮んでいる文字
 うつっている文字と、うつっている文字に付いている(憑いている)人間

「K=私」の語る、鏡という「もの」に取り憑かれた人間(「彼」)を読んでいる、鏡という「もの」に取り憑かれた人間(私たち)
 文字に「もの」を見てしまう、文字という鏡に取り憑かれた人間(私たち)

 上のように考えると、『鏡地獄』というネーミングが象徴的に見えてきますが、それは私たちが鏡地獄の住人だからかもしれません。

 さらに言うなら、『鏡地獄』は『「鏡」地獄』、つまり『「鏡」「字」獄』でもあるのです。私たちは、鏡という文字からなる獄にいる囚人(とらわれびと)だという意味です。

◆置き換えられないもの同士を同一視する


「「鏡」という「文字」、鏡という「もの」(「鏡」を読む・01)」では以下のようにも書きました。

「「鏡」を読む」という連載では、「sense・方向・意味」をキーワードにして『鏡地獄』を読んでみたいのですが、それは『鏡地獄』を読んでいると、蓮實重彥『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収の「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」を思いだし、逆に後者を読んでいると前者を連想するという、私が勝手に作った見立てだからにすぎません。 

 蓮實重彥『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収の「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」から気になる箇所を以下に引用します。気になるのは「鏡」という言葉が出てくるからです。

『差異と反復』の序章の冒頭で、ドゥルーズは「反復」をめぐる思考が陥りがちな悪しき混同について触れながら、「差異」と「一般性」とを分離することの必然性を説いている。たしかに、同じことがらがいま一度あらためて繰り返されるようなとき、誰もがそこに一般性の秩序が確認されたと思いがちであり、とりわけ何度でも同じ現象が再現されるような実験に立ち会ったりすると、これは間違いないと安心してしまう。そんなとき、「反復」こそが秩序の恒常性の保証のように考えられがちだが、そうした現象の律儀なる再現は、ほとんど抽象に近い実験室という限定された空間の中でのみ可能な人工的な「反復」であり、たとえば鏡の上に反映する影とか谷間に反復するこだまといった現実の体験を思い起こしてみるなら、むしろ一般性を欠いたものこそが「反復」の条件だと知れるはずだ。一般性とは、類似性による質的な秩序と、等価性からなる量的な秩序に支えられて、交換と代置の可能性を特徴とする領域であるが、では、鏡の前の顔とその表面の反映とをいったいどうやって交換し、代置するというのか。「反復」という現象は、水面をのぞきこむナルシスとその影像のように、代置されえぬものとの関係ではじめて可能となる身振りであり、恒常的な秩序や法則に律儀に従属したりするものではない。
(蓮實重彥「不実なる不均衡」「5ーー素顔をまとった仮面たち」「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』pp.110-111)

 引用文では、「鏡」という言葉が「一般性」という文脈に出ているのですが、ここではあえてその「鏡」という言葉のイメージだけに注目します。

 というのは、ここでは江戸川乱歩の『鏡地獄』という小説の中に出てくる「鏡」という文字についての話をしているからにほかなりません。その話とは、上で述べた以下のフレーズをめぐっての話なのです。

     *

 くり返します。

 言葉(話し言葉・音声)がうつす(写す・映す・移す)のは言葉であり、文字がうつす(写す・映す・移す)のは文字であり、鏡がうつすのは鏡像である――とまとめることもできます。

 上の文をさらに変奏します。 

 私たちは、「鏡」という文字を見ると、鏡という「もの」を思い浮かべたり、思い出したり、思い描いたりしますが、それは「思い」としての「「鏡という「もの」」であり、鏡という「もの」ではありません。

「鏡」という文字と、鏡という「もの」と、「思い」としての「「鏡という「もの」」は、それぞれが別物だという意味です。

 別物である三者が、「鏡」という文字で一本化されているとも言えます。

 文字(言葉でもいいです)で一本化されているために、日常生活では「鏡」という文字(言葉でもいいです)と、鏡という「もの」と、「思い」としての「「鏡という「もの」」を区別することはないのです。

 それが現実です。私はその現実を否定しようとは思いません。というか否定できるわけがありません。

 いずれにせよ、別物を一本化する(同一視する・混同する)――これは学習の成果です。大雑把に言えば、言語や文字体系が異なれば異なった文字(文字列)が一本化を務めます。

 さらに言うなら、鏡という「もの」と、「思い」としての「「鏡という「もの」」は人それぞれですが、話がややこしくなるので、そこまでは考えません。単純化して話を進めます。

     *

・「似ている」および「同じに見える・思える」(「類似性」・「等価性」)からといって「置き換えができる」(「交換」と「代置」が可能な)わけではない。

 この指摘に私は注目します。

・鏡を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「自分」である。
鏡を前にしたとき、目の前に見えるもの(鏡像)と「自分」はそっくりに見えるが、そう見えるだけでそっくりではない。両者は置き換えられない。つまり別物である。とはいえ、両者が別物だというのは知識と情報であり、両者はそっくりであって置き換えられるかもしれないという思いと体感は強い。

・文字を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「目の前に見えないもの」である。
・文字を前にして同一視するのは、目の前に見えるもの(文字)と「目の前に見えないもの」(文字が指し示すものや文字が連想させるもの)である。
文字を前にしたとき、目の前に見えるもの(文字)と「目の前に見えないもの」(文字が指し示すものや文字が連想させるもの)は同じである、またはつながっているとに感じられるが、そう感じるだけで同じではない。ただし、つながりは考え方次第であると言える。いずれにせよ、両者は置き換えられない。つまり別物である。とはいえ、両者が別物だというのは知識と情報であり、両者はどこかでつながっていて置き換えられそうだという思いと体感は強い。

*「似ている」のしつこさ、「真似る」のしぶとさ


 鏡に映っている像と、鏡に映っているもののそっくりさは、人にとってはなかなか拭い去ることができない。

 似ているのしつこさ。視覚の特権性。
 鏡とそのイメージの特権性はきわめて強い。

 映像(映っている像)は映っているものの代りとして用いられる。
 写真、映画、テレビ放送、動画、光学器械(機械・システム)を用いて作られた映像(拡大・縮小された像、ある部分だけを見えるようにして作られた像、CT、MRI、レントゲン)。

 こうした映像が広く用いられているのは、映っている像と映っているものという別物同士の間での「対応」という概念が広く支持されているからでしょう。

     *

 文字と、文字が指し示すものは、ぜんぜん似ていないにもかかわらず、そのつながり感を打ち消すことは、人情としてなかなかできない。

 長年継承され蓄積された学習(真似る・くり返す・学ぶ)という体系および仕組みのしぶとさ。学習(真似る・くり返す・学ぶ)の効果の特権性。学習が体感にまでなっている。

 文字の特権性はきわめて強い。

 文字からなる文書は、文字と文書が指し示すとされるものの代りとして用いられる。

 ありとあらゆるものが文字にされて投稿・配信・複製・拡散・保存される。

 宣伝文、広告文、報道文・ニュース、メール、手紙、SNSでのやり取り、経典、聖典、法典、百科事典、辞典、史書、法螺話、夢物語、寝言、年表、文学全集、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き。

*文字の演技力、人の学習能力


 どうして鏡が人にとって特権的な意味を持つのかですが、これは文字と深い関係があります。両者の共通点から見てみましょう。 

 鏡と文字は同じくらい人にとって基本的な錯覚であることが挙げられます。

・同じではない別物同士(像・姿・形と鏡像)を、そっくりに見せる鏡。視覚的な効果(錯覚)の利用。
・同じではなく似てもいない別物(事物・現象と文字)同士を、それぞれから連想させる文字という仕組み。学習の成果。

     *

 次に比喩から考えてみましょう。

 鏡は「うつす・うつる」という比喩のチャンピオンです。やはり「うつす・うつる」である水面や瞳とは異なり、人が作ったものだからです。鏡は「うつす・うつる」に特化した人工物ですから、「うつす・うつる」に関しては最強とも言えます。

 言い換えると、鏡は人が「うつす・うつる」という目的で一生懸命にこしらえた「うつす・うつる」なのです。

 ○○はXXをうつす鏡である。
 ○○はXXをうつす鏡のようなものである。
 ○○という鏡。鏡としての○○。

 鏡が○○(鏡ではないもの)の比喩として用いられることはあっても、その逆は考えにくいです。つまり、鏡ではないものが鏡の比喩として用いられることは考えにくいという意味です。

 文字(文章)はXXをうつす鏡である。
 文字(文章)はXXをうつす鏡のようなものである。
 文字(文章)という鏡。鏡としての文字(文章)。

 文字(文章)は世界(森羅万象)をうつす鏡である。
 文字(文章)は世界(森羅万象)をうつす鏡のようなものである。

 私は上の比喩よりも力強く人に「うつす・うつる」をイメージさせる比喩が思いつきません。

     *

 文字は人にとって鏡にほぼ匹敵する「うつす・うつる」だと思います。「ほぼ」と留保したのは、文字には鏡のように「そっくり」感がない、つまりその対象とぜんぜん「似ていない」からです。

 それにもかかわらず、ある分野では鏡にはできない「うつす・うつる」の振りを装い演じるのですから、文字の演技力には脱帽しないではいられません。

 文字のすごさは振りの演技力です。もちろん、それを支えるのは人の学習能力(真似る・学ぶ)でしょう。

 とはいうものの、ある文字を学んでいない人には、その文字はしみか模様にしか見えませんが、鏡や鏡像や映像を見せれば、一目瞭然に相手に伝わるという点で、鏡には負けます。

 鏡も振りを装うのはもちろんですが、いわば演技を免除されているのです。それほど「そっくり」は有利なのです。

 そっくりどころか似てもいない文字は苦労して振りを身につけます。というか、苦労して文字に振りを見るべく学習に励むのは人なのです。

 このように文字と人間の関係は実に不思議です。道具という言葉では片づけられない摩訶不思議さがあります。

 文字のありようを観察すればするほど驚かされます。どこか奇怪であり、不気味で得体が知れないのです。⇒「異物の異物性(異物について・02)」

*鏡・K、反響・反射


『鏡地獄』の最後を見てみましょう。そこにある文字を読むというよりも、文字どおり文字を眺めてみましょう

 それは、到底人間の想像を許さぬところです。球体の鏡の中心にはいった人が、かつて一人だってこの世にあったでしょうか。その球壁に、どのような影が映るものか、物理学者とて、これを算出することは不可能でありましょう。それは、ひょっとしたら、われわれには、夢想することも許されぬ、恐怖と戦慄の人外境ではなかったのでしょうか。世にも恐るべき悪魔の世界ではなかったのでしょうか。そこには彼の姿が彼としては映らないで、もっと別のもの、それがどんな形相ぎょうそうを示したかは想像のほかですけれども、ともかく、人間を発狂させないではおかぬほどの、あるものが、彼の眼界、彼の宇宙を覆いつくして映し出されたのではありますまいか。
 ただ、われわれにかろうじてできることは、球体の一部であるところの、凹面鏡の恐怖を、球体にまで延長してみるほかにはありません。あなた方は定めし、凹面鏡の恐怖なれば、御存じでありましょう。あの自分自身を顕微鏡にかけて覗いて見るような、悪夢の世界、球体の鏡はその凹面鏡が果てしもなく連なって、われわれの全身を包むのと同じわけなのです。それだけでも、単なる凹面鏡の恐怖の幾層倍、幾十層倍に当たります。そのように想像したばかりで、われわれはもう身の毛もよだつではありませんか。それは凹面鏡によって囲まれた小宇宙なのです。われわれのこの世界ではありません。もっと別の、おそらく狂人の国に違いないのです。
 私の不幸な友だちは、そうして、彼のレンズ狂、鏡気ちがいの最端をきわめようとして、きわめてはならぬところを極めようとして、神の怒りにふれたのか、悪魔の誘いに敗れたのか、遂に彼自身を亡ぼさねばならなかったのでありましょう。
 彼はその後、狂ったままこの世を去ってしまいましたので、事の真相を確かむべきよすがとてもありませんが、でも、少なくとも私だけは、彼は鏡の玉の内部を冒したばっかりに、ついにその身を亡ぼしたのだという想像を、今に至るまでも捨て兼ねているのであります。
(pp.162-163)

 引用文では共鳴と反復と反響と反射が起こっています。

 具体的に見ていきます。

     *

体のの中心にはいった人」、「その壁に、どのようなが映るものか」、「怖と戦慄の人外」、「そこにはの姿がとしては映らないで」、「人間を発させないではおかぬほどの」、「の眼の宇宙を覆いつくして映し出されたのでは」、「体の一部であるところの、凹面怖を、体にまで延長してみる」、「凹面怖なれば」、「にかけて覗いて見るような、悪夢の世体のはその凹面が果てしもなく連なって」、「凹面怖の幾層倍」、「もう身のもよだつ」、「凹面によってまれた小宇宙」、「われわれのこの世ではありません」、「もっと別の、おそらく人のに違いないのです」、「私の不な友だちは、そうして、のレンズ鏡気ちがいの最端をわめようとして、わめてはならぬところをめようとして、の怒りにふれたのか」、「自身を亡ぼさねばならなかった」、「はその後、ったままこの世を去ってしまいましたので」、「少なくとも私だけは、の玉の内部を冒したばっかりに」

 この作品の冒頭では、次のような共鳴と反復と反響と反射も見られました。

私・W⇒K・気(K)・気(K)・気(K) 
 (一行空け=鏡(K))
 私・W=K・仮(K)・彼(K)・彼(K)・気(K)・気(K)

 また、この作品で初めて出てきた「鏡・K」の話であらわれた「寿・K」という文字も忘れてはならないでしょう。その文字が、ガラスではなく「金・K属の鏡・K」の裏に彫られたものであり、それが反射によって「暗い壁・K」に映った「影・K」であったことも象徴的に思えます。

 大切なことは『鏡地獄』においては、文字と言葉の共鳴と反復と反響と反射だけがあるという点です。

 とりわけ気になる反復と反射は、鏡、狂、境、恐、球、彼、界、き、気、極です。これらの文字を使って『鏡地獄』についての作文が書けるにちがいありません。というか、これらの文字を使わずには書けないでしょう。

 この小説は何かの出来事の報告書ではありません。上の共鳴と反復と反響と反射は、何か具体的な出来事の反映ではない、たどることのできる起源はないという意味です。

 たどることのできる起源がない。作品がたどることのできるものがあるとすれば、それはおそらく作品そのもの――。こう言うと、ものと鏡との関係に似ていますが、鏡を比喩にしては語れない気がします。

 作者、作者の伝記的事実、そして作者の意図とやらも、たどることのできる起源でないことは言うまでもありません。

『鏡地獄』という作品を目の前にした私たちの前にあるのは、言葉であり文字であり「鏡」なのです。その「鏡」は鏡ではありません。

 言葉は言葉をうつし、文字は文字をうつし、「鏡」は「鏡」をうつす。

*鏡界、境界


 こうも言えるでしょう。

 鏡は境界である。
 鏡界は境界である。
 鏡界は境界であり、おそらく狂界でもある。

     *

 鏡を前にした自分を思い描いてみます。

 こちら側には自分がいます。現実界にいる自分と考えてもいいでしょう。

 目の前には鏡があります。平面で硬くてそこにはこちらとそっくりな像がうつっていますが、鏡の向こうには行けません。

 そっくりな像がうつっているその平面は境界なのです。その境界である平面は触れることも撫でることも叩くともできます。ハンマーで叩けば割れるにちがいありません。

 境界であるその平面には方向しかありません。向こうには行けない境界。境界でしかない境界。平面でしかない平面。方向だけがある平面。方向しかない平面。

 いらいらしますよね。もどかしいです。

 そのままならさをなんとかしなければなりません。それが「意味」です。

*「sense・方向・意味・感覚」


 単なる「方向」を、方向「感覚」に転じれば、方向も距離も奥行きも感じられるようになります。動きや時間も感じられるようになるでしょう。

 例を挙げます。

     *

  ●  ●

 上の二つの黒い点は「●」を右の方向へと「一、二、三、四、五、六」と数えながら入力しパソコンの画面に表示しました。まるで「プログラミング」のように。

12●45● 

 こんな感じです。いわば「方向だけの世界」で作った「模様」です。何の意味もありません。何かを描いたものでもありません。「機械的に」動かして表示しただけです。

 それもかかわらず、あらためて見ると人や動物の目にも見えます。以下の点をご覧ください。二つの黒い点に何らかの関係性やドラマやストーリーを見る人がいても驚くにはあたりません。

 目、顔、表情、二つの石、二つの碁石、上から見た二人の人間の頭……。

  ●  ●

     *

  ●  ・

 これはどうでしょう? 上と同じように「方向だけの世界」で作った「模様」ですが、二つの黒い点の大きさが異なると、そこに見えるかもしれない、何らかの関係性やドラマやストーリーはもっと複雑になりそうです。

 目、ウィンク、地球と月、大きいと小さい、近くと遠く、こっちとあっち、これとあれ、トンネル、望遠鏡、顕微鏡、前と後ろ、前とあと、先とあと、今と過去、今と未来、速いと遅い、早いと後れる、親と子、私とあの人、置いてきぼり、追いかける、ストーカー、離れていく、「おーい」、「待ってくれ~」、「待て!」、「ついてくるな」……

「方向だけ」があっけらかんと「そこにある」のに対し、意味は「人の頭の中だけにある」のが体感できたのではないでしょうか。

 意味は「うつる・うつす・うつろう」とも言えそうです。その意味では、意味は影と鏡に似ています。人がいるところには必ず意味があるとも言えるでしょう。その意味で、人がいないところにはきっと意味はないのです。

     *

 鏡という「方向だけの世界」、境界だけでしかない平面、平面でしかない平面、それなのにこちらとそっくりなものがうつっている、向こうがありそうでない――。

 そうした「方向・sense」だけのもどかしさ、ままならさ、理不尽さを頭から一掃して、方向感と距離感と奥行きや深さや深みのある世界で、関係性やドラマやストーリー、つまり「意味・sense」を想像する、作る、「感じる・sense」、捏造する――。

『鏡地獄』をあえて『「鏡」地獄』として、読む必要はないのです。普通は。

 そんなわけで、これから『鏡地獄』を『鏡地獄』としてもう一度、読んでみようと思います。私はこの短編が大好きです。何度読んだかわかりません。

     *

 ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。

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