見出し画像

俺の顔がどんなにニヤついているとしたって、鏡を見ているわけではないから自分では分からない。変態?なんでだ!

最初の最初の最初に言っておきたいのだが、
これは決してこの文字(写真)をディスってるわけではない。
日常の手書きの文字の一資料として、書を生業とする俺個人が大変興味深いと感じたので思うところを述べさせていただくだけである。

これはあるYoutuberさんのホワイトボード上の手書き文字である。
正直なところ、これを初めて見たときに目が釘付けになった。
それほど衝撃的だった。申し訳ないがバックの字にしか目が行かず、彼の話は全然入ってこない。

これは喋りながらホワイトボードに書いていくパターンではなく、予め模造紙に書いたものを貼っておいて、それについて説明していくものだ。
上の写真は人物の写っている右部分を取り除いてある。

さて、写真では2行目の一番右、「前」っていう字。
まず「ソ(ちょんちょん)」をしてからの次の「一」にいくわけだが、
あれだけ間を取りつつ左に外すというのは、やろうと思いつくものではない。日中の古典も含め、随分長く書と関わっているが、この形は見たことがない。

常識的には「一」は「ソ」の真下に書くものだ。現在の教科書でも当然そうなっている。しかしそんな世間の常識をあざ笑うかのように「月」はさらに左に展開していく。そのセンス、自由さ、大胆さ、もう凄いとしか言いようがない。

もしかすると、こういう発想が新時代を築く書家の作品づくりには必要なのではないか。真面目に古典を追うだけが正しいわけではないと教えてくれているようだ。

文字として成り立つギリギリのラインを攻めることで、新しい何かが見えることもあるだろう。もちろんそのギリギリのラインを越えてはいけない。書家は文字を扱うわけで、書いたそれらが文字としての機能を有しないならそれはアウトだ。

文字でないなら絵である。
絵を描いているなら画家だろう。
ただ、それが正しい文字ではないことを知らずに書いているのなら、書家でも画家でもなく、バカである。
世の中にはお勉強をちゃんとしていない、自称しているだけの似非「書道家」も多くいる。嘆かわしいことである。
世間の皆様にはちゃんと見極めて欲しいものである。

ちょっと話が逸れてしまった。
いつものことだが申し訳ない。話を戻す。

一つ前の「超」の「刀」も空中に浮いている。
書き順的には「走」を先に書く。そしてあんなに離れたところから「刀」の一画目をスタートさせている。その間の空間のことはどういうふうに考えているんだろう。教科書の「超」にはそんな空間は存在しない。

そしてその下の「口」が「走」に吸い付くように左に戻っている。どうしてそうなるのかは理解に苦しむ。

新漢語林によれば、「超」は「足」と「召」の形成文字でできている。「召」は跳に音が通じ、飛び上がる意味。それに「走」を付して飛び越えるの意味を表しているらしい。

「刀」があそこまで右に離れたのだから、「召」にするには「口」を「刀」の真下に書かねばならない。しかしこの字は全くそうはなっておらず、「刀」と「口」は明確に分離している。

つまり彼は「超」を「走」と「召」とは考えておらず、「走」と「刀」と「口」、または「走+口」と「刀」と考えている可能性があるという事だ。

「日」の上の空間をあれだけ取るのも面白い。何故真ん中の線をあそこまで下にずらすのか? 画面上の彼はとても腰パンをするキャラには思えない。

「旅」の「方」の腰も低い。三画目の出だしが低いのだ。
これはおそらく書き順を間違えているのだろうと推測する。つまり三画目に「ノ」を書いてから四画目に「フ」を書いていると思われる。正しくは逆だ。

しかし「日」の腰パンの例もあるので断言まではできない。ただもし書き順が正しいのにこんなに腰の低い「方」の形になるとすれば、これまでの俺のデータにはないスタイルだ。

また、行の左の〇印は全て6時から時計回りだが、
「50%」の「0」や「%」の〇は11時くらいから反時計回り。

などなど…。


どうだ、興味深いだろう?
興味深さしかないではないか。
もっと見たい、もっと見せてくれ、と思うだろう。

え、変態? 俺? なんでだっ!!

俺は他人が書いた手書きの文字のそんなところばっかり見ては、
毎度書の研究に勤しんでいるわけである。
その顔がどんなにニヤついているとしたって
俺は鏡を見ているわけではないので分からない。

俺はただただ研究熱心なだけなのだ。(断言)

英語圏で書道を紹介しています。収入を得るというのは本当に難しいことですね。よかったら是非サポートをお願い致します。