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岡田斗司夫氏の言葉で考えるにじさんじ🌈/Vtuberを語ることの倫理、そして真実はいつもひとつじゃない

あの、これもですね やっぱ自分の視点の一つなんですよ              で要するにですね、なにが正解かとか、「それはもう宮崎駿に聞けばいいんじゃないか」「聞くしかない」とかですね、そういうことを言う人がいるんですけども、それは、その…高校生までの考え方ですね          つまり、ある一つのテキストを、まぁこういう文芸の対象のことをテキストって言うんですけどね 文芸作品の対象の。そのテキストに対して解釈がたった一つあって、作者が意図しているものが一つでっていうのが、その高校生までで習うテスト期間の文芸に対する態度なんですけども。      ところが大学に入ってきたらですね、そういうものが無くなって来てですね、「研究でこういう可能性がある」とか「こういう風にも読める」とかですね、そういう風なものを考えるのがですね、基本的には文学研究の大学以降の方式なんですけども。ま、そういう「俺ジブリ」。僕これ(投稿者の解釈)自体は正しいか正しくないかっていうので言うと、あんまり僕はピンとこないんだけど、すごく面白いと思います。                                だから、後はすごく面白いの、論拠みたいなものを「どれだけ集めてくるのか?」になってくるんですけども。で、こういう「俺○○」が増えるとですね、作品を見るだけじゃなくて、作品に参加することができるんですね。参加して、それを話すことによって「あぁそれ面白いな」と思ってくれる人が増えると、それはね、あの「セカンドクリエイター」という状態ですよね。(中略・にじさんじの文脈だとこのセカンドクリエイターはほとんど「二次創作者」の意味)同人誌を作って、その同人誌を先に読んだ人にとっては、もうその解釈が正しいんですよ。例えばその、「機動戦士ガンダム」でも富野由悠季が作った設定だけじゃなくて後でバンダイが作った設定とか、後でホビージャパンが作った設定とかですね。後でそのガンダムのプラモデルのマニアだったストリームベースという大学生のお兄さんが作った設定というのが、今ではメインになっているんですね。それで後に安彦良和さんが「あの時の富野さんとはどうしても意見が合わなかったが『俺はこうだと思う!』と思って「ガンダム THE ORIGIN」をやっている」と。後でついた設定なんですけど、ところが、後で生まれたファンにとってはですね、それが本当だってことなんですよ。                                           今の世界と言うのは、テキストはそのテキストの正しい解釈というのだけではなくて。それはそれで大事なんですよ。だから、本物のアニメ評論家氷川竜介さんなんかはそっちをやっているんですけど、僕はそうじゃないんですよね。そうではなくて、二次創作が当たり前の世界。コミケがこの世界にあるのが当たり前の世界に生きているので、セカンドクリエイターみたいなのが増えてきて、『俺ガンダム』みたいなのが増えてきたら、すごい楽しいなと思います。」                   

問題は、果たしてこれを、半分人で半分キャラクターのVtuberにどこまで適用してよいのかである。音楽や文章になっているものはよいとして、特に配信に対して、である。二次創作は確かに、にじさんじの原動力ではある。そして、はっきりと理念に「共創」という言葉が書いてある。

にじさんじのアーカイブはすでに1ライバーでも1000時間近くになっている。もしも、このアーカイブを全部くまなく知っておくことが定跡となりすぎると…

推しを全て監視するか、古参しか発言できなくなる。また、同じ解釈や内輪ネタがぐるぐる回ってしまう。かといって、全ての事実を無視してしまうと、それはそれで問題。

みのミュージックでは、古参マウントは一蹴されている。かといって、新しく入ってくる人ばかりを優遇するわけにもいかない。この合間をどうとるか。

では、意見が違う時にどうするか。

聖書は、世界で一番二次創作された出版物である。エヴァンゲリオンも当然、その範疇に入る。そして、聖書の解釈をいかに行うかだけで、多くの争いが起こってきた。ただ、アメリカ建国時など、そうした考え方の違いをどうやって容認するか考える思想は、異教徒をどう扱うかと言う中で練られてきたものである

事実と言うものは存在しない。存在するのは解釈だけである。        フリードリヒ・ニーチェ

ニーチェの仕事は、古典の解釈から始まっている。解釈は、一見後ろを見ているような作業であるが、歴史編纂とは違い創作的な部分が存在する。

はじめに 見えないものを見る ーー初期BUMP OF CHICKEN

つまり、批評とは、なによりもまず視覚の問題なのだ。批評家は、見えるものを分析するだけではいけない(それはジャーナリストや社会学者の仕事だ)。しかし、かといって、見えないものを夢想するだけでもいけない。(それはこんどは芸術家の仕事だろう)。批評家は、見えるもののなかに、本来なら見えないものを幻視する、特殊な目をもっていなければならない。言い換えれば、幽霊が見える目をもっていなければならない。                      批評とは幽霊を見ることだ。だから批評家は疎まれる。うらぶれた宿に泊まり、思いがけず幽霊を見てしまった人間が疎まれるように。宿の主人は必ず、幽霊はいないのだと言う。なんの問題もないのだと言いたがる。けれどもやはりそこにはなにかがあるのだ。物理的には幽霊は存在しなくても、幽霊が見える環境はあるのだ。それを指摘するのが批評家の仕事である。                        東浩紀「批評とは幽霊を見ることである」『ゲンロン5 幽霊的身体』(p9-10)                      


人は事実だけでは創作に繰り出せない。その最初には、思い切り、証拠が少ないはずの所に、先駆者の作品に対するヤバい妄想が必要な時がある

BUMP OF CHICKENの初期のキーポイントは「見えないものを見てしまう」ことである。よく聞くと、「天体観測」では、「見えてるものを見落として」とも書いてある。たとえば、関係性とかカップリングは、本来関係のない、二人を結びつけることになる。「アルエ」では、映画の中の存在にすぎなかった綾波レイを勝手に救い出す歌だった。

プラネタリウムは、存在しない穴に勝手に人の名前を付ける曲。中期のバンプは、「人に対する思いやりが、全ては所詮自分のためにしかならないこと」を本気で悩みこんで考えていた。そして、彼らの答えは「やさしさの真似事はやさしさ」だった。


岡田斗司夫氏は、「良い差別」と「悪い差別」が存在するという。それは、始まりが偏った価値判断であっても、いい行動を生んでいるのならば、それでいいんじゃないかという考え方である。これをどうとらえるか。(ただし、念のため言うと、この同情の数が集まりすぎてまずい問題になっているのが「指示厨」の話である)


BUMP OF CHICKENは、あまり参照しているアーティストがわからないバンドだと言われる。ただ、米津玄師がインタビューで答えていたように彼らの大きな参照項のひとつはUKロックである。とくに中期が好きな方はU2、後期が好きな人はColdplayをおススメする。


カントは、世界市民の持つ権利を「外国人が他国に足を踏み入れても、それだけの理由でその国の人間から敵意をもって扱われることはないという権利」(訪問権)だと述べている。


Serial Experiments Lainは、インターネットの時代においては、勝手に人が解釈され、自分のイメージが変わってしまうことを肯定も否定もせず描き出した作品。



終わりに バイキンマンはコミュニティに残れるか?ーーあなたのにじさんじは?

岡田斗司夫氏は、残酷な現実をまっすぐ伝える、お人よしの評論家である。「私の価値観では」、ひろゆき氏のようなあまりに論破に特化しすぎた人よりは二歩ほど下がって話すことができている。そして、たびたび突然、月ノ美兎さんの作品とか話に名前が飛び出してきて、めっちゃびっくりした人である。元ガイナックス代表取締役。

岡田氏は、上記の動画で「アンパンマンの世界では、バイキンマンだけが、努力をやっており、現状に対して文句を言うことができる」と述べている。アンパンマンは正義の味方ではなく、悪の敵である。アンパンマンだけがいる世界においては、全ては清潔である。しかし物語は存在しない。悪循環があっても、改善することはない。

実は、私が有識者たちにVtuberの話を聞いた時に、「あんな排他的なコミュニティに関わらないほうがいいですよ」ということを頻繁に言われた。また、Vtuberに関わるアンチ2Dfacerig系だった人であっても「Vtuberもまた世間の波にのまれるだけ、色々あきらめた」と言っていた。

「いやそんなことないやろ言い過ぎやろ」「今おかしいと感じているなら、色々言ってみたりしてええやろ」と思って、これまで色々書いてきた。

結果として、ちゃんと取ってくれる方も多くいらっしゃったが、暗い気分にもなったりする。

果たして、バイキンマン的存在は、にじさんじ界隈に残ることはできるだろうか。それとも、悪の敵や正義の味方に、排除されるだろうか。

私の望みは、ひとりひとりが、人にツッコミを入れるだけではなく、少しでも多くの人が自分の価値観でにじさんじの良さを伝えられることである。


岡田斗司夫さんは、ひろゆき氏と戦うと何かが壊れるというのを、「接近戦」(相手の感情や心に踏み込み過ぎる)形になるためだと説明している。おそらく、岡田さんの言う「ロング」な闘い(相手の過去の発言を慎重に引用して、落としどころを探す)や、ぽかぽかしたじゃれ合いのような話し合いのバランス感覚が、Vtuberについて話す際は大事であると私は考える。

前回の記事にもあったように、私の結論は、あくまでVtuberの方も人だと考えて、もしも言いたいことがあれば「対話」の形に落とすべきというところだった。いかがだろうか?

(本音を言えば、こういう問題に対してVtuberご本人はどう考えてるか聞いてみたい…)

そしてきょうもてんどんまんは踊る。


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