自分と周りの「同じ」が正義なわけじゃない。

「違う」に拒否が強いのは一体どうしてなんだろう。


できることできないことという
目に見えてわかりやすく言葉にもしやすいことはもちろん
好き嫌いなど感覚的なところも含めてが人間。

誰だって同じ部分よりは違う部分のほうが多いし
それが当たり前だ。

だって、それがその人だから。

それがその人の個性だし、その人らしさ。
ロボットじゃない。


なのに、なんで違うことに目が向きやすく
目が向きやすいことに刃を向けるのか。


「みんながそうだから」が
一体何の理由付けになるのか。

誰かと同意だからといって、
違うことを批判して傷つけるのはいいのか。
そもそも、傷つけていいのか。

同意じゃない、好きじゃないならそれでいい。
それはその人の感性であり、選択。
それをそう選んで、主張するもしないも含めて
その人なのだから。

「自分が選ばないものを選ぶ人」が気に入らないなら
気に入らないと言えば良い。
腹が立ってイライラして、悪口だって仲間内で言えば良い。

でもだからといって、自分が選ばないものを選ぶ人に対して
攻撃して傷つけるのは別の話なんじゃないだろうか。

陰口だって、本人にバレるようにやるのは攻撃と同じ。
そういう形で排除しているのだから。

「同じ」に固執するのは
その人の不安が大きいからが一つの要因だと思う。

「同じ」の安心感はとてもよく分かる。
私も`みんな`が選ばないものをたくさん選んできたから
本当によくわかる。

でも、自分の周りに「同じ」があるからといって、
それが正義なわけじゃない。

ただ、それが`一つの選択肢としてある`
というだけじゃないだろうか。

ただ自分も「同じ」の中にいる人も
それを選んでいる、というだけじゃないだろうか。

何かしらを選んでいるという点では、みんな同じなはず。
(主体的にか、誰かの価値観に乗ってか、の話は置いといて)

選んでいるものが違うからって、
自分が選びようにない選択肢を持ってるからって
排除しようとするのは、独裁者と同じじゃないだろうか。

もうやめにしたい。
本当に終わりにしたい。

こういうことがあるのが本当に嫌だ。


誰に何を言われても傷つかない人なんて、
恐らくいない、と思っている。

そういう存在との付き合いが上手な人とそうでない人がいるだけ、
じゃないかと思っている。

誰にとってもデリケートな部分に触られたら嫌なのは当たり前なのに、
どういうわけか、
土足で踏み込んでも良いと判断する人や、
知らないうちにそうしていることに気づきもしない人だっている。


自分の気持ちがわからなければ
誰かの気持ちも慮ることはできない。


私はそうだったし、私の周りにも同じような人が多かった。
無意識に傷つく人が多かった。
傷つける人も傷つく人も
自分に何が起きているかわかってない人が多かった。
感覚が麻痺している感じ。
私がいた世界はそう見えていた。

自分の心がわかるというのは
感じる力がちゃんと働いてるってことだと思う。

だから、誰かの心も感じられるのだと、
「わかる」につながるのだと、私は思う。

傷つけられて当然な人なんて誰もいない。

誰だって心を潤して幸せに生きられるのだと信じたい。
私は。

******

感じたことはできるだけ吐き出したほうが良い
と思って、そうやってきた。

自分の中の「感じる」を磨くにもつながって
自分に優しくすることでもあったなと
今となっては思うこと。

「〜したほうがいい」
なんて言い方は好きじゃないし
「~したい」
という気持ちを大事にするのが一番だと思う。

けれど、こんなことがあるとやっぱり思う。

吐き出したいと思わない、となっている人も、
吐き出`せ`ない、となっている人も、

せめて自分の中だけには出すこと。

これは意外と、とても、
大切なことだったりする。

誰かの目ふれなくてもちろんいいけれど、
もしもできるなら、
誰かに話したり、どこかへ表に出すことは、

どこかで、いつか、誰かに届いて、
わかりあえる人がいるかも知れなくて、

自分以外の誰かと「わかりあえる」は
`いつかの自分や誰か`を
助けてくれるのだと思うから。

「誰か」に話せない
誰にも話せない
でも、聞いてほしいことがある

こんな方の為にプロのセラピストがいる。
そう思いながら私は今日も生きている。



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