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言葉の暴力は剃刀に似ている

1.はじめに

時折、現在や過去のトラブルを思い出しつつ、度が過ぎた批判や誹謗中傷に対しての冷めた感情を抱くことがあります。

誹謗中傷も度が過ぎて行って、物理的に相手が体を壊したり、不可逆的なメンタル不調に陥ったりした場合、下手な物理的暴力よりたちが悪いものであると感じます。

そういったものの多くは、行った側が誹謗中傷というものが波及する被害について深くものを考えられないことによって起きるものだと思います。



2.誹謗中傷のあり方とその変化

情報社会の波の中で、動画サイトやSNSなど人と人とが繋がる手段・個々が情報発信する場所というのは多様に発展を遂げてきました。

そんな中で、顔の見えない誰かを害することは殊更思った以上に容易いこととなってしまったわけで、揚げ足取りの応酬のようなやり取りも散見されるようになって行ったと感じます。

別にインターネットの中に限らずとも、現実でも過激な批判や誹謗中傷はTVの中ですら溢れ、少なからず誰の身の回りでも起こりうるものです。

そういった誹謗中傷が始まるきっかけはたくさんあると思います。それは受け手側の誤謬であったり、発信者側の軽率な言動であったり、はたまた根も葉もない噂からによるものであったりと、それこそ多岐に渡り複雑化していっています。

最初は指摘程度だったものが、いつしか暴力的な誹謗中傷に置き換わってしまうことは、悲しいことによく見かける事象でもあります。

ただ1つ思うのが、指摘と誹謗中傷のラインの見極めだけは誤ってはいけない、ということです。そこを踏み間違えてしまうと批判している側の正義はその時点で失われると言ってもいいと思います。

最初の項でも挙げましたが、言葉の暴力もそれが相手の心身に深く傷をつけてしまえば、それは実際の暴力変わらないかそれ以上にタチが悪い行いなわけで、そんなことをしても自分の品位が地に堕ちるだけだと感じるのです。

3.言葉は不意に剃刀になりうる

さて、本記事のタイトルにもなっている言葉≒剃刀のようになりうるということに関してですが、自分の場合はっきりとそれに等しい場面が脳に刻み込まれています。

それは、心身不調から発展した近しい家族の自傷行為です。当時学生だったその家族は、時には同級生から時には親類からの生い立ちや在り方への心無い非難や否定により心を病み、それが剃刀による直接的な自傷行為に繋がっていきました。

別記事で挙げている過去の事象もおおいに絡んでいる話ですので、環境因子依存も含まれはするのですが、確かに当時その家族へ向けられた言葉は本人を物理的に傷付けていきました。

そのことから、私は未だに当時見た血溜まりのイメージだけは脳裏に刻み込まれ、消すことが出来ずにいます。

SNSやその他媒体における言葉の暴力から派生する被害がそれに勝るものになりうることは稀だとは思いますが、人間ひとりを壊すことが出来るかもしれないという点では類似するところもあると思っています。

そうして傷つけた人の大事な人が更に傷つくかもしれず、そういったリスクをはらむと考えた時に、私は人を非難する、ということに強く抵抗感を抱くようになりました。

4.取り返しのつかない結末は存在する

やや逸れますが、私はかつて5年間障がい者支援施設に勤めておりました。その時に後天的なストレスや逃れられない事情から精神を病んでしまい、不可逆的は障害に陥ってしまった方、というのも一定以上の数見てきました。

そこまでのことではなくても、心無い言葉一つで人間の心が悪い方向へ揺さぶられてしまうのは現実的によくあることで、その積み重ねでメンタルや体調に異変をきたしてしまう方も確実に存在します。

ストレス耐性というと性格とか気持ちの持ちようの問題だと思う方もいるかもしれませんが、実際は体質的なこと環境因子由来であることが大半を占めていると考えます。また、当然それには個人差が存在します。

自分が面白半分で発した言葉でも、耐性の違う誰かにとっては心の致命傷になりうるかもしれない、ということです。そして、誹謗中傷の発信者自体がもし暴走した正義感から発した言葉であっても、受け手側がそれをどう捉えるか、というのも発信者と受け手でとらえ方のずれが発生します。

そういったズレの積み重ね、相手の痛みに寄り添うことのできない不特定多数からの私刑から、言葉による攻撃を受け続け、不可逆的もしくは可逆がむずかしい形で心身を蝕まれてしまう、という事案も確かに存在すること覚えていてほしいですね。

世の中のニュースでもあるように、そういった出来事から派生していって、自ら命を絶ってしまわれる方もいます。誰かを傷つけるということは最悪の場合を生み出す加害者に自分がなるかもしれない、という恐怖感は出来れば忘れずに生きていきたいものです。

5.誹謗中傷を楽しむ人は存在する

悲しいことにそういった誹謗中傷を好んで行い楽しみを見出す人間は確かに存在します。

そういった人たちも、ひょっとしたら普段の生活の中で疲れきっていて、ストレスの捌け口を求めてそういった行為に及ぶことになったのかもしれません。

様々な要素から、快楽を求めて誹謗中傷に走る人もいますが、どんな理由をつけても決してそれが正当化されることはないと思います。

それを快楽とするものにとっては娯楽性のあるものとなったとしても、社会正義的にも道徳的にも許されないラインというものは存在するからです。誹謗中傷=快楽となってしまった人については、残念ながら道徳性が育まれるだけの人生経験を積んでこなかったのかな、と少し哀れにすら捉えられます。

重ねて、そういった理由から誹謗中傷という行為そのものが正当性を持つことは決してないと思います。それは、例え相手に幾分か以上の非があったとしてもです。指摘が非難に替わり、非難が誹謗中傷へ変わっていった時点で、それを行った側の人間の正当性は喪失してしまうからです。

正当性が失われてしまう以上、過剰な相手への攻撃はただの加害へとつながり、その人は善意の加害者ともいえる存在になり果ててしまいますね。

6.人を認めて生きるということ

世の中から誹謗中傷をなくすことは出来ないと思います。その中でも私たち一人ひとりが出来ることは、主張の違う誰かの意見も認め合い・時には否定し、その中でも良心という最後の一線だけは超えずに生きる、ということではないかと考えます。

単純な考え方の違いだけではなく、人種や生き方・障害の有無や性別の違い・LGBTなど、その人ごとの特性の違いから来る価値観の相違というものは必ずと言っていいほどあると思います。

そういった違いを否定し続ける人はとても寂しい人間になっていってしまうのではないでしょうか。否定し続けて、その先に果たして何が残るのでしょうか?

おそらく、自分という個だけしか残らなくなっていってしまうのだと思います。他者を慮ることができず、自意識だけが膨らんでいって、それ以外のものが小さくなっていってしまうのではないのかな、と思うからです。

それは、とてもとても寂しいことだと感じます。人間は社会的生物ですので、人とのつながりや相互理解がもし苦痛でも、そこから完全に逃れることはできないのですから。

最後に(まとめ)

長くなって来たのでまとめに入ります。

言いたかったこととしては、

相手が悪なんだ何を言ってもいいんだという思い込みからの誹謗中傷は酷く醜く、見苦しいものである、ということです。

全文を通して、私自身の誹謗中傷に対する考え方やそういったものに対する捉え方についてを書いてきましたが、おそらく実際に心ない誹謗中傷をする方々からすれば笑いもののように映るのかもしれません。

仮にそうだとしても、私の発信によって少しでも良い方に心が動く方がいてくれたら嬉しいなという気持ちから本記事を執筆しました。

自分の気持ちと頭の整理でもあるのですが、それが誰かにとっての幸いとなれば非常に嬉しいです。

最後になりますが、ここまで本記事にお付き合い下さりありがとうございました。

普段はメンタルヘルスや創作関連の発信をしています。お時間がある時に、そちらもご一読いただけるととても嬉しいです😊

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