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私と双極性障害。①

前記事で自分の消滅願望について長々書かせていただきましたが、本記事では私と"双極性障害"という病気との付き合いについて書いていこうと思います。


1)病気への気付き

元々、過去のトラウマのフラッシュバックやオーバーワークとそれに伴う好不調の波みたいなものが存在し、自覚としてそれらを病気と思ってたことはありませんでした。

自分の心身の異変に気付いたのは、6年前の秋ごろ、介護の仕事の中での入居者さんとの一泊旅行を終えた後でした。その後の2連休の間、トイレへ向かうのも難しいほどに倦怠感で体が動かず、布団に縫い付けられている感覚に襲われたのもその時が初めてのことでした。

その年の冬に今度は人生初のぎっくり腰になりまして、そっちも慢性化して介護の仕事を続ける意欲を失った理由のひとつとなっています。やや逸れましたが、腰痛が収まってからも心身不調継続し、今までしたことのなかった仕事への遅刻、コントロールできない脳内の思考の乱れ、鉛の鎧を着こんだような体の重さが一向にとれず、1月ころ(記憶がややあいまい)にメンタルクリニックを初受診することになりました。

2)メンタルクリニックを受診

別記事で書くかもですが、過去に妹の付き添いでメンタルクリニックに通っていた期間がありましたので、問診票の記入など受診時の流れに関してはある程度こなれたいました。

前述の心身不調から、自己診断ではうつ病に罹患したかな?という見解でしたが、結果としては双極性障害(傾向としてはⅡ型)という診断が出ました。先生(現在の主治医)と話をした際、自分の過去の話や数か月単位で発生していた好不調・気持ちの浮き沈みについて、生きていることの辛さや希死念慮に関しても話をしていた記憶があります。

そういった人生そのものの辛さを吐き出し、その日から人生初のメンタルヘルスに関する服薬治療が始まりました。通院からの帰宅後、すぐに定時薬と頓服薬を飲み、泥のように眠りました。薬はそこまで効果が強い類のものではなく、長期間服薬することで初めて意味が生まれる類のものでしたが、自分は病気だったんだと自覚できたこと・それの治療を始められたことで胸の重荷が少し降りたのを今でも覚えています。

3)双極性障害と共に生きるということ(仕事編)

1.治療1年目~

服薬治療を始めてからも、当時の職場の方については信頼している一部の方にしかカミングアウトすることができませんでした。過去記事でも書いたように身寄りも妹しか当時はおらず、親類みな敵のような環境でしたので、自分の中でだけ病気への不安が膨らんでいくこととなりました。

躁鬱の波に合わせて、当時プレイしていたオンラインゲームへの課金額も上下し、ゲームが一種の精神安定剤となっていたこともあり、ギリギリの生活をしながら分不相応な課金をしてしまっていたことも未だに苦い思い出として脳裏に刻み込まれています。

仕事に関しては、仕事のギアを落として心身を労わりたいところではありましたが、上司との軋轢や意に沿わない配置転換、当時希望していた研修や資格取得の要望に対しての施設側からの別件での冤罪を絡めた強いバッシングなど、無理をしてまで仕事に心身をささげてきた自分としては許容しきれない不条理が一気に襲い掛かってきまして、5年勤めた最初の介護の職場を離れることとなりました。

有休消化期間中は、家に居たくない事情もあり、当時趣味にしていたジム通い→ネカフェの黄金リフレッシュコースを確立し、結構安定していた時期だったと思います。

2.治療2年目~(転職1回目)

1か月の有休消化後、高齢者介護の施設へ転職をしましたが、そこでの休みの少なさ・人員の少なさ・職場に漂うネガティブな空気感などあらゆる面が肌に合わず、入職半年ほどで1か月半の傷病休暇へと入ってしましました。有休消化中に、自分はもう双極性障害が寛解したんだと錯覚をしており、断薬・通院もやめてしまっていたのですが、それが仇となり、以前の不調時とは段違いに体を動かすことが難しくなってしまいました。その後は関連施設への異動後、何かとトラブルには巻き込まれつつも3年間なんとか勤め上げ、キャリアアップを求めて現職場へと転職しました。

3.治療5年目~(転職2回目)

3年間のあいだに、病気を抱えながらの仕事との付き合い方は覚えたと自負しておりましたので、職場が変わってもうまく立ち回れると信じていました。しかし実際はそんなことを思う暇もなく、人員不足からの教育期間が名ばかり状態での実戦投入・その状態での些細なミスへの陰口やバッシングなどの不条理・夜勤が月の大半を占める異常なシフト(面接段階では月5回程度までとの説明→実際はMAX10回)・人員配置にそぐわない労働量・営利主義な施設と自身の相性の悪さ・前述の全てのことを自分のとらえ方のせいだと自責をし、毎日現実感に酔い吐きそうになりながら仕事へ向かっていました。

結果として、3か月目を終えたころに一度高熱を上げて倒れ、半年が経過したころに心身の限界を主治医に相談、診断書を書いてもらい人生2度目(有休消化含めて体感は3度目)の傷病休暇に突入し、今に至ります。休みに入る前の最終出勤日(夜勤明け)、職場では立ち眩みで2回ほど横倒しに転倒しましたが、それを気にかける人も誰もおらず、心身の限界について上長に訴えてから、周りの職員の目が冷ややかになっていっていたことを多分忘れることはできないと思います。

4.そして休職へ~(現在)

そうして休み始めたのが3月の中頃からだったのですが、その初日に再び40℃の高熱を上げ3月までその不調を引きずり、メンタル面の不調や自律神経の乱れ・腰をはじめたとした各部位の経年劣化と相まって、今も半日ほどしか活動できない状態が続き、復職の目途は立っていません。そもそもが今の職場に復職してやっていけるとも思ってはいません。

今回のことで介護の仕事自体を続けていく自身も失ってしまったので、自分を律して働くことができるように、在宅での就労方法に関して模索をしております。こうやってnoteに文章を書きこんでいるのも、そういった習慣につなげていく練習やリハビリのような感覚です。

傷病手当や失業手当、現在申請中の障がい者手帳とそれに伴う障害厚生年金など、休んでいる期間に使える制度だけでどの程度まで生活がもつのか、そもそも生活費に関しては現時点ですでに枯渇しかけているので、それらが受給できるまでの生活は持つのか。根本的に就労の義務を果たせていない現状は甘えではないのか、など油断をすると1日の間の頭の中が黒い想像に支配されてしまいます。自己を否定せずに生きる、それだけのことが何故こんなにも難しいのだろうと毎日のように頭の中が悶々ぐるぐるとしています。

そんな自分にも生きてさえいればいつか活路は開くと、そのための努力ができると、そういう風に自分を信じることができるようになれればと強く強くただただ願います。

5.最後に~(続)

長くなりましたので、私生活編以降は別記事にします。
その記事では、そもそもなぜ双極性障害を発症したのか、病気としての苦しみはどのようなものなのかについても深堀していきたいと思います。
ネガティブな発信になるかもですが、自分と同じような境遇の方に何らかの形で共感などしてもらえると嬉しいです。

ここまで長文を読んでくださり、ありがとうございました。

続きです⬇


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