学都石川の才知 無料公開講座に参加 その2:日常の中に論語がある
石川県の一般向け公開講座「学都石川の才知」。
公益社団法人・大学コンソーシアム石川の主催により、県内の大学・短大・高専の教授による広範な分野の講座が、2017年5月から8月の毎週土曜日午後にしいのき迎賓館3階セミナールームで開講していました。
そのうち4つの講座を、ちょっとした興味の赴くままアポなし飛び入りで受講したという話。
第2弾は(実際には一番最初に受講したのですけども)【6.日常の中に論語がある】について、講義で汲み取れた内容と、思ったこと感じたことを紹介します。
本題に入る前に少し余談
そもそもこの無料公開講座に目が向いて、参加しようと決めたきっかけは、この、論語についてのクラスがあったからでした。
心身の状態がすっと好転し始めた2年半ほど前から、これからは哲学や心理学などの人文系のものごと(敢えて書物とか学問とは言い切らない)に身近に触れていきたいという思いがなんとなく湧いてきていました。
その一環として、論語や老荘思想・菜根譚などの中国古典にも触れることを考えてちょっとずつかじり始めてはいるものの、他のものごとに対する興味などが先回りして、遅々としてなかなか進まず…それで、自分で本を読むこと以外のきっかけづくりとして参加してみることを決めたわけでした。
「論語」とは?
「論語」を著した孔子が生きた時代は、中国の春秋時代(紀元前500年あたり)。仏教の創始者・釈迦とおおよそ同じ時代で、日本ではこのときは縄文時代でした。
孔子は、論語のなかで「仁」を説いたと言われます。
ちなみに、ブッダ(釈迦)は「慈悲」を説き、キリストは「愛」を説き、ソクラテスは「正義」を説いた、と言われるそうです。
「仁」とはなにか?
孝弟(こうてい)なる者は、
其れ仁(じん)を為すの本(もと)か
「孝」とは、親に対する「自然な」敬いやありがたみの気持ちを指します。それと同じ気持ちで他人に接する態度のことを「仁」と呼ぶそうです。ここで言う親とは、肉親としての親ということもあるでしょうが、師と仰ぐ人、というほどの意味だと捉えるほうが現代ではよりしっくりと来るのではないでしょうか。
そして、人に対する思いやりの心は「孝」が広がったもので、自分の親(師)を敬い慈しむのと同じくらいの気持ちで他人に対する心が「禮(れい)」であると。つまり「礼儀」とはそういうものであるというわけです。
「和」を以て尊しと...
聖徳太子の十七条の憲法に含まれる有名な一節
和(やわらぎ)を以て尊しと為し
忤(さか)ふること無きを宗とせよ
これは、論語から来ているそうです。
有子(ゆうし)曰わく、
禮(れい)の和(やわらぎ)を用(もっ)て
貴(たっと)しと為すは、
先王(せんのう)の道も斯(これ)を美と為す。
小大(しょうだい)之(これ)に由(よ)れば、
行われざる所あり、
和(やわらぎ)を知りて和(わ)すれども、
禮を以て之を節せざれば、
亦(また)行うべからざるなり。
小さい「和」にしても、大きい「和」にしても、「和」それだけでは成り立たない。「礼」を以て接することが大事だ、ということがここでは言われています。
「和」:自分中心を捨て去ること。
「礼」:他人の意見を尊重する態度・心持ち。認め合い。譲り合い。
「和」つまり、やわらいで「和える」。うまく混じり合う。それは「礼」あってのこと。
礼儀とは形や作法から入るものではなく、他者を敬う気持ちから入るもの。その気持ちが自然と「礼儀」の作法につながっていくという、現代に至っても脈々と受け継がれているということなのですね。
豊かさへの「道」
子曰く、
君子は義に喩(たと)えり、
小人(しょうじん)は利に喩える。
「義」は、人としての正しい道、「利」は、利益のことを言うそうです。
日常の小さなことがらの中に真理があることに気づくこと。ただし、気がついてもそのままにしているだけてはダメで、それを人のために使って活かすこと。
気がついた「小さなこと」を人のために使って、それを積み重ねていくことが大きな変化や効果をもたらす。それが「道(どう)」につながっていきます。
利益や私利私欲を追求することを第一に考えて行動するではなく、他者や社会のために何ができるのか、何を為すのかを第一に考えることが、ものごとが永く続く、その本質であるといいます。
お金も、貯めて置いておくだけではダメで、自分のために人のために使って流して役立てるべきという話でもありますね…
「道」は、自分に対峙することであって、ゴールはないもの。その「道」を往く「志」こそが、心の支えになるということです(ちなみに、相手に対峙することは「術(じゅつ)」と言うそうです)。
おわりに
日本ではまだ縄文時代だった当時の中国で著されたものですので、読み下しのことばの感覚にすら馴染みにくくて、難しくて高尚なものという印象をなんとなく強くしてしまいがちでした。
とは言え、その意味を読み解いていくと、なにも特別な凄いことが書かれているわけではなくて(ここまで触れた限りでは)、現代でも至極当たり前に感じられるようなことがとてもシンプルに示されていることを改めて感じたひとときでした。
これをきっかけにして、自分も、これから、中国古典などに触れていって、自分の解釈を表せるようにしていこうと思います。
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