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いつか忘れちゃいそうな頭の中。

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目次 …『頭の中一覧』と、私のこと

仕事と家事と育児してます。 ネコ3匹。ムスメ2人。ダンナ1人。 要領悪く日常を生きる合間に、音楽を聴いたり小さなモノやらを集めたりしてます。記事の中の幼少期以外の写真は自分で撮ってます。 全然更新してない写真blog→『舛花色』 頭の中にある記憶が消えない内に書き留める自分のためのnote。 ◇頭の中一覧(目次)  ・記憶  ・両親のこと  ・大人達  ・目次(このページ)  ・自分のこと①  ・自分のこと②  ・嘘つきは本当の始まり  ・放任主義と過保護①  ・放任主義

    • 固定観念とか

      前回の投稿、意図せずとても長くなってしまった…。 あれを(頑張って)読んでくれた方がいたならば、果たしてどの立場に立って読んだだろう…? 誰かをどこかに当てはめたかもしれないし、自分自身に置き換えたかもしれない。 文章をどの視点に立って読むかは、その人の“先入観”によるところが大いにある。 そして何をどう考えて(解釈して)いるかで、同じ文章を読んでも意味が違って見えてくるものだ。 先日もTwitterで『「日本学術会議」~新会員に任命されなかった6名の方々の著作フェア~』と

      • それぞれの正義

        以前『それぞれの真実』という記事を書いた。 それと少し重複するところがあるかもしれない。 そして今更ながら、このnoteに書いていることは私という人間が今までに経験したあれこれに基づいた“私の頭の中”であって、主観的だったり一般論だったりなのであしからず。 その上で。 まず“正義”をググってみると『倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などに基づく道徳的な正しさに関する概念』と出てくる。 じゃあ“正しい”って? 子供の頃“正義の味方”は絶対的存在だったし、ハッピーエンド

        • 止まない雨はない。たぶん。 いつかの為の今でありますように。

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        目次 …『頭の中一覧』と、私のこと

          苛め

          今回はちょっと重たい話になってしまう。 『差別について思うこと』で書いたように、小学校から中学2年生まで、私は苛めから身を守ることばかり考えていた。 相手は様々だったけれど今となっては殆どの場合、彼らはただ私が気にくわなかったんだろうと思っている。 子供の頃は自分が受けた理不尽な扱いについて、『相手が悪い人』という思いと『自分に嫌われる要素がある』という思いが半々だった。 もちろん苛める側が悪いのだけど、私は自分に(特に容姿に)自信が無かったので自分にも原因があると感じてい

          仕事のこと ①商品モニター

          このところ予想外に重いトピックばかりのnoteになってて我ながらびっくり。 重くならないのはやっぱり昔話(?)かなぁ… ということで、これまでしてきた色んな仕事について覚えてる内に書いておく。 仕事といっても正社員になったことはなく、ほぼフリーターという形で生きてきた。 人生で初めての仕事は、中学1年生になったばかりの時。正確には仕事といって良いのかわからないけれど、同級生に誘われて友達数人で参加した、たった1回きりの商品モニターだった。 二子玉川園(現・二子玉川)にあ

          仕事のこと ①商品モニター

          差別について思うこと

          アメリカで黒人男性が白人警官による過剰な拘束行為によって死亡した件に端を発し、今世界中で差別の問題に絡む様々な社会現象が起こってしまっている。 “しまっている”なのは、もちろん良いムーブメントばかりではないからだ。 私はこれまで生きてきて、周りに外国人が居る場面は数えるほどしかなかった。“だから”とも言えるし偶々なのかもしれないけれど、明らかな“人種差別”を目にした記憶はない。 私の認識では“差別”は自分と相手に何らかの区別をした上で、相手を格下に扱う(冷遇する)事だと思っ

          差別について思うこと

          血液型のこと

          “放任主義と過保護③”を読み返して「まるでちゃんとした母親みたい」と我ながら思った。 実際は全っ然そんなことはない。 今思えば産後鬱だったのか、長女を産んですぐは全てが不安でいつもめそめそ泣いていた。 娘が成長して何才になっても自信がなくて常に手探り状態。(それは思春期になった今も変わらず) 料理も既出の通り好きではないので、旦那が甘いのをいいことに隙あらば作らなくて良い方向へ突き進むのが悪い癖。 “何かをする”となるときっちりやらなければ気が済まない反面、きっちりな自分が

          血液型のこと

          それぞれの生き方

          “今”、苦しいことも嬉しいことも悲しいことも、そして守りたいものも、それはいつか“過去”になる。 “過去”、辛かったことも楽しかったことも愛おしかったことも、それは間違いなく存在していた財産で“失ったもの”ではないはず。 “未来”、今の自分が、若しくは意図しない出来事が作り上げる、まだ存在していないもの。 全てを受け止め、感じ、その出来事や感情の答えを“決めている”のは自分自身。

          それぞれの生き方

          それぞれの真実

          誰かが誰かの為を想ってしたはずのことが他の誰かを傷つけることがある。 もしかしたら、想う相手を傷つけてしまっていることすらあるかもしれない。 人の心はそれぞれが複雑に入り組んでいるので、本当の意味で全く同じ感覚になることは皆無だと思う。 なぜなら、産まれた瞬間から“今”までの間に経験することは誰一人同じではないから。 経験してきた事実とそこから形成された自分の中の感覚・感情が人それぞれ違うから、例えば誰かから何気なくかけられた一言への受け止め方は違うものになる。 自分の感

          それぞれの真実

          コロナ禍

          noteを書き始めて以来、日常の合間に書きためている記事が同時進行で3つほどあるけれど、まず日常が一変してしまい書きかけの記事を進める気持ちがなかなか起こらない。 2020年(令和2年)5月10日現在、中国武漢から発生した(とされる)新型コロナウイルス(COVID-19)は全世界で395万4246人の感染確認者数を出し、死者数は27万人を超えてしまった。 ちなみに一度この記事を下書きをしていた4月27日の時点では290万8527人が感染確認者数だったので2週間足らずで100

          コロナ禍

          日本人と宗教

          今回は宗教観について。 というと堅苦しいようだけれどシンプルな話。 そしてずーっと思っていること。 以前『両親のこと』で書いたように私の父方の祖父はキリスト教(プロテスタント)の牧師、母方の実家は仏教(浄土真宗)だけれど、両親は無宗教である。 娘の私も当然無宗教だった。でも日本人ならだいたい皆そうであるように、幼い頃から宗教はいつも近くにあった。 私は祖父の家でもあるキリスト教会の、讃美歌の響きや光と影のある雰囲気がとても好きだった。 母方の実家に里帰りすれば、いつもキラ

          日本人と宗教

          放任主義と過保護③

          高校を卒業すると東京の専門学校へ進学したので私は18歳で家を出ることになった。 女子寮の二人部屋で初めて眠るとき「両親の住む家に『ただいま』と帰って、当たり前に寝起きしていた毎日は終わってしまった」と気がつき、急に悲しくなってちょっと泣いた。 その時両親がまだ39歳だった事は、自分がその年齢を越えた今になって驚いてしまう。 自分が親になってみて『放任』は簡単な事ではないと痛感する。 “放任主義”という子育ては『ほったらかし』とは違う。子供のすることにやたら干渉せず、何でも自

          放任主義と過保護③

          放任主義と過保護②

          放任の一環なのか、小学校の頃から総じて 「勉強しなさい」 「宿題やった?」 などと言われた記憶がない。 言われていたのに記憶がないのかとも思ったけれど、宿題を忘れた事が多々あったのでやっぱり言われてなかったんだと思う。 怒るとめちゃくちゃ怖い両親だったから、言われてたらやってたはず。 そういえば。 ひとつだけ父が教育的な面を見せたエピソードを思い出した。 小学生の時エレクトーンを習わせてもらったことがある。ゼロからのスタートだったのだけど割と飲み込みは早かった。 あの貧乏時

          放任主義と過保護②

          放任主義と過保護①

          『嘘つきは本当の始まり』の記事で自分の履き間違いを父のせいにして後ろめたかった話を書いた。 その状況を客観的に見ると、今は親の立場からの感覚もあるので「いや未就学児なら家を出る時に親が身支度をチェックしないと…」と思ってしまう。 5歳の私が自分が悪いと当たり前に思っていたのには理由がある。 両親は私に対して割と放任主義だった。 “主義”というワードがどうしても強い。 割と、としたのは放任主義にもレベルがあるんじゃないかと思ったからで『放任主義』をその先に育児放棄があるとして

          放任主義と過保護①

          嘘つきは本当の始まり

          今回はちょっとだけ不思議な話。 子どもの頃、些細な言い訳をよくしていた。 他人のことは知らないので一般的に子どもが皆そうなのか判らないけれど、個人的には“あの時期特有”の『自分は間違ってない』という根拠のない自信もあった。 “言い訳”とされること自体認めてなかったので、親からの「言い訳しないの!」も納得できなかった。 とはいえ実際“言い訳”しているわけで、しかもレベルを超えるとそれは“嘘”にもなる。 時には(今私は嘘をついている)とがっつり自覚していることももちろんあった。

          嘘つきは本当の始まり