放任主義と過保護②

放任の一環なのか、小学校の頃から総じて
「勉強しなさい」
「宿題やった?」
などと言われた記憶がない。
言われていたのに記憶がないのかとも思ったけれど、宿題を忘れた事が多々あったのでやっぱり言われてなかったんだと思う。
怒るとめちゃくちゃ怖い両親だったから、言われてたらやってたはず。

そういえば。
ひとつだけ父が教育的な面を見せたエピソードを思い出した。
小学生の時エレクトーンを習わせてもらったことがある。ゼロからのスタートだったのだけど割と飲み込みは早かった。
あの貧乏時代にエレクトーンを購入してくれていた父はやはり期待もあったのだろう。
とんとん拍子に次のステップに進む娘を見ていて「これは厳しく指導したら伸びる」と思ってしまったようだった。
家で練習していたら、父は楽譜の前に10円玉を10枚積んでこう言った。
「一度も間違えずに最後まで弾けたら10円玉を一枚に右側に移す。全部右に積めたら練習はおしまい。一度でも間違えたら、右側の10円玉を全部左に戻して初めからやり直し」
つまりパーフェクトに10回連続で弾かなければ終われない。
9回連続で成功しても、10回目の失敗でふりだしへ。永遠に終わらない気がして、弾きながら涙が出てきた。それまで楽しかったエレクトーンが楽しいどころか苦痛にしか感じなくなってしまった。
そして私は泣きながら
「もうエレクトーンはやらない!教室もやめる!」
と椅子から降り、本当にエレクトーンをやめてしまった。
この時の事を父は悔やんでいるらしく、「あれは失敗したなぁ…」と去年帰省した時も言っていた。

高校進学を機に、幼少期から過ごした世田谷区から八ヶ岳へ引っ越すことになった。
なぜ八ヶ岳かというと、父が私に
「家を建てて引っ越そうと思うけど、海と山どっちがいい?」
と聞いてきたので、海風にぺたぺたするイメージがあった私が気分で
「山、かなぁ?」
と答えたからである。
海と答えていたら伊豆あたりに住んでいたかもしれない。

友人達が都内の高校を受験する中、1人見知らぬ土地で聞いたこともない名前の普通科公立高校を受験した。
母と試験前日に泊まった民宿の薄暗さと布団の重さを覚えている。

滑り止めもなく不安な受験だったが、なんとか合格した高校は、最寄り駅近くのバス停からスクールバスで片道50分かかった。
しかも最寄り駅は家から山道を下って40分歩かないといけなかった。そこまでガチの『山』を希望したつもりはなかったのだけど。
山の暮らしでも相変わらず朝はひとりで起きてお弁当を作り、朝ご飯を食べた。そしてさすがにバス停までは寝ている母を起こして車で送ってもらっていた。信号も殆どないので車なら5分ほどだ。
お弁当も毎日作る気力はなかったので、購買でパンを買って済ますことも多かった。

高校でもテスト結果や宿題について親が干渉した覚えは全くない。
ただ高3になって
「ピアスをしたい」
と言ったら母は
「じゃあ、私もする」
と言って、母とお互いのピアスホールを悲鳴をあげながら開けあった。(あれは怖い)
校則的にピアスは違反だったのだけど、そういうところもあまり気にしない母だった。

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