それぞれの正義

以前『それぞれの真実』という記事を書いた。
それと少し重複するところがあるかもしれない。

そして今更ながら、このnoteに書いていることは私という人間が今までに経験したあれこれに基づいた“私の頭の中”であって、主観的だったり一般論だったりなのであしからず。

その上で。
まず“正義”をググってみると『倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などに基づく道徳的な正しさに関する概念』と出てくる。
じゃあ“正しい”って?

子供の頃“正義の味方”は絶対的存在だったし、ハッピーエンドは誰もが納得する“答え”だと思っていた。
だってみんなが同じ答えじゃなかったら、誰かにとっては“ハッピーエンド”じゃなくなってしまう…。(この時点で悪役の悪役たる理由は完全に無視されているけれど)

困るのは色んなことを知れば知るほど、何が本当に正しいのか判らなくなるということ。
知るほど双方に「なるほど」思うところがあったりする。当たり前だけれどそれぞれに正しいと思う理由があるからこそ、異なる正義を主張する。
歴史も宗教も各々の人生もみんな複雑に絡まっているから、時には当事者がこの世からいなくなってもなお問題だけは残って更に終着点を見失ってしまったり…。
やや脱線。

最近色んな場面で「本当に正義って人それぞれなんだな」と感じることが多々あって、とても虚しくなる。
正義という概念が虚しいのではなくて、“己の正義”を貫くあまり過激になる姿勢が、“相反する正義”とのわだかまりを拗らせて相手を“悪”と呼び始める構図がとても虚しい。
…最近自分の文章がまどろっこしい…。
言いかえれば、自分の正義とは違うものを“悪”と位置づけてしまう人がとても多いんだなと悲しくなる。
もちろん昔からそれはあってそれこそが子どもの頃に思い描いていた『正義の味方が解決してくれる世界』の実態だろうし、極端な話それがあるからこそ紛争が絶えないのだろうだけど。
(“絶対悪”についてはまたいつか)

例えば人が何かを発信する時、信念や定義を置いて語られることが多いけれどその信念はあくまでも主観に基づいている。
ええと、つまり自分の信じるものを基準にしている。
これも以前にも書いたけれど、人がそれぞれ違う体験をしながら生きてきた結果にその人が基準とする“真実”や“正義”はある(と思っている)ので、たとえ大きくは外れなかったとしても必ずしも“誰から見てもぴったり同じ”にはならなくて当然だろう。
だからこそ、自分の信念や定義に当てはまらないものを偽り又は過ちであると位置づけるようなことがあってはならないと思うのだけれど、それは簡単ではないらしい。

私が解せないのは。
人間なんて不確かで、時として本人でさえ確信のない不安定なものだったりするのに、公然と他人を否定をする人がいるということ。
考え方等が違うということに対して意見があるのはおかしな事ではないけれど、批判を超えて攻撃的なのが否定という行為だ。
それは言動だけではなく人間性にも及び、事実ではないことまでまるで見てきたかのように語って蔑(さげす)む人もいる。
それが出来てしまうのは根本に正しくない(と判断した)ものを見下す気持ちがあるからだろう。
正しくないこと(者)には攻撃しても良いとも思っているからだろう。
そして大概、自分のジャッジが間違っているかもしれないとは夢にも思っていない。

面と向かっては言わないような悪意に満ちたこと(本人にとっては正論)を、顔の見えないネットの中においては平気で言葉にしてしまう人が多いのは何故なのか。
相手が傷つくことが判っていても、その人の傷ついた表情を直接見なければ何とも思わないのだろうか。
それともそういう人は、現実の社会生活においても同じ事をしている…?
いや、きっとしていない。

私自身、ネットでの人間関係においては文字だけでやりとりして受けた印象が本当の姿ではない事があるんだと何度も思い知らされた。
いつも感じよく親しげだった人が、実は私や私の好きなものについて裏では悪口を言っていたことがある。お互いにネット上で明かした情報しか知らない程度の関係なのにも関わらず。
そんな時は大袈裟ではなく文字通り手が震えるほどショックを受けた。
それが私にとっては理不尽なことであっても、相手には相手なりの正義があるのだろう。

これはきっかけの一例ではあるけれど…
その人にとっての“特別”だったものがそうではなくなった時、ただ黙ってそこから離れるということはとても難しいらしい。
それまで自分が評価してきたものが理想だったり期待していたものと違うとわかると、無関心になるのではなく“執着”する人がいる。
いわゆる反動なのだろうか。
それまでに費やした“想い”(時間)を自分の中で正当化したいのかもしれない。
もっと言えば、自分が失望したということを相手に気づかせないと気が済まないのかもしれない。

そんな人を何人か見ていて、少しでも心境に変化を与えられないかと話を聞いてみたりもしたこともある。
だいたいは相容れずに終わるけれどそこで感じたのは、好意であろうと嫌悪であろうと執着の根っこにあるのはどんな形であれ承認欲求を満たしたい思いなんだろうな、ということだ。


『自分が居る場所からは見えない面』みたいなことについても以前書いたけれど、人には表からは見えない”事情”がある。
ことネットなどの文字だけでの関係ならば尚更見えないことだらけだ。
それは生まれ持った性質かもしれないし、置かれている環境かもしれない。今となってはどうにもならない過去かもしれないし、言動とは裏腹な本当の気持ちや状況かもしれない。
他人から見えている“その人”なんて、半分も本当の姿ではないかもしれない。

言いたいのは、見えてるものだけで判断する事と同じくらい見えてない部分への勝手な“思い込み”というのは厄介なものだ、ということ。
大なり小なり(無自覚も含め)誹謗中傷をしている人は根拠があると思い込んでいるようなので、執着と思い込みは多分に対になっているものなのだろう。

実際に誹謗中傷を受けている、或いは無意識に誹謗中傷してしまっているかもしれない人にも解っていてほしいのは、自分のことをよく知りもしない他人からの評価は、良いことも悪いことも真に受ける価値はないということ。
真実を知らない人間がとやかく云うこと自体が無責任でしかないし、真に受けて関わっても恐らくデメリットしかない。
ましてやどこの誰だか判らないネット上の中傷に無防備に傷つくなんて悲しすぎる。
それは他人の言葉に耳を傾けなくていいということではなく、自分に対しての意見を聞く時に大切なことはその相手が“誰か”ということだ。
事柄にもよるけれど、殆どの場合“誰が発信しているか”がその情報(内容)の真価を見極めるのに重要な要素であり、自分に対する意見もまさにそれだ。

だからこそ、意見がある側も匿名ではなくて自分のプラットフォームから発信するべきだと思っている。少なくとも私はお互いに誰だか判らないような場所では絶対に発言しないと決めている。
仮に真摯に伝えたいと思っていることがあったとしても匿名のようなやり方ではまともに伝わるとは思わないし、もしもそんな空間で同意見の“仲間”と出会ったとしても、見えないその相手を完全には信用できないならそこでの同調も無意味だからだ。

言葉は簡単に人を傷つけることが出来る。
そしてたぶんネガティブな言葉を発する時、人はそうやって発散しているつもりでも実は自分自身の行動で逆にストレスを生み出してしまっているのではと思う。
ただでさえ人に何かを伝えるということはエネルギーを消耗するのに、攻撃的な発信ならそれは尚更だ。
どんな風に生きるかは本人の自由だし価値観は人それぞれだろうけれど、無駄にした時間は戻ってはこない。
どんなことも答えはひとつとは限らないし、時には“足して2で割る”みたいな正解もあるかもしれない。
本当に大事なのは“答え”ではなくその“過程”の方かもしれない。

いつかも書いた気がするけれど人と人とが上手く関われていない時、圧倒的に足りていないのは“想像力”だと思っている。

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