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差別について思うこと

アメリカで黒人男性が白人警官による過剰な拘束行為によって死亡した件に端を発し、今世界中で差別の問題に絡む様々な社会現象が起こってしまっている。
“しまっている”なのは、もちろん良いムーブメントばかりではないからだ。

私はこれまで生きてきて、周りに外国人が居る場面は数えるほどしかなかった。“だから”とも言えるし偶々なのかもしれないけれど、明らかな“人種差別”を目にした記憶はない。
私の認識では“差別”は自分と相手に何らかの区別をした上で、相手を格下に扱う(冷遇する)事だと思っている。
けれど、幼い頃の私は
「大人が間違ったことをする訳がない」
と思っていたので、例えば近所の大人に理不尽な扱いを受けたことも
「あれは低所得家庭に対する差別だったんだな」
と認識するには数年の時差があった。

知識が無いということは、差別そのものが“見えない”のだ。

私は子供の頃、映画『マイ・フェア・レディ』が好きだった。
貧しくみすぼらしい、訛りのきつい花売りの娘が、言語学者でもある上流階級の男性に出会い教育を受けて別人のような貴婦人に成長していく。
子供だった私はどんどん綺麗になっていくオードリー・ヘプバーンに釘付けだった。
けれどある時(小学4年生くらいだったかも)父親が言った言葉にショックを受けた。

「この映画は差別的だよ」

びっくりした。
それまで私には“女性差別”という概念もなかった。“差別”という言葉の認識もあやふやだったかもしれない。
映画の中の男性は、言葉使いも身なりも良くない花売りの女性を『社交界に連れて行っても“バレない”程に仕立て上げられるかどうか』友人と賭けをして“実験対象”として接している。
そして徐々に言葉使いが良くなり作法を身につけ、高価なドレスを纏い着飾った姿を見て、それまで馬鹿にしたような態度で接していた彼女を初めて恋愛対象として見るのだ。
父の言葉で見る角度が変わったら、映画の印象ががらりと変わってしまった。

正直、その時の私は
(父のせいでせっかく好きだった映画が悪いものに見えるようになった)
と残念に感じていた。
極端に言えば、それまではキラキラしたシンデレラストーリーでしかなかったものが、急に偏見と傲慢に満ちた男の話に変身したのだ。
でもその言葉をきっかけに、物事には一方向からでは見えない部分が存在し、見たものをそのままに受け止めることが全てではないことを学んだ。

差別とは違うけれど、苛めにはあったことがある。あったことがあるというか、小学校から中学2年生まではいかに苛めから身を守るか、みたいな気持ちで学校へ行っていた。
仲間外れにされたり、大勢に囲まれて脅されたり、私物を捨てられたり、トイレに閉じ込められて上から水をかけられたりした。
苛めについてはまた改めて書くけれど、苛めをする人はただただ私のことが気にくわなかったんだろうと思っている。
そして驚いたことに後に大人になって再会した時、大概相手は苛めていたことなど覚えていないし、本当は覚えているのかも知れないけれどその事実は“無かった”かのように普通に接してくる。
だから、今の私は過去に受けた苛めについては“子供”にされた事と思っている。私の解釈では、あの時“私を苛めた子供”と大人になった“その人”はある意味別人なのだ。

人は生きていれば大なり小なり過ちを犯す。
もちろん中には故意犯もあるかもしれない。
それに対して“正義”或いは“復讐”を掲げれば何をしても良い訳ではない。
なにより本人が選ぶ術のないルーツや身内の過失、避けようのない外的要因によって不当にレッテルを貼られることがどれだけ多いことか。
世界には人権問題が溢れている。

人間が他人に対して心無い言動をする時、恐らくその人にはその人なりの正義や真理がある。
だからこそ、迷いなく他人を傷つけられるのだろう。そうでないのなら、傷つけているという意識すらないのかもしれない。
或いは傷つけることが正しいとさえ思っているのかもしれない。

そこに欠如しているのは、相手の置かれている立場やその経緯を理解しようとする気持ちと、誰しもが誰かの愛するかけがえのない存在だということを一瞬でも考える想像力なのではないだろうか。
あくまでも私の体験した範囲での私の見解にすぎないけれど。

そして私にとって世の中はまだまだ知らないことだらけなので『無知のまま甘んじていてはいけない』とつくづく思う。

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