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固定観念とか

前回の投稿、意図せずとても長くなってしまった…。
あれを(頑張って)読んでくれた方がいたならば、果たしてどの立場に立って読んだだろう…?
誰かをどこかに当てはめたかもしれないし、自分自身に置き換えたかもしれない。

文章をどの視点に立って読むかは、その人の“先入観”によるところが大いにある。
そして何をどう考えて(解釈して)いるかで、同じ文章を読んでも意味が違って見えてくるものだ。
先日もTwitterで『「日本学術会議」~新会員に任命されなかった6名の方々の著作フェア~』とPOPを付けた書籍の販促コーナーの写真に「○○書籍部のこういうところ好きです」とだけ書かれたtweetがあった。
そこにリプライや引用リツイートしている反応を見ると、“学術会議への皮肉”と受け止めて「いいね」と言っている人と“学術会議への応援”と受け止めて「いいね」と言っている人がいた。
同じ内容にも関わらず、読む側にとって都合よく伝わっていることがとても解りやすい例だ。

『固定観念』『先入観』はあまり良い意味では使わない言葉だけれど、誰もが何かしら持っているものだと思う。恐らく大方は無意識に。

経験や習慣などから構築された観念や理念、それらは一度インプットされるとなかなか書き換えられなかったりするのが厄介だ。
もちろん、それまでの自分には無かった見識や他人の観念をスマートに受け入れ応対できる柔軟な思考の持ち主もいる。
勘違いされそうだけれど、柔軟とは自分の観念や理念を変えることではない。これは相手の気持ちを汲む応対力の話…
“柔軟な思考”が成立するのは本人がブレブレではなく、ちゃんと自分の芯を保っていてこそだ。
固定観念はそもそも主観的なものなので、視野が狭い状態とも言える。視野が狭いとイレギュラーな状況に対応するのが難しくなる傾向がある。
概念とは違い、“柔軟な人”のように相手に応対する意識があれば先入観に捕らわれることはなくなるんだろう。…たぶん。

そんな「人生何周目ですか」な人はこれまでに学校や職場で出逢った人達、ひいてはたまたま出会った通りすがりの人々まで思い出してみても、あまり多くはいない。
ただ、仲の良い友人たちの殆どは(私も含めて)あまり柔軟な考え方の持ち主とは言えないけれど、思い返してみれば見解の相違があってもお互いが柔軟に応対しているものだ。割と真逆なタイプの友人であっても問題なくつき合えるのはそれを補う、或いは上回る関係性があるからだろう。
人と係わる上でのトラブルや固定観念が障害(?)になる関係性は、正直お互いがそこまで親しい距離じゃない間柄(若しくは少なくともどちらかにリスペクトが無い場合)に現れるのかなと思っている。
まぁ、親しいつもりだったのに…ということもなくはないけれど。

他人に対する印象というのも思い込むとなかなか払拭できない。一度悪い印象を抱くともうよくよく相手を知ろうなどとは思わなくなるので、結局勘違いであったとしてもそのままの人物像が固定されてしまう。
…これは残念だけど、仕方ないことかなとも思う。
私自身もちょっと無理だな、という人がいたらよっぽどじゃない限りそれ以上歩み寄ることがないので、その人の印象は死ぬまでそのままの可能性が高い。
そして逆もまた然り。(ある意味こっちの方が厄介)

応対力が間に合うかはともかく、固定観念をもとにした自分の価値観を他人に押し付けないようにすることが、より生きやすくする為に出来ることではないかな、と思う。
“価値観を押し付けない”とは相手を尊重する選択肢もあるし、“見限る”という選択肢もあると思っている。“見限る”は語弊があるかもしれないけれど、たぶん想像したそれであってる。
(中には常に相手の粗を探すことに情熱を燃やして揚げ足を取ったり自分を主張したがるような人もいるので、それはもうその人の趣味なんだろうし、お友達にはなれない)
時と場合によるけれど、誰かに対して『そうじゃないのにな』という気持ちでいっぱいになってしまう時は大抵相手もこちらを同じように思っているだろうし、常にモヤモヤするような負の関係でしかないのなら潔く見限った方がお互いの為だ。

合わないなら合わない、嫌いなら嫌いで良い。
“キレイゴト”もそれはそれで。
いちいち悩む必要の無いことは案外ある。
平和でいる為の方法も色々ある。

そしてそれ以前に、知識がないと見えない・聞こえないものが世の中にはたくさんある。
知識はあればあるだけ人生を愉しむ幅が増えたり、物事を判断する精度が増すものだと思うので、ちょくちょく些細な思い込みをしたり未だに知らない事だらけの私にとって、もっぱらの課題はそこだ。

願わくば、穏やかに生きられますように。

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