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【随筆訳】 大衆、詩人、学者 (1911)

20世紀前半イギリスの辛口ふとっちょ名文家ギルバート・キース・チェスタトンによる、詩心とユーモアあふれる人間観察エッセイ。現代にあふれる「教養俗物ビルドゥングス・フィリスター」をけちょんけちょんにやっつける。


『チェスタトン』 マックス・ビアボウム (c. 1907)


 おおざっぱに言えば、人間は3つのタイプ*にわけられる。

1、大衆[people]
 大多数。もっとも重要。イスや服や家を作ってくれる。
2、詩人[poet]
 親類しんるいにとっては厄介だが人類じんるいにとっては至福の存在。
3、学者[professor]
 親類しんるいにも人類じんるいにも厄介な、賢く見えてみじめな存在。

頭文字を共通させる"alliterationアリテレイション"(頭韻)
という英詩の技法。出オチみたいなもの。

 それぞれ重複しがちで、よき大衆が詩人っぽいこともあるし、クソみたいな詩人が学者を気取っている場合もある。およそ分類などあてにならぬものだが、これらは現代の心理学*を補う視点ではあるだろう。その正当性について論じる準備はないものの、少なくとも18分くらいは真剣に考えてみた結果なので、じゅうぶん信頼に足るものと思われる。

心理学は当時ヨーロッパで大流行していた。
後述のジョークでも嫌悪感ぷんぷん。

*

 大衆は、良くも悪くも「陳腐」にとらわれがちだ。この「陳腐」とは、そう簡単に割り切れないものである。たとえば以下のように:

  • 「子供はかわいいねえ」

  • 「夕焼けっておセンチヤバい…」

  • 「1対3で1が勝つって爽快!」

 「子供のかわいさ」というものは実にわかりにくい。その最もわかりやすい笑顔にさえ、喜びと無力とがまざっているのだから。

 「夕焼けのもの悲しさ」は繊細だ。いかにも品のない部屋で言っても不審なだけだし、いかにも頭の悪そうなカップルが言っても滑稽なだけだろう。

 「1対3で1が勝つ状況」はいかにも大衆の好むところだ。同情・憐み、劇的ドラマチックなものやサプライズへの嗜好、過剰なまでの正義欲、など。

 「陳腐」とは奥深いものである。だが一般人モブは、天災や暴動などで身の危険にでも陥らないかぎり、これをまったく表現できない。それが「大衆」の一大特徴といえる。

 詩人もまた「陳腐」を好む。だが、自分こそが複雑でデリケートだと思い込みがちな連中だから、その繊細さや感傷を表現しようとする。そこが「大衆」とは異なる。

 たとえば終わりなき労働への不平は、詩人にとってはボロをまとった英雄の声に聞こえるものだ。きらびやかな宮殿の奢侈しゃしを嘆く声に。

 もっとわかりやすく言えば、同じ状況でも、

大衆:
 「一杯やりましょう、さあどうぞどうぞ、おっとっとっ」
詩人:
 「この盃を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ」

大衆:
 「もう夜か、早いなあ」
詩人:
 「薄暮はくぼ迫りて孤独なり」

 つまり詩人は、「あたりまえ」を鋭敏に捉えて素晴らしいものに変えられるのだ。韻文でも、散文でも。

 ただし結局は「陳腐」である。子供を「おそろしい」と、夕焼けを「バカバカしい」と、1対3の1を「卑怯者」と、美しく歌えた詩人はいない。

 それを声高に指摘してご満悦の無粋者prigが、学者である。

 詩人は大衆を理解するが、学者は大衆を理解しようとしない。愚かしい偏見、もしくは奇妙な迷信に囚われているものと見なしている。

 詩人は大衆に「自分って思っていたより賢いんだな」と思わせる。学者は大衆に「自分って思っていたよりバカなんだな」と思わせる。

 大衆とともにある詩人は、ときに石を投げられ後ろ指を差される。大衆を軽蔑している学者は、衣食住に困らず肩書きにも恵まれる。時の政権の「有識者会議」を見れば自明だろう、どこも学者ばかりで詩人など滅多にいない。いわんや大衆においてをや。

 詩人とは必ずしも「作品」を作る人のことではない。持ち合わせる教養と想像力とを自身の地位向上のために使うのではなく、人々の思いの理解と共有とに使える人のことだ。

 詩人も学者も、感性において大衆と区別される。ただし後者は「共感しあえるほどの感性もない」という意味で。

 学者の頭には「われこそ正しいエゴイスチック」という考えしかない。どれだけ無垢ゆえの鋭い意見でも「大衆=愚ゆえに誤」として否定することしかしない。


 例えばここにジョークがあるとしよう。古今東西によくある、年配者にまつわるジョークだ。

 大衆は笑う。詩人は、その冗句じょうくの作り手の一員として、大衆が笑うことを喜ぶ。だが学者はどうだ。クスリともせず真面目くさって、

「昨今流行の冗談における老人とは、
sexを踏まえれば~~、またこれはイドの~~、
つまり人間精神の階層構造の~~、
よってこれを笑うのはいかがなものか」

 ぶざまな学者よ。社会とそこに住まう人間が見えていない、おぞましいほど鈍感で愚かしい学者よ。人間らしい共感よりも小癪こしゃくな「ムイシキ」の方が具合よいか。

 例えば「2人では仲間、3人では仲間割れ」ということわざがある。だが「三銃士」というとおり、3人とは素晴らしい仲間でもある。

 こういうとき、あなたは古くからあることわざを否定して、「2人では仲間、3人でも仲間」とするだろうか。2人対3人という、現実には3人対300万人くらい異質なものを、同列に見なしてよしとしてしまうか?

 もしそうならば、残念ながら、あなたは「学者」だ。何も見えていない。

 そういう人間は、一人ぼっちでいればよい。だれも耳を傾けてくれる仲間のいない砂漠のまんなかで、死ぬまで。




17のときから不穏な目つき
  • 日本語にもよくある「語尾で韻をふむ」は"rhymeライム"(脚韻)、同じく英詩の技法

  • チェスタトンは保守派の論客で愛国主義者だった

  • 原題は"The Three Kinds of Men" (人間の3種類)






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