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【短編訳】 赤い部屋 (1894)


「タイムマシン」や「透明人間」や「核兵器」の生みの親H.G.ウェルズによる深淵の怪談。




 私はグラス片手に暖炉のそばに立っていた。

「よっぽど幽霊らしい幽霊じゃないと、ぼくは怖がりませんよ」
「それは、あなた次第ですよ」

 ジイさんが横目で答えた。その手は腕までしわしわだ。

「28年の間、一度だってお目にかかったことありませんけどね」
「世間は広うございます。見たことないものも、悲しい話も、まだまだたくさんございますよ……」

 次はバアさんが答えた。暖炉にあたって炎を見つめながら、頭をゆっくり左へ右へ揺らしている。

 どうも二人のことは信じられなかった。とにかくこの城は呪われていると言いたいだけのような気がしてならなかったのだ。空になったグラスを置いたら、角にある古びた鏡に映る歪んだ自分自身と目が遭った。

「じゃあ、もし今夜なにか見たら、ぼくも少しは世慣れるわけだ。寛容にでもなれますかね」
「あなた次第──」

 そのときコツ、コツと杖の音がして、扉がギイと開いた。もう一人のジイさんだ。しわだらけで腰は曲がり足取りはおぼつかず、青ざめた唇に黄ばんで傷んだ歯を覗かせて、二人よりも年かさらしい。どんよりした目つきで安楽椅子に腰掛けたら、ごぼ、ごぼ、と咳込みだした。

 手しわしわジイさんは、その挙動に嫌悪の眼差しをちらと向けた。バアさんは微動だにせず暖炉の火ばかり見つめている。

「あなた次第ですよ、何事も」

 咳が治まったところで、改めて手しわしわジイさんが言った。

「望むところですよ」

 答えたら、咳ジイさんが充血した目をぎょろりと向けてきた。「いたのか」とでも言わんばかりに、と思うや、またごぼごぼせた。

「これでも呑みな」

 手しわしわジイさんがテーブルのビール瓶を押しやった。それを咳ジイさんはこぼしこぼしグラスに注いだ。ごぐ、ごぐ、と呑む壁の大きな影は笑っているようだった。

 正直なところ、私はこれらロレイン城の管理人たちを、ほとんどあてにしていなかった。それぞれがグロテスクなまでによぼよぼで、やけに重々しい語り口で、お互い邪険にし合う様子などは不快にすら感じていた。そろって老衰しかけ、という印象しかなかった。

「その呪われた部屋に案内してくれませんか。一晩過ごしてみたいんです」

 言った途端、咳ジイさんが痙攣したように血走りまなこを向けてきた。誰もなにも言わないので、

「もし《赤い部屋》に通してくれたら、ぼくのことは朝まで放っておいてくれていいですよ」

 少しばかり声を張ったら、

「扉を出たところに燭台があります。今から《赤い部屋》を訪れるのなら、どうか一人でお行きなさい」
「よりによって夜に!」

 手しわしわジイさんが視線を落としたまま答えた。バアさんも口走った。

「わかりました。どう行けばいいですか」
「廊下を行くと螺旋階段があります。それを半分ほど昇った踊り場に緑のフェルト地の戸があるので、入って、まっすぐ突き当たりまでお進みなさい。すると左手に階段があります、その部屋です」
「なるほど。まず廊下を──」

 確認を取ったら、改めて咳ジイさんが引きった顔を向けてきた。

「本当に行くのかい」
「よりによって今夜──!」

 またバアさんが口走った。

「行きますよ、そのために来たんですから」

 答えながら扉に向かうと、咳ジイさんはふらふらと立ち上がり、暖炉に歩み寄った。いとまを告げに振り返ったら、火にかざされて黒ずんだ顔と顔と顔がひと塊にと見返してくる。

「じゃあ、おやすみなさい」
「あなた次第ですよ、あなた次第……」

 扉を開け、しゃがれ声を聞きながら燭台に火をけ、扉を閉めた。そうして私は一人、洞穴のような廊下を歩きだしたのである。

 いやに落ち着かない。あの管理人たちのせいだ。三人とも、なんだか魔女や精霊がいて予言や迷信の通用していた太古の遺物みたいだ。今ここには存在していないような、この古めかしい建物や家具が作られた時代に生きているような、彼らこそが亡霊のような──

 とりとめのない妄想を打ち消しつつ、ほこりっぽい石造りの寒々しい中を進んだ。影が手元の明かりに揺れては縮こまり、螺旋階段の上から下まで響きわたる靴音の中を一足お先にと暗黒の中へ昇ってゆく。踊り場でなにか聞こえた気がしたが、空耳だろうと緑の戸を開けた。

 続く廊下は月の光に満ちていた。あらゆるものが銀に、その陰翳で黒に染まっている。すべてが前日とも十八ヶ月前とも変わらないのだろう。壁には備え付けの燭台が一列に並んでいて、ほこりが床とカーペットを月から隠さんばかりに積もっている。

 私は一歩を踏み出せないで息を殺していた。すぐそこに置かれてあるらしい彫刻が、壁の死角に隠れたまま、黒々しい影を白い羽目板にくっきり落としているのだ。まるでなにかが待ち伏せしているみたいだった。

 手を懐へ入れて、忍ばせていた拳銃を握りしめ、進み出た。『ガニメデと鷹』が月明りにギラギラと照り映えていた。そこでホッと一息つけたおかげで、その後アジア人らしき彫像とすれ違っても焦りはしなかった。

『ゼウス扮する鷹に水をやるガニュメーデース』
ベルテル・トーヴァルセン (1817)

 突き当たりの暗がりに階段があった。いよいよだ。とば口で立ち止まると突然、そこがつい最近の死体発見現場だったことを思い出した。ぞっとしてきょろついたら蒼白なガニメデが見えて、たまらず急いで段を上がった。

 後ろ手に扉を閉め、燭台を掲げて室内を見回す。ロレイン城の《赤い部屋》、わが前任者はここから扉を駆け出た足で階段へ真っ逆さまに飛び込み、呪いの正体を暴かんとする勇気を頭蓋骨ごと粉砕したのである。

 呪いのゆえんは昔この部屋で起きた、ある伯爵の残忍な仕打ちによる夫人の悲劇的な死だという。その後も奇事怪事が続いているのは、あちこちにある神秘的な暗がりのせいだろう。蝋燭一本では隅々まで照らしきれないほどだだっ広い室内、まるで大海にぽつりと浮かんだ孤島のような有り様だ──

 連想や空想を追い払うため、ただちに部屋の検分にかかった。扉の施錠を確かめてから、いちいちの家具を点検し、ベッドの下を覗いた。窓の錠前と鎧戸の具合を調べ、管理人がいてくれていた暖炉にかがみ込んでは煙突を見上げ、隠し扉がないか壁や羽目板をコンコン叩いて回ってもみた。

 部屋には二枚の大きな鏡があって、それぞれに燭台が一対ずつ付いている。暖炉の上にもアジア産らしき燭台がいくつか並んでいる。そのひとつひとつに火を移していった。肘掛け椅子とテーブルを暖炉の前に引っ張ってきて、拳銃をテーブルに置いた。

 まだだ、まだ闇が息をひそめている。出窓のくぼみだ。暗闇は、ほんのひとかけらでもあらぬ想像を掻き立ててくる。熾火おきびのパチパチ爆ぜる音とて慰めにはならない。──私は火を掲げて突撃し、何もないことをこの目で確認して、そこにも蝋燭を立てておいた。

 しばらく張り詰めていた心が、ようやくほぐれてきた。幽霊なんていない、呪いなんてない、と無垢なまでに信じ込み、その地に古くから伝わる詩歌をひまつぶしに口ずさんだ。が、自分の声の反響が心地よからず、早々に黙って階下の老人たちのことを考えだした。

 暖炉と7基の燭台のおかげで、室内は赤い光に満ちている。なのに、どうも薄暗いような気がしてならない。と、出窓に置いていた燭台がちらついた。隙間風に煽られたか火影が伸びては縮み、闇がひょっこり顔を見せた。

 一度部屋から出た。めあては廊下の壁に並ぶ燭台だ。扉を開けたまま10基も持ち込んではそれぞれ火をともし、四隅の床や出窓のそばなど暗闇が好みそうな場所に据えた。

 あわせて17基、一片の陰も残さないため、地味で陰鬱な室内をあかあか燃える火で調ととのえたわけである。幽霊が出てもつまずかせそうなくらいあちこち燭台だらけ、それでお気楽なまでに満足していた。そこで夜を明かすことに変わりはないのに──

 真夜中を過ぎたころだった。いきなり出窓の燭台から火がフッと消えた。消えるところを見届けられなかったから、忽然と暗闇が現れたとしか思えなかった。あたかも見知らぬ人が立ちすくんでいるようで、

「うん、今夜は風が強いんだな!」

 あえて大声で言い放ち、あえてのんびり歩いては、マッチ箱を取り出して火を点け直す。最初の一本は湿気ていた。

 と、なにか壁のあたりがパチッとした。目瞬まばたきされたみたいに思えて顔を上げるやいなや、テーブル上の二本の蝋燭から火が消えた。まるで指でつままれたような消え方だった。

「おかしいな。ぼくはここにいるのに──」

 戻って一本に点け直した。すると今度は二枚の鏡のうち片方の、右側の火がパッと消えた。続けざまに左側も消えた。やはり二本とも芯をつままれたようで煙も立てず、暗がりだけを残していった。

「…………」

 呆然としていると、ベッドの下を照らすよう床に立てていた火が消えた。

「おかしい……おかしいぞ……」

 暖炉の上の一本が消える。その隣の一本も消える。まるで暗闇そのものが歩き回っているみたいだ。

「どうしたっていうんだ!」

 金切り声が喉をく。それを合図とするかのように、衣装だんすの上に置いていた火が消えた。追いかけるように、今さっき点け直したばかりの出窓の火も消えた。

「しっかりしてくれ、明かりは必要だ、明かりは──」

 もはやヒステリックな、おどけたような声しか出ない。暖炉の上から点け直すも、手元が狂ってマッチを二回しくじった。暖炉が闇に呑まれて吐き出されるその間にも、窓辺の床の二本が消えた。

 一本のマッチで順に点け直して回る。どうにか元通りに、と念じていると、部屋の四隅の蝋燭が一斉に消えた。ぶるぶるふるえながら新たにマッチを擦り、さてどこから点け直したものかとわずかに躊躇するうち、テーブル上の二本の火がつままれた。

 出窓のくぼみ、部屋の隅、窓辺、と急いで灯して回る。また暖炉の二本が消えている。マッチ箱を放ったらかしてはベッド脇の燭台を火種として携えた。それでも次から次へと火が消える、雨雲が星空を覆うように。

 暗闇がすぐそばにいる──私はもう半狂乱だった。あっちを点けたらこっちが、こっちを点けたらあっちが、という容赦ない侵蝕を前にして落ち着きも失い、ただ喘ぎあえぎ燭台から燭台へと甲斐なく火を渡し続けた。

 やがてテーブルに脚を打ちつけて椅子をひっくり返し、よろめき倒れ込んだ拍子に燭台を放り出してしまった。立ち上がりつつ手近な一基をつかんだら、急に動かしたせいかその火も消えた。そばにあった最後の二本が後を追った。とうとう17本すべてが消えたのだ。

「暖炉だ、まだ暖炉がある──!」

 炭火がパチパチ踊っている。私は一歩二歩と炉端に寄って、蝋燭の先を火元へ差し向けた──

 その瞬間、みるみる火がしぼんで消えた。光は失われ、私は頭の先から足の先まで隙間なく暗闇に抱きしめられていた。それは、私の中にわずかに残っていた理性のかけらがついえた瞬間でもあった。

 燭台を捨てて、両腕を振り回しては暗闇を遠ざけようとした。声をあらん限りに振り絞っては何度も叫んだ。なにもかも甲斐はない。ふと月光に満ちた廊下のことがよぎり、両手で顔を覆って頭を低く、その方へ駆けだした。

 おそらくベッドの角にぶつかった。勢い体を反転させたら、またなにかに身ごとぶち当たった。暗闇の中心で前後不覚にふらつきながら、獣のようにわめいていた。ついにどこかへ額を強く打ちつけて、気を失ってしまった。

 目が覚めると日が昇っていた。頭には包帯が巻かれていた。バアさんが青い瓶から薬をグラスに注いでいる。覗き込んできた手しわしわジイさんと目が遭うも、なにも思い出せない。

「ここはどこですか、あなた方は……」
「明け方にあなたを見つけました。おでこと口から血を流していましたよ」

 長年の友をいたわるような優しい口調で、不審や警戒などは微塵も感じられない。おとぎ話でも聞くようにその声に耳を傾けているうち、《赤い部屋》のことがぼんやり思い出されてきた。

「もう信じるほかありませんでしょう、あの部屋は呪われていると」
「ええ、あの部屋は呪われています」
「では見たんですね。わたくしどもは長い間ここで暮らしてきましたが、その正体を突き止めることはしませんでした。できませんでした。教えてください、やはり伯爵の──」
「いえ、違うと思いますよ」

 薬入りのグラスを手にしたバアさんも会話に加わった。

「昨晩お話しました通りですよ、年老いた伯爵にいじめ抜かれた哀れな若い夫人の幽霊が──」
「いや、あの部屋には幽霊なんていませんでした。それよりひどい、もっとひどいものが──」
「もっとひどいもの?」
恐怖Fearですよ! われわれに取り憑く何よりもおぞましいもの、光も音もなく近づいてきては誰にも勝ち目のない、あの恐怖です。それが部屋に入る前から付きまとってきて、部屋で襲いかかってきて……」

 そこで言葉が続かなくなり、頭の包帯に手を添えた。しばらく誰も口を開かなかった。

「……恐怖、恐怖か、そうだろうな。暗闇の呪いだ」

 やがて咳ジイさんがため息まじりに吐き出して、訥々とつとつと話した。

「あの部屋には、至るところに闇がひそんでいる。カーテンの裏、ベッドの下、昼間でも真夏でも、いや室内だけではない、廊下にもだ。このロレイン城こそが伯爵の罪の証にちがいない。この城がある限り、夫人の恐怖もあの部屋で生き続けるのだろうな──」







  • 適宜改行した。

  • 西洋の「幽霊ghost」には足がある。「光(火)light」は「知恵・理性」の象徴。

  • 明確な言及のない伯爵の「罪」については、本作品を収録する洋書の表紙や↓を一瞥すればわかりやすい(いわゆる「ゴシック小説」の典型で西洋文化では暗黙の了解みたいなもの)。


『ふたつの炎とマグダラのマリア』
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール (1640)






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