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『女子大に散る』 第7話・桜色ポリティクス


 面接にやってきた午後の女子大キャンパスは、うららかな晴天の下で不気味なほど静かだった。

「どうぞお掛けになって」
「失礼します」

 後に講師控室と知ったところで年配の女性と差し向かった。麗しい言葉づかいに誘われてのっけから談笑してしまう。

「先生ずいぶん背が大きいのね」
「それが中身は空っぽなんです」
「あらあら、そんなことないでしょう」

 トヨムラ先生は、当時まだ三年めを迎えようとする看護学部の構想段階から関わってきた初代学部長で、ターミナルケア終末期医療が専門の元看護師である。

「看護師は教養がなければ務まりませんよ、人間を相手にするんですから『人間』を知らないと始まらないの。なのに『医療と看護だけ学べばいい』って意見ばかりで、なかなかわかってもらえないんですよ……」

 シャンソン歌手みたく情感豊かに口ずさむ一字一句に、ここは本当に現代ジャパンの大学かと、高等教育の意義など念頭にない自閉しきりの専門バカの巣窟かと、武者震いがしていた。

「私ね、語学って一番の教養だと思うの。言葉って、それを使うその人そのものでしょう? その人の魅力とか生き方の表れですよね」

 ガクガク顎の外れそうなほど首肯うなずいて、用意していた無難な模擬授業を念頭から追い出して、長らく抱えていた本懐をぶつけてみた。

「すてきねえ、私が授業を受けたいくらい」

 うっとりほほえまれて有頂天、ついでにブラック企業に就職して血便が出たこと、金欠で留学に失敗し最後は二晩アジアの中心で野宿したこと、などなど学歴職歴の行間をしゃべくった。

「アアおかしい、こんなに笑ったのは久しぶりですよ」
「すみません紆余曲折ばかりで」
「どうして、紆余曲折のない人間に深みは出ませんよ」

 窓の外に桜が七分ごろんでいた。

「英語は一二年次の必修科目でェ、習熟度別で上級・中級・下級クラスにわかれておりまして、計6クラスですね、エエ、先生にはそれぞれ中級下級の計4クラスご担当いただきますので、はいっ、こことここに、ご捺印を頂戴できますかね」

 契約書をかわしに後日また足を運び、学部専任の職員サクタ氏にひと通り説明を受けた。背にゼンマイでも巻かれているようなせわしい口調と挙動で、やや仕事にムラはあるが憎めない同年代の女性である。

「上級2クラスは引きつづき人文学部のマツカワ先生に兼任いただくので、エエ、のちほど引き継ぎ等でご連絡があるかと思いますが、ハァイ」

 看護学部の英語科目は、設立時から隣の学部の常勤教員が一手に負ってきたという。翌日そっけないメールが寄越された。

「詳細はシラバスのとおりです」

 通称ビビコがいかに羊頭狗肉のおざなり語学をやっているかは、誤字脱字コピペまみれのシラバスに加えて二年生たちの第一声にも明白だった。

「先生ビビコのしりあいですか?」
「ビビコ?」
「なんだっけ、マツ──?」
「ああ、まったく関係ないですよ」
「よかったあ」
「まじ神い」

 全クラス同じ教科書を同じようにやるだけ、ゆえなく人文学部の学生と比較されバカにされ、遅刻したら嘲弄され欠席したら罵倒され、もうアルファベットを見るのも嫌だったという。ためしに一年生下級クラス向けに作っていた小テストをやらせてみたら惨憺たる結果だった。

「実は授業アンケートも毎年散々で、エエ、兼任の先生なのでお断りしづらかったんですけどゥ、あまりにひどいってトヨムラ先生が交渉されて、なんとか分担って形に、ハァイ」

 なによりも、十年近く前の内輪向けパンフレットくさい教科書を各期に買わせ、自慰的授業で若き時間を費やさせている公然の虐待じみた有様が、あまつさえ「人文学」の名のもと固定給を貰っている恥知らずぶりが、憤ろしくてならなかった。

「こういう語学になんの理念もなくて息抜きみたいに授業をする手合い、多いですからね……」
「そんなの絶対だめ。どうすればいいかしら、先生のご意見を聞かせて」
「まずは各クラス別々のシラバスを作るべきです。教科書も試験も別にして──」
「ちょっと待って、せっかくですから今メールしちゃいましょう」

 しかし自らの狭い専門以外には目に一丁字もないエセ人文学出身者は気位ばかり高いが常、

「ご不満があれば直接お申し出ください」

 夜になって短文が届いた。改めて丁重に提案してみるも返事はなく、一方トヨムラ先生には「非常勤講師と私とどっちが」云々という見当違いの抗議文が返信されていた。

「私に見る目がなかったせいね」
「先生のせいじゃないですよ」

 相手は学部違いの教授、兼任を頼んだいきさつもあって、トヨムラ先生にできるのはそこまでだった。現代ジャパンの大学が愛智フィロソフィの場ではなく政治ポリティクスの場に堕していることは耳目の腐るほど見聞していて承知済み、無念は察するに余りあった。

「やっとここまで来たのに……」

 しょんぼり愁眉を落ちこませて慇懃な謝罪文をパチパチ打ちだした姿に、なんとしても「教養としての語学」をここにち立ててやろうと誓った。

「中級クラスで『秀』をママめた学生は上級クラスに移ることとする」

 シラバスどおり見込みある萌芽が奪われていった。一年二年それぞれ全クラス同一の手前勝手な試験問題を作られるため、どれだけ無意味でもどれだけ下らなくても教科書どおり授業をせねばならなかった。我を通しても損をするのは学生たちで、どうしようもなかった。

「必ずいつかチャンスが来ます。諦めないでいましょう」

 なかなか拝顔できぬ多忙の人は、たびたび激励メールをくれた。控室にお菓子がねぎらいの一言を添えて置かれていたり、自筆の暑中見舞いや賀状が届いたりもした。恋文かほど字句や葉書を吟味し拝復しつつ、あちこち「教養」の種をこっそり蒔きつつ、機を窺っていた。

 やがてコロナ禍となったが、実技実習ありきの看護学部は前期のみリモートで済んだ。後期初回の直前サクタ氏に挨拶かたがた事情をたずねたら、

「トヨムラ先生のご尽力のおかげですよ。ただ人文学部はリモート継続なので、マツカワ先生はご在宅のまま授業をされるとのことで、エエ」
「試験はなしですか」
「ハイ今期は実施なしで、成績は課題と出席を中心に──」

 閑古鳥のキャンパスを教室まで向かったら、ドアの前に半年ぶりの見目かたちが待っていた。早足になると通話中らしきスマホを下ろしてあちらも小走り、出会い頭に背伸びと会釈が寄って、マスク越しの温もりに左耳が浴する。

「チャンスですよ」
「お任せください」

 頭の中は、その人だけに打ち明けていたあれこれではちきれそうだった。

「いったんシラバスは忘れてください。教科書も捨てていいです、もう買っちゃったって人は後から相談に来てください。後期はホンモノの語学をやります。テーマは『乙女』です──」

 白布に覆われた花々のさざめく中、再び廊下で通話を始めていた乙女がドア越しにウンとうなずき足早に去っていった。

「6コマもお願いしちゃって、ご負担じゃないかしら」
「大丈夫です。これでやっとまともな語学ができます」
「本当、長かったわねえ」

 春空の澄みわたる正午、看護学部の英語科目すべて担当する契約をかわした後で、一緒にお昼をと誘われ対座した。机上には印刷したての授業アンケートが広がっている。

「こんな回答率と結果は全学でも初めてですよ。まあすごい、自由記述欄もこんなに」

 ビビコは三月で兼任を解除された。年明け二年生のリモート中、スマホで中級下級クラスの噂をしていた学生のうち一人が、二日酔いの寝ぼけまなこで授業中の全員向けチャット欄に返信を打ってしまったという。もともと中級クラスにいたNさんで、

「あたま痛かったことしか覚えてなあい、あはは!」

 お怒りビビコは暴言を叫んだ。リモート授業は学内サーバに自動で録画・録音されているため通報を受けた学生課が調査、学内初のアカデミック・ハラスメント認定かというところで自ら兼任辞退を申し出てうやむや手打ちとなった。

「今後もなにとぞよろしくお願いします、アッご捺印はこことここと、あとここに、ハァイ」

 すべてサクタ氏の早口が教えてくれた。肝心のチャット内容もコイツ呼ばわりはさておき怠慢と無能を断じた正当なもので、Nさんには試験日に生協でじゃがりこ三種を贈呈しておいた。

「昨日〇〇大学の看護学部長とお話したんですよ。そうしたら鼻で笑われちゃった、『キミ教養ナンテ時代遅レダヨ』って」
「もったいないですね、土がないと花は咲かないのに」
「そう! もう私ね、見てろよこのやろ~って言いかけちゃった。いつかその鼻明かしてやるぞって、あらやだ失礼しました」

 二期にわたる学部長の任期を満了したせいか、トヨムラ先生は雅びやかな物腰のままいっそう矍鑠かくしゃくとして見えた。いつも食べさせてくれる上位職者用の高級仕出し弁当も、なんだか格別な味わいがした。

「それでね先生、折り入ってのご相談なんですけれど」
「なんでしょう」
「うちで常勤になっていただけないかしら」

 春風がビュウと外を吹いた。香の物が変なところに入ってせた。

「先生にこそ、ここの『教養』を引っ張っていってほしいんですよ。もしご迷惑じゃなければ、来年度から」
「全然、ぜんぜん迷惑なんてないです、喜んでお引き受けします」
「ああよかった! 断られたらどうしようって、どきどきしちゃった」

 ほほえみが一転はにかむ。

「十月末ごろに人事委員会があるんですけれど、またそのあたりで正式にお話させてくださいね。新学部長のイズミ先生もまじえて」
「わかりました」

 トヨムラ先生は定年を迎えていたが、後継を見守るため一年だけ嘱託として残ることになったという。イズミについては顔さえ知らなかったが、選んだのが乙女ならば疑うべくもなかった。

「先生を常勤にするのが、私の最後の仕事──」

 夢見るような横顔がつぶやいた。まさかとブリの切り身に添えてあるはじかみを噛んだら、すっぱかった。窓のむこうを爛漫の桜がちらちらふぶく、のどかな春の午後だった。







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