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【短編訳】 老人とフープ (1909)
帝政ロシア象徴派の作家フョードル・ソログープの描いた老残と哀愁。
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下部にフープで遊ぶ子が二人いる
![](https://assets.st-note.com/img/1660495134641-7wC5xlZwVb.jpg)
棒きれで打って回したり引っかけて弾ませたりする
「フラフープ (Hula-Hoop)」は商標名なので一般的には使われない
I
母親が、4才になる息子を連れて朝の田園を散歩している。みずみずしい頬を輝かせて、落ち着いた愛情ゆたかな微笑を浮かべ、子を見守っている。
子はフープと戯れている。大きな新品の黄色いフープだ。投げては追いかけ、膝をむき出した丸々しい脚でとことこ走り、けたけた笑っている。棒きれを振りながら、そんなにうまく回せなくても笑っている。
初めてのフープだった。まだまだ走るのに慣れておらずとも夢中になれるほど、楽しくて幸せなのだ。
早朝の外気も、まぶしい朝日も、遠くおぼろに聞こえる市街のどよめきも、全てがその子には新しく混じりけのない、喜ばしいものだった。
II
老人が、街路に立ちすくんでいる。みすぼらしい恰好で、がさついた両手を壁に押しつけて、道を開けた。やってくる母子を通してやるためだ。
鈍色の瞳に楽しげな子を収めるや、呆けたように、にんまり笑った。禿げた頭にとりとめない考えがのろのろと湧いていた。
「金持ちの子じゃな! 小さいくせに体いっぱい燥ぎおって。転ばぬものか、ひやひやさせるわい」
彼にはその子が何をそんなに楽しんでいるのかわからなかった。フープをよく知らなかったのだ。不思議な気分だった。
子が通りすがる。あたかもその円いものに引き連れられているように。いたずらでもしているのだろうか、子供はいたずら好きなものだ。
母が続く。叱りも怒りもしていない。利溌そうな麗人だ。さぞ温かくて心地よい家庭に違いない。
老人の少年時代は惨めなものだった。思い出せるのは飢えと寒さと痛みだけ、玩具なんて手にした覚えもない。貧乏、労苦、悲惨ばかり、喜ばしいことなんてひとつもなかった。打たれることなく食べていけるというだけで、今もさして変わらないが。
歯のない口もとを歪めながら、去ってゆく小さな背を見つめながら、老人は妬みを感じていた。
「くだらん遊びじゃ!」
千切れんほどに妬ましかった。
彼は仕事に向かった。幼い時分から働きづくめで一緒に年を取ってきた工場だ。そこで一日じゅう考えた。
考えずにはいられなかった。フープへと駆ける裸の膝が、太ましい脚が、笑い声が、思い浮かんで仕方がないのだ。止むことない機械の輪転がゴロゴロと響く中で、ずっと考えていた。
夜は夢に見たほどだった。
III
翌朝も、老人はフープのことを考えていた。
機械はガタガタ廻りつづけ、仕事は単調に過ぎてゆく。両手は惰性の作業に動く。歯の抜けた口ばかりがとめどない空想に歪んでいた。
だだっ広い作業場の空気は塵と埃によどんでいる。高い天井には革のベルトがいくつもぶら下がり、輪転する機械に従ってヒシヒシ鞭打つように揺れる。熱気と蒸気に曇って見通せないあちこちに亡霊のように佇む労働者たちは、機械の駆動音だけが響く中ひと声も発しない。
老人は少年になりきっていた。淑やかな母親のそばで、真っ白な服を着て、幼い太い両脚を露わにして、棒きれでフープを回して…………
来る日も来る日も働いた。空想はやまなかった。
IV
ある夜、仕事帰りの道ばたに樽が転がっているのを見つけた。腐りかけの汚らしいものだが、まだ留め具の輪が付いている。
老人は喜びに打ち震えた。抗しがたい情動に視界が涙でかすむほどだった。あたりを用心深く見回すや膝を折り、震わしい両手でフープを樽から外しては、顔を赫らめつつこっそり持ち帰った。
誰にも気づかれなかった。誰に尋ねられることもない。みすぼらしい老人が古びたぼろぼろの樽から使い途のない箍を持っていっただけだ、誰が気にすることもない。
見つかったら馬鹿にされそうだという不安はあった。なぜそんなものを拾って持ち帰ったのか、自分にさえよくわからない。ただ、あの日のあの子のものに似ていた。それだけだ。所有したとて害はなかろう。
いまやフープはこの手にある。まじまじ見て触れていると空想がつのって仕方がない。工場の騒音も、点呼の笛も、汗ばんだ視界さえも、ぼんやり遠のいてゆく────
老人は、窮屈な汚らしい一間暮らしだった。フープはベッドの下に仕舞った。錆びた灰色のそれを取り出し眺めると心が安らいだ。いつ何時でも、あの幸せそうな子の遊ぶさまが目に浮かんでいた。
V
暖かい澄んだ朝のことだった。小鳥たちが常よりぴちぴちと高く鳴いている。早くに目覚めた老人は、フープを携えて森へと歩きだした。
咳こみながら木々と藪を抜ける。黒々しい古樹の逆剥けた幹が厳しいほどひっそり打ち過ぎてゆく。虫たちが奇妙な訪問者に飛び上がり、シダは威圧するように高く伸びている。枯葉を踏みわけ、節くれ立った根を踏み越えて、老人は歩いた。朝霧が音もなく流れていった。
乾いた枝をひとつ手折ってフープを引っ掛けたら、陽光と静寂に満ちた空き地へ出た。数多の露しずくが刃のような草葉の上で乳白色に輝いている。
ふいに老人は棒きれからフープを滑らせるや、それが地に着いたところを打った。転がりゆくのを笑いながら追いかける。棒きれを高く掲げて、駆けながらまた打って、まるであの子がやっていたように。
なんだか自分が小さく愛らしい幸せな存在に思える。後ろから母の微笑に見守られている気もする。
光あふれる芝と苔の上を、老人は遊びまわった。歯の失せた口からあふれつづける笑い声にしゃがれた咳がまじるたび、土じみた顔色に似つかわしい山羊のような灰色の髭が震えた。
VI
そうして老人は、朝のひとときに森でフープ遊びをするようになった。
誰かに見つかり馬鹿にされるかと思うと、やはり羞恥の念に襲われる。手足がびりびり痺れて膝から崩折れてしまいそうだ。恐怖にも似た思いで、ときどき周囲をおどおど見回した。
誰もいない。誰に見られることも、聞かれることもない。
老人は心ゆくまで楽しんだ。街へ戻るときはいつだって柔らかな喜色をたたえていた。
VII
数日の間、普段と変わらない日がつづいた。ひそやかな遊びは誰に悟られることもなかった。
ある肌寒くて湿った朝、老人は風邪をひいた。そのまま寝込む間もなく死んだ。工場の医務室で、見慣れない顔に囲まれて、息を引き取った。知らない目と目に見下ろされながら、穏やかに微笑んでいた。
彼もまた子供だったのだ。彼もまた笑い、遊び、暗い森の明るい草地を駆けまわっていたのだ。やさしい母親に見守られながら。
完
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