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【短編訳】 悪魔と作家 (1899)

『どん底』のマクシム・ゴーリキーによる厭世主義ペシミズムの佳品。



左:トルストイ 右:ゴーリキー
(撮影1900年)


 寂滅の季節、死の季節、倦怠の季節、それが秋だ。

 曇りがちな昼は涙に濡れそぼつ灰の一色で、夜は黒々しい影に浸って風が呻くばかり、すべてが魂に憂鬱の翳りをもたらしては「無常」を仄めかしている。

 何もなにも生まれ、衰え、死ぬ。

 なぜ? なんのために?

 陰気な思考に満ちた魂は、秋が深まるにつれてますます彩りを失ってゆく。この苦々しい状態を和らげるためには妥協せねばならない。無常を引き受けることで、猜疑と絶望に埋もれかける心は救われ、しっかと地に足を立てているための道が開けるものだ。

 ただ、その道は険しい。生ける者が歩めばたちまち傷だらけになるほど棘まみれで、いつでも悪魔が待ち伏せしてもいる。偉大なるゲーテによって人類に知らしめられた、あの悪魔の中の悪魔が──

 その悪魔についての話をひとつしよう。

 悪魔もまた憂鬱だった。始終ふざけていられるほど愚かじゃなかった彼は、この世には悪魔でさえ真剣にならざるをえない時があることを知っているのだ。狡猾というよりむしろ果敢に、まるで人間のように、自らの存在について考えることもあった。

 そんな彼の本質的な部分は、しかしここではうっちゃっておこう。この話に関係があるのは、もっと一般的な、表面的な、いわゆる悪魔的な側面なのだから。

 ある秋の夜長、彼は墓地を散歩していた。一人きりで、なにか気晴らしでもないかときょろきょろしながら、人の世に伝わる古謡を口ずさんでいた。

秋は暮れ もみじ吹かれて
枝を去り 風と連れ立ち
天を舞う 高く高くへ……

 メロディにつられて風がひゅうひゅう居並ぶ墓石と十字架の間を吹き回った。天を隙なく埋め尽くしている重たげな雲間から、冷たい雨粒がぽつり、ぽつり、と死者の住まいを落涙のように濡らしている。虚空を裂いて伸びる裸木の歪んだ枝が、風に流され十字架を引っ掻き、かつかつと鈍い音を墓場じゅうに響かせた。

 悪魔は口笛まにまに考えていた。

「こんな天気だと、死者はどんな気分でいるんだろう。湿気がひどいし居心地はよくないだろうな。リウマチになる心配はないけど。──そうだ、ためしに誰か起こして話をしてみようかな。お互い良い気晴らしになりそうだ。そうそう、確かこの辺にはあいつの墓があったっけ。生きていたころよく遊びに行った、気難しがり屋の作家のあいつだ。久しぶりだなあ、墓の具合はどうって聞いてやろう。えっと、どの墓だろう……」

 しばらく散歩をしていたおかげで目当てを見つけるのはたやすい。

「あったあった!」

 歓声を上げて墓石をコンコン爪で弾き、

「さ、起きるんだ!」
「なんのために」

 くぐもった声が地下から響いた。

「用があるからさ」
「こっちにはない、御免だ」
「まあまあ、お固いことは言いっこなしだよ」
「そもそもおまえは誰だ」
「わからない? ぼくだよ」
「検閲官か」
「アッハ、違うよ!」
「では秘密警察か」
「違う違う!」
「批評家ではないだろうな」
「ぼくだよぼく、悪魔だよ」
「ふむ、少し待ってくれ」

 やがて墓石がズズズと動いて、砂塵の舞う墓穴から骸骨が這い出てきた。理科室にある標本のようで、骨と骨が紐でくくられておらず泥まみれである。眼球なき穴ふたつに青白い燐光を光らせ立ち上がり、土砂を払いに身震いをしてカタカタ骨を鳴らせた。

「元気そうだね!」
「元気なものか、死んでいて」

 どんより暗い空を仰ぎながら素っ気なく答えた声は、上下の顎関節が打ち合って奇妙なまでに低い。

「あはは、失礼失礼!」
「気にするな。それで用とは?」
「一緒に散歩したくてさ、久しぶりに。あいにくの天気だけど、もう風邪ひいたっていいよね?」
「構わんさ、慣れているしな」
「よく風邪ひいてたもんね、最期だってあんなに冷たくなってねえ」
「さんざ冷や水を浴びせられていたからな」

 二人は並んで歩き出した。青白い眼光が足もとの暗闇を照らしている。雨は霧のように細かくなっていた。夜風が肋骨の間に入り込んでは空白をさらっていった。

「街に出るのか?」
「うん、なにか見たいものでもある?」
「人だ、生きた人を見たい」
「人間なんか見てどうするのさ」
「どうもこうも、人の一生にしか興味はないぞ」
「今さら?」
「なんというか、人の生き様というのは、やはりいいものだよ。ただの石ころさえ宝石に変えてしまうんだから」
「相変わらずだねえ」
「それが私なのだ」

 言い切った作家に悪魔は肩をすくめた。

 二人は墓地を抜け、街へ入った。みすぼらしい街燈の灯りが家と家に挟まれた暗い路地に落ちている。

「そうだ、墓の居心地はどう?」
「悪くはない。静かだしな」
「この時期は湿気がひどくない?」
「多少な。だがもう慣れた。それより鬱陶しいのは、墓場へ迷い込んでは私の墓を見つけて騒ぐ者どもだ。私があそこへ入ってどのくらい経った?」
「四年、もうすぐ五年かな」
「そんなものか。今まで三人がやってきた。いまいましいやつらだ! 一人はわざわざ墓碑を読み上げて、『作家だと? 聞いたことないな! いや、そういやガキの頃こんな名前の商人が近くに住んでいたっけ』とわめいていた。どう思う? 十六年も有名誌に書きつづけて、単行本だって三刷もされたというのに」
「今は五刷だよ」
「そら見ろ。あとの二人はつがいだ。
 『この名前、あの人だ!』
 『本当!』
 『教会で読まされた人だ』
 『そうだっけ』
 『なにを書いたんだっけ』
 『美と、善と、なんとかかんとか』
 『そうそう、そんなの』
 『重鎮ってやつ』
 『そんな才能ある人が眠っているんだ、すごいなあ』
など話していった。弔辞も賛辞も死者にとっては苦痛なだけだ、文句のひとつでも言ってやりたかったよ」
「言えばよかったのに!」

 悪魔はケタケタ笑った。

「今どき誰もが物質主義者だからな。墓地で聞く恨み言なんて空耳かと思い過ごされるだけだろう」

 作家の言葉に、悪魔はまたぞろ憂鬱が迫ってくる気がしてならなかった。

 生前の作家は独善家で通っていたが、死後さえその性質に変わりはなかった。人間の価値は心にしかない。心だけが認められ称賛されるに値するのだ。浅ましきは物質主義者どもよ!

 ちょうど広場へ出たところだった。高い建物ばかりに囲繞される汚らしい有様を見張るように、濁った色の空がのしかかってくる。

 そろそろ墓へ戻ろうと言いかけて、悪魔はよこしまな考えをひらめいた。ほくほくと作家の腕に寄りかかり、

「ね、奥さんはどうしているか、知りたくない?」
「さあ──」

 作家は曖昧に返事した。

「考えたってしょうがないよ、中身がないんだから!」

 悪魔が笑うと作家もカラカラ頭蓋を揺らしながら、

「私は構わないんだが、彼女が会いたくないかと思ってな。会ったところで私とはわからないだろうが……」
「だろうね!」
「彼女は私が長く家を空けることを好まなかったし──」

 言い訳めく目の前で、建物の壁がガラス窓のように透けた。明るい暖かそうな広い室内が見渡せる。作家は骨をカッカッと打ち鳴らしては、

「いい住まいだ! 私もこんなところで暮らせていたら、今もまだ元気だっただろうな」
「そんなに高いところじゃないよ、三千ルーブリくらい」
「それでも私が一番稼げた年収の三倍四倍だ。どんな人が住んでいるのだろう」
「奥さんだよ」

 悪魔が告げる。

「そうなのか! それは、……よかった」
「そろそろ旦那が帰ってくるよ」
「美しくなったな、ドレスも素敵だ。──なに、あれが今の夫か。かっこいいじゃないか。いかにもブルジョワくさい、いや、無垢そうだ。いかにも性根の曲がっていそうな、いや、女受けのよさそうな顔だ」
「呪ってきてあげよっか」

 邪悪な目つきが囁いた。骸骨は目前に広がる光景に釘付けで聞いていない。

「二人とも幸せそうな顔だ! 人生に満足しているらしいぞ。彼女は今の夫を愛しているんだな」
「そりゃもちろん、大いにね!」
「彼はどういう人間なんだ?」
「ブティックの店員だよ」
「……ブティックの、店員か」

 噛みしめるように復唱して、作家は黙り込んだ。悪魔は莞爾にっこりほころんだ。

「ブティックの、店員だよ。どう思う?」
「私たちには、子供がいた。まだ生きている、息子も、娘も。まだ生きているはずだ、私にはわかる。息子は、いずれ立派な男になると思っていた……」

 作家が絞り出すように語ると、悪魔は涼しげに答えた。

「立派な男なんて腐るほどいるよ、みんな成長するだけで立派なものさ。今の世に必要なのは完璧な男だ」

 鼻歌を口ずさみだした横で、空っぽの頭蓋骨が悲しげに振られる。

「ブティックの店員ごときが、よい継父になれるとは思わない。すると息子は──」
「ほら見て! あんなに抱き合っちゃってさ! 幸せそうだよ!」

 悪魔がこれみよがしに指差すと、作家はうなずいた。

「まあ、稼ぎはいいらしいな」
「ぜぇんぜん! 彼この辺りじゃ一番の薄給だよ。でも奥さんに金があるからねえ」
「彼女に? 仕事をしているのか?」
「印税だよ! 作家先生の!」
「そうか──」

 作家はうつむいて、また頭を力なく振った。

「そうか、つまり私は、あの店員のために書いていたようなものか」
「そうなるね!」

 悪魔は快活に答えた。作家は地に視線を落としたまま、

「帰ろう」

 雨は蕭々と降っている。夜空は雲に覆われている。作家は足早に自らの墓へとカタカタ戻ってゆく。陽気に口笛を吹く悪魔をつれて────

 文学過剰の時代を生きる読者は、この物語に不満を覚えるだろう。万人を満足させるのは難しいものだ。

「悪魔の話なのに地獄が出てこないじゃないか、おれはそれを知りたいのに──」

 答えよう、私はあえてそれを書かなかった。周知の阿鼻灼熱など大したものではない。それよりもっと、永遠に恐ろしいものが他にあるのだから。

「ご臨終です」

 医者に死を宣告された瞬間、それは始まる。後悔、はてしなく続く後悔のことだ。

 あなたは狭い棺に収められ、埋葬される。すると終えたばかりの人生が目前に現れるだろう。最初の一瞬から最期の瞬間までが痛々しいまでにゆっくりと、まるで車輪の回転のように、ウソ、劣等感、見て見ぬふりをしたこと、あらゆる間違い、あの日あの時あの思い、つまり過去のすべてが、あなたの前に現れるのである。

 あなたが辿ってきたその人生には、もちろん他人もいる。みんな狭い道を押し合いへし合い、騙し騙され、急いでいる。今あなたが悔恨の中で思い知らされている、そのみじめな生き様だ。

 あなたは見ていることしかできない。破滅へとひた向かう彼ら彼女らに、何もしてやれない。身ぶりも手ぶりも、「そのまま進んではだめだ」と叫んでやることもできない。身も心もちぎれそうなほど無力なのだ。

 見るだけ、ただ見るだけ──これは一度始まったら二度と終わらない、善き心あればこそ永劫に続く拷問だ。この苦悩に、この苦痛に、終わりなどないのだ!




○ヨーロッパはだいたい土葬(荼毘に付さない)
○原作には本編の前後に挨拶や弁明が挿入されているが割愛
○英語版から重訳


ジャック・カロ 『ヴァイオリンを弾く小人』 (1616)






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