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ことばが絶滅してゆく


 クリスティナおばあちゃんが亡くなった。ヤーガン族の最後の生き残り、つまり「ヤーガン語」の最後の話者わしゃだった。

 ヤーガン族は南米チリの先住民、6000年前からかの地に定住していた。大航海時代(およそ400年前)のスペイン人の侵略・占領によって混血が進んだが、それでも150年前までは3000人が血脈を守っていた。それが、文字通り「0」となったわけだ。

 チリの公用語はスペイン語である。ヤーガン語はそのかたわらで、親から子へ、口から耳へ、ひっそりと伝わってきた。国語ではないので体系的な教科書・辞書・教育機関などない。

"Sabadgudサバグド zanikaサニカ"
「あなたといられて幸せです」という意味よ。

 クリスティナおばあちゃんは、その最後の一人だった。こんな美しい「ことば」と一緒に亡くなってしまったのだ。言い換えれば、ヤーガン語が絶滅してしまったわけである。

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 絶滅というと、デウス・エクス・マキーナ機械じかけの神の名作『ドラえもん のび太の雲の王国』を涙ながらに鑑賞した世代には、まず動物が思いつくものだろう。

 ことばも絶滅する。専門的には "linguicideリングィサイド" という。

"linguo-ことば" + "-i-" + "-cide殺すこと"

 英語圏でも学術用語は煙たがられるもので、"language extinction"の方が一般的である。後者extinctionが「絶滅」だ。サルでもわかる日本語ウキィぺディアにもめずらしく記事があった。なぜか「滅」と柔らかめに訳されていて極めて簡略化されてもいるが。

左:ドードー 右:ニホンオオカミ
どちらも100年以上前に絶滅

 ドードーは、ニホンオオカミは、人間が乱獲したせいで絶滅した。いま絶滅危惧種とされている数多の動植物もほぼ同じ事情、または開墾や伐採など間接的な手段により生活圏を奪われ絶滅に瀕している。

 ことばもまたひとりでに死なないし消えもしない。やはり人間によって、何百年もの時間をかけて、じわじわ真綿で首を絞められるように、絶滅させられるものである。

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 ことばの絶滅は、かつての植民地政策に起因するものが多い。例えば現在オーストラリアの公用語は英語だが、これは18世紀から200年ほど大英帝国イギリスの流刑地だったことに由来する。何万年も前から先住民族アボリジニが暮らしていたところへ英語が入ってきたのである。

 当時本国からオーストラリアに派遣された収監者や看守らは、憂さ晴らしに先住民たちを狩っていた。比喩ではなく、文字どおり狩るのだ。それをスポーツとして許可する法律も本国にあった。19世紀前半までに、何万人も娯楽のために殺されつづけた。

 たとえば大陸北部に暮らしてきた先住民族マリンガーは、「マガティケ」という独自のことばを持っている。以下の3人が最後の話者たちである(ただし2005年当時)。

マリンガーの三老人

 一昨年から、オーストラリア政府はマガティケを絶滅させないよう活動している。間に合うのかはわからない。

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 2007年の時点で世界にはおよそ7000の言語があった。そのうち半数が今世紀のうちに失くなると言われていた。2022年、単純計算でもう450ほどのことばが失われた。ヤーガン語はその一例に過ぎない。今も世界のどこかで2週間にひとつずつことばが絶滅している計算になる

 人が日常的に使用することばを「母語」という。これは明治時代に入ってきた "mother tongue" の翻訳語である。これにわかるとおり、ことばとは自分だけのものじゃなく、それを使って生きてきた人々=先祖「母」のものでもある。

 つまりその絶滅とは、「母」が死ぬということに等しい。「母」なきところに「子」は増えぬ。

総務省HP

「滅びるね」

夏目漱石 『三四郎』

 明治のころから見透かされていた日本の衰退は、現代の語学教育に驚くほどわかりやすく表れてしまっている。

最近よく寝れない。  /  She cam't eat Natto.

左より右の方が正誤指摘率高そう

 日本に生まれ日本に育ち日本で暮らしながら英語をこそよく知っているなんて、どう考えても異常だろう。だが「グローバリゼーション」なんて正体不明の標語に官学民がこぞって惑わされた結果、いまや初等教育課程=小学校の3年生(満9歳)から「英語」は必修科目とされてしまった。

現代日本人が運用できる語彙数は約6000語といわれる
これを加えて6400なのか引いて5600なのかは知らぬ

 まるで根なし草を育てているようなものだ。無節操にすぎるカタカナ英語の氾濫は終わらないだろう。それが教育の目的なのだろうか。こんな豊穣な語彙を持つことば、世上どこにもないというのに。

 今世紀のうちに絶滅すると噂されている残り2000余りの「ことば」に日本語がない保証なんて、どこにもない。

 実感は現にあるのだ。

*

 「ことばが絶滅した!」

 そう聞くや、いつも物分かりよいツラした自称「学」のはしくれが顔を出してくる。そして、いつだって大同小異のテンプレをのたまう。

チェスタトンに押しつぶされるべき典型的な文系ことば
(ソシュール → 金田一父子 + レヴィストロース)

 確かにことばは変わる。古くは漢語あり新しきは洋語あり、現代日本語は「やまとことば」から大きにかけ離れているものだ。

 で、だからなに? それは、今ここ﹅﹅﹅に生きて「父・母」を「パパ・ママ」と呼びならわす全員が、陰に陽に思い知っている。

 「自然なこと」? 今ここ﹅﹅﹅で絶滅へとひた向かうことばを、「母」を、なんとか守っていたいこの思いは、不自然と?

親を亡くした人に「人間どうせ死ぬんだから」と声をかける
子を育てる人に「人間どうせ死ぬんだから」と声をかける

dag*****の「文」はこれらと同じ構造である

 今ここ﹅﹅﹅に生きている人間が見えていない文学部出身者よ。他人のことばを自分のことばと錯覚しつづけている剽窃ひょうせつ者よ。抽象化された一義的な物の見方から脱せられぬ専門バカよ。

 貴様のような人間こそが学問をけがしていることを知れ。

*

"VIVE LA FRANCE !フランス万歳!"

ドーデ 「最後の授業」

 ことばは変わる。軍事衝突だけを避けに避ける現代日本では、その主たる使い手であるわれわれ大衆自身が変えている。

 血さえ流れなければ、それが文化侵略であることにも、つまり戦争の暗喩あんゆであることにも、気づかない。「外」の視点を持っていれば、そんな「内」の異常が骨身に沁みる。

 でも、どれだけ「グローバリゼーション」の本質を見極めていても、そのぶんことばに敏感であろうと心がけていても、多勢に無勢、一人ではなにも変わらぬ、変えられぬ。

 そうしていつまでも「母」は蹂躙じゅうりんされつづける。他でもない「子」によって、まぎれもないこの私によって────









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