ぽりあしっど

オーディオと地質と現代文化観測が趣味

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    交信を纏める用 ゲーム研究やメディア論、サブカルチャー論分野からの概念参照は多めなのでわけがわからなかったら申し訳ない

最近の記事

「メタ時間」によって得られるものと失われるもの

「時間を忘れる」という言葉がある。時間感覚がわからなくなるほどなにかに没頭することを表す語だが、この背景にある「時間感覚の無効化」という現象は、特に物語創作において極めて重要な意味を持つ。物語を創作する上で、実時間に1:1の時間スケールで進行されることは極めて少ないし、実際にそれを強要されることはない。これを支えているのは、物語進行における内部時制を実際の観劇/読書体験によって得られる体感時間にしてしまう魔法、つまりは時間感覚の無効化である。つまり、「時間を忘れる」ことは没頭

    • VTuberの台頭と「スターアイドル」からの堕落、あるいは本筋と関係ない「推しの子」の話

      以前書いた「メディア特性」の話でも触れたが、VTuberが「映像表現のハードルを下げる」1技術的コンテンツであった時代は過ぎさり、代わりにアイドル性が表出したことは記憶に新しい。ところが、アイドル論、特にメディアよりも産業寄りの論旨でこれをどう処理するかは主張の分かれるところではないかと思う。本稿では、仮に「アイドルのスター性」という観点からの経時変化による理解を試みたい。 アイドル、特にテレビアイドルの登場は1970〜80年代、「スター誕生!」を契機に、カラーテレビを中心

      • 「冷静でいられない話題」の無効化方法を探す話

        「日本語はハイコンテキストな言語だ」という言説に、日本人は多くの場合誇りを覚える。ハイコンテキストであることは繊細で、高度なことだという感覚が強いことは、もはや語るに及ばないように思う。 勿論、ハイコンテキストな語彙・表現は会話内容の高度化を助け、文脈による繊細な表現を可能にする側面があることは間違いない。しかしながら、一般にハイコンテキストな会話は相互の暗黙の了解によって成立すると考えられているが、実際にはその場において優越性を持った(多くの場合支配的な)文脈を持つ理解が

        • THE FIRST TAKEは「なにでないか」、或いは星街すいせいの話

          自分自身迷子になりそうなのではじめに断っておくが、これはTHE FIRST TAKEの話であると同時にVTuberの話で、つまるところ自身のオタトークだ。これを念頭に書き始める。 THE FIRST TAKEの公式ページのアオリは「ありのままの自分を。ありのままの音楽を。一度きりにこめる。」なのだが、これは誤解を恐れずに言えば、通常の楽曲は「アーティストを通して曲が発信される過程」という側面が強めなのに対して、THE FIRST TAKEは「曲を通してアーティストが発信され

        「メタ時間」によって得られるものと失われるもの

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          「AIイラスト」と商業性と推しの話

          最近AIイラストの件で各SNSプラットフォームが様々な立場を表明し、てんでバラバラなのは非常に宜しいと思っている限りなのだが、サブカルチャーオタクアンチのスタンスを持つ方は兎も角として、オタクがお互い無意識にクロスカウンターを狙っている構図が多い気がしたので、今までの言説を延長する形で現段階での所感を述べておこうと思う。 前もって分けておくが、「AIが描いた絵に感動するか」という問題は、以前にも書いたアスリート性という観点から説明できるので省略する。詳しくは大坂なおみ選手の

          「AIイラスト」と商業性と推しの話

          メディア特性を知ることは難しい、或いは「飲み会って大変だよね」という話

          近代以降の技術によって成立した媒体において、その歩みは多くの資料ないし先人の分析を以て振り返ることができる。例えばアニメーションであれば『蒸気船ウィリー』のスクワッシュ&ストレッチのようにかなり早い段階から「既存の映画にはない、アニメーション特有の表現」への追求がおこなわれていたことがわかるし、映画についても、初期のものを「アトラクション映画」とガニングが定義したことは既に述べたが、最初期の、つまり1891年には技術的には存在していたキネトスコープでは『メアリー女王の処刑』(

          メディア特性を知ることは難しい、或いは「飲み会って大変だよね」という話

          「女性の社会進出」に代わる言葉を作りたかった話

          随分前に、兄から「女性の社会進出」という語彙を言い換えたいという相談を受けた。 聞くとなるほど、この言葉は結局「社会に出ていないのが偉くない」という認識に基づいているし、もっと言えば井戸端会議だって立派な社会活動である。確かにあまりフェアな用語では無いかもしれない。求めるニュアンスを変えず、取り敢えず表現だけをジャストなものにしたい。 一つ思いつくのは以前の結婚(≒専業主婦)という契約はあくまで個人、或いは家族単位の奉仕という意識が強かったわけで、それを「社会への奉仕ではな

          「女性の社会進出」に代わる言葉を作りたかった話

          「主人公を格好悪く描く」のはかなり難しいのではないかという話

          自身のことをオタクと表現してよいのかには迷うものの、サブカルチャー系の小説やアニメもそれなりに嗜む身であり、人生でもそれなりに少なくない時間をそれらのコンテンツと共有してきた自覚がある。そんな私が最近悩んでいるのが、「主人公補正」に段々と耐えられなくなってきているということだ。はじめは「最近のコンテンツはなってねぇな」と思っていたのだが、自分で閾値などの話をするうちに「本当にコンテンツ側の、或いはだけの問題なのか?」「それは私がボリュームゾーンじゃなくなっただけで、エゴじゃな

          「主人公を格好悪く描く」のはかなり難しいのではないかという話

          オタクが「文化価値的接続」を語るということ

          昨年実家で柳宗悦の番組を見て思索にふけっていたら、(別に同じ番組を見ていたとは限らないが)割と似たことを考えている方がいらした。 なら敢えて書く必要もないかと思ったのだが、末尾を含めると若干違う話のような気もするので、備忘を兼ねて提起。先にイガなおさんのを読んでいる前提で話を進める。なお、おそらくイガなおさんの言いたい主題とは異なる文脈で引っ張ってきていることを先に謝らせていただこうと思う。 オタクは「市場を作る」ことに終始して良いのだろうか。私は主にオタク個人の幸福のた

          オタクが「文化価値的接続」を語るということ

          ポリコレとかとは全く関係ない概念として、「じゃない」表現は力を持つという話

          我々が「表現だ」と認識できるものの殆どは「違和感」から始まっている。今まで通りのものは省エネに理解して、「いつもより綺麗な描写」「いつもと違う描き方」「いつもと違う間のとり方」などというものに思いを馳せる。 これはなにも特別なことではなくて、『今まで男所帯な表現だった戦争映画に男「じゃない」女を入れる』とか、『二次元性が強い初音ミクライブで二次元的「じゃない」一点透視図法的な光線を使う』といった表現はメッセージ性を持つし、これに「メッセージ性を持つな」というのは少々無理がある

          ポリコレとかとは全く関係ない概念として、「じゃない」表現は力を持つという話

          コンテンツとしてのVTuberと「初音ミク」

          コンテンツとしてのVTuberは、YouTuberの中でもかなり異色である。簡単に同人誌は作られ、動きは歪だ。これは一体どこから発生しているのか。そう聞くと、所謂「中の人」の話に聞こえるかもしれないが、今回は少し違う議論をしたいと思う。 今回のテーマを先に上げれば、「消費」「技術」「認知」そして「体感的人権」である。基本的にはなぜVがYouTuberから遠くて、であればそれをなんと呼ぶのか、という形で話が進む。 Vは性的か否かに関わらず、かなり非人間的、コンテンツ的な消費を

          コンテンツとしてのVTuberと「初音ミク」

          VTuberの引退と「箱」の話

          VTuberには「箱」という概念がある。いや、おそらくは「にも」というほうが適切で、出処には明るくないが、アイドルやその手の文化から来たのだと思う。「箱」とはVTuberの所属するグループを指し、特定のVを推すのではなく、或いはだけではなくそのグループ全体をひっくるめて応援することを「箱推し」と言ったりする。これには個人運営しているVがグループを組んだり企業の支援サービスに参加している場合も含まれるが、今回は企業が運営している大型の「箱」、例えば「ホロライブ」や「にじさんじ」

          VTuberの引退と「箱」の話

          百貨店の売り物の話

          日本に百貨店が生まれて凡そ120年が経った。明治期、老舗呉服屋が次々と百貨店を開店し、当時珍しかった舶来品を国民に供給する役割を担っていた。以降、徐々にに大衆化は進んだものの、より安価に商品を提供するスーパーマーケットや大型商業施設との差別化から高付加価値の品揃え・サービスをおこなってきた。特に販売員のサービスは小売業の中でも群を抜いており、私自身も「雨なのに傘を持っていない」ということに気づいた販売員の方に駐車券のサービスを申し出られ、感動した経験がある。 高付加価値なサ

          百貨店の売り物の話

          神の自由と科学的論理とインターネットアカウントの話

          一部の神は自由を持たない「現象」であって、ある種妖怪のような存在とすら言える。大きな力を持ち、人間に(その気はなくとも)干渉してくるが、ここに気まぐれが発生することは認知されない。こういった神の社会構造中の特徴として、理解の及ばない、大きな力(例えば天気、或いは災害や病気)をコミュニティ内の汎ゆる人間の「責任」に転嫁する効果を持つ。彼らには「気まぐれ」のようなことが起きればその理由が考え出され、至らなかった自分たちに責任が回帰していく装置なのだ。文字にすると自然を掌握する全能

          神の自由と科学的論理とインターネットアカウントの話

          「差別的」が差別的なら、どういう表現に置換すれば良いのかという話

          インターネットだと割とある話だが、「そういうとり方もできる」という表現に対して「差別的」だというレッテルを貼ることはあまり適切ではない。極端な話、「指がちゃんと5本ある」が指が5本ない人を無視していて差別的だ、という意見があったとして、「指が5本ある」はマジョリティによる一般化なのに、「〇〇的」で括るのも一般化ということになる。 発話者に差別な意識がない中で「差別的」だとすることは「差別的」という語彙のもつ意義の客観性/普遍性を主張することになるわけだ。勿論発信者は発言に対し

          「差別的」が差別的なら、どういう表現に置換すれば良いのかという話

          「学士」とはあまり普遍的な資格ではないのではないかという話

          「学士」というものが今までどのように受け止められ、利用されて来たのかに興味が湧いた。 例えば、大学進学者が増加して今に至ることを考えると「学士」資格は今ほど普通ではなかったはずで、特殊技能とまでは言わずとも専門性の高い資格だったのではないかと思っていた。しかし、現在就職等含めて社会的に「学士」保有者に求められているように見える(就活未経験なので)能力を鑑みると、当初社会的に要求されていたものとは扱い自体は変わってきているのではないかと疑問が生まれた。 「学士課程教育の構築

          「学士」とはあまり普遍的な資格ではないのではないかという話