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「メタ時間」によって得られるものと失われるもの

「時間を忘れる」という言葉がある。時間感覚がわからなくなるほどなにかに没頭することを表す語だが、この背景にある「時間感覚の無効化」という現象は、特に物語創作において極めて重要な意味を持つ。物語を創作する上で、実時間に1:1の時間スケールで進行されることは極めて少ないし、実際にそれを強要されることはない。これを支えているのは、物語進行における内部時制を実際の観劇/読書体験によって得られる体感時間にしてしまう魔法、つまりは時間感覚の無効化である。つまり、「時間を忘れる」ことは没頭した結果起こるものでありながら、その物語により深く没頭するための手段でもあるのだ。裏を返せば、集中が切れるような要素、例えば疲労感などは内部時制の体感を困難にし、その把握のために意識を割かれることになる。没入感を阻害しかねない内部時間のスキップは、大抵きちんと気を使われており、例えば、その話/巻/シリーズ/レーベル内で、表現技法を共有することがある。これは、対象コンシューマと共通記号を持つことで負担なく無意識に受け入れてもらうという試みである。他にも狂言の「三角回り」などがわかりやすい例だろうか。

ここで、実時間を表す時制を物語の内部時間と比して「メタ時間」と呼んでみることにする。わざわざ内部時間を起点にしたのは、実時間との関係を物語の効果として整理できるのではないかと思ったからだ。有り体に言えば、メタ時間は「意識させない」を超えて「あえて意識させる」ことでコンシューマの没入を調整できるのではないかと考えている。このような発想に至ったルーツは手塚治虫の「ヒョウタンツギ」で、本編の脈絡なく現れる謎にコミカルなキャラクターは読書中の没入を乱してしまうだろうが、それはむしろ読者に距離をとってもらうための作戦だったのではないかという話もある。あるいは、西尾維新「物語シリーズ」などでは、話終了時のお決まりフレーズ「後日談。というか今回のオチ──。」など、急に語り手の存在を意識させることによる没入感の調整は頻繁におこなわれている。メタ時間を意識させることにもまた、そういった効果があるのではないだろうか。

「没入を浅くする」話を一つ大きくしたい。物語の内部時間とメタ時間、2つの時の流れがあることをより創造的に使おうということだ。
より直接的には本来単層しかない時間概念を多層化することで得られる対比構造が存在するだろう。ピノキオピーの「すろぉもぉしょん」はその例で、楽曲内で語られる「寿命」とメタ時間の対比が何度かみられる。
更に構造的なパターンとして、1:1時間スケールによる第4の壁の破壊も挙げられる。この例では、SNSミステリー「Project:;COLD」を出したい。Project:;COLDでは物語の内部時間とメタ時間を完全に合わせてしまうことで、没入に対するハードルの無効化を図っているといえる。


創作において制限であることを、「共通了解」によって乗り越える技術があり、その共通了解を踏み台にした新たな表現が生まれる。ハイコンテキストな表現技法が挑戦的に発生することは、我々コンシューマが常に歓迎することだ。

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