ポリコレとかとは全く関係ない概念として、「じゃない」表現は力を持つという話

我々が「表現だ」と認識できるものの殆どは「違和感」から始まっている。今まで通りのものは省エネに理解して、「いつもより綺麗な描写」「いつもと違う描き方」「いつもと違う間のとり方」などというものに思いを馳せる。
これはなにも特別なことではなくて、『今まで男所帯な表現だった戦争映画に男「じゃない」女を入れる』とか、『二次元性が強い初音ミクライブで二次元的「じゃない」一点透視図法的な光線を使う』といった表現はメッセージ性を持つし、これに「メッセージ性を持つな」というのは少々無理がある。

しかしこれも我々の認知次第なところがあって、前紹介した話だと『「YouTuberの特殊形」として見られていたVTuberは違和感を持たれるが、「自律するキャラクターコンテンツ」としては受け入れられる』という現象が発生する。私はこういった現象を「閾値(別記事参照)」が底上げされたことによる結果として起こっていると考えており、参照される認知パースによって引用される経験値が異なるという現象が観測されているのだと推測している。

例えばSHIROBAKOは実際の現場に対して「じゃない」美少女は多いわけだが、(私も含め)オタクはこれを許容し得てしまう。これも恐らく経験値の蓄積による「認知の歪み」ないし一種の「閾値」によって非表現化した例なのだろう。逆だと現状起こらないわけで、これを以て「差別的だ」「性消費的だ」とするのは耳の痛い話だ。
しかしながら、これは男性主体であったから性消費的マジョリティとの指向性が噛み合って議論が展開されているだけで、今の状態は自由意志というより、界隈内が単一属性になっていたわけだからなるべくしてなった環境要因といったほうが適切だとは思う。勿論オタク側が「(セックス/ジェンダー双方を踏まえた)性消費をしていない」というのは明らかに無理があるし、蠱毒のように、ないしガラパゴス的に「閾値」を上げてきたオタクが、その中の常識を振りかざして一般層に主張することこそ滑稽である。

オタク側、一般層側双方にポリコレよりも前の「問題の区分」について提起している人はいて、彼らが他のポリコレ議論とともにブルドーザーに轢かれていく様子をよく見る。できることからというわけではないが、オタクは如何にして「界隈の常識」と文化的価値を擦り合わせるのか、いい加減答え合わせする段階には来ているのだと思う。

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