見出し画像

コンテンツとしてのVTuberと「初音ミク」

コンテンツとしてのVTuberは、YouTuberの中でもかなり異色である。簡単に同人誌は作られ、動きは歪だ。これは一体どこから発生しているのか。そう聞くと、所謂「中の人」の話に聞こえるかもしれないが、今回は少し違う議論をしたいと思う。

今回のテーマを先に上げれば、「消費」「技術」「認知」そして「体感的人権」である。基本的にはなぜVがYouTuberから遠くて、であればそれをなんと呼ぶのか、という形で話が進む。
Vは性的か否かに関わらず、かなり非人間的、コンテンツ的な消費をされる。二次創作では少なくない割合で死ぬか殺されるかしているモチモチしたVも居る。こういった「消費」、或いは「技術」に関しては言うまでもないかもしれないが、トラッキングをはじめ、表現手法として大きく異なる。これは「認知」という形で集約され、明らかに発音の形をしていない、嫌な言い方をすれば口がパクパクしている動作に声が当たった「口パク」が行われる。こういった非ピクサー的な表現は、YouTuberとして見たときに我々に耐え難い違和感を与える。

しかし、VはYouTuberと比較された当初こそ「動きに違和感がある」とった旨の批判も強かったように思うが、皆すぐに慣れていった。これは「YouTuberの特殊パターン」から「自律するキャラクターコンテンツ」へと認識のパースが変わったという側面もあったのではないか。(そう考えると、鉄腕アトムから続く「認知の歪みの醸成」という「閾値(別記事参照)」の底上げはVTuberにとって大きな意味を持っていたことになる。そういった意味で、藍月なくるさんは自らの立ち絵のことを「概念ちゃん」と呼んでいるが、かなり的を射た表現であろうと勝手に納得している。)そして、このコンテンツ性を私は「初音ミク的」と形容したい。これは後にも述べるが、確かな脈絡を受け継ぎつつも、新たな表現として成立させたことに対する敬意でもある。

初音ミク的と言いつつも、初音ミクと明確に異なる点もある。それが「体感的人権」の観点である。(「体感的人権」に関しては『神の自由と科学的論理とポルシェとインターネットアカウントの話』で説明しているので、そちらを参考にされたい。)

VTuberは「コンテンツ≒本人」であるという認識が受手に強く出る。強い自律性を持つのがその理由だと思うが、受手から見た感覚的な匿名性が低いメディアには「体感的人権」が発生しやすい。結果として、そもそもアイドル的だという側面を置いておいたとしても、基本的にコメントは「討論型コミュニケーション」が忌避され、「共感型コミュニケーション」が卓越する傾向にあるはずなのだ。

しかし同時に、「その先の表現」に行き着いた例もある。ヒカキンなどの「YouTuberの立ち絵」である。ヒカキンは主にVTuberとコラボを組むときに利用してるが、別にこれによってVTuber的な消費をされたりするわけではない。しかし、画の中でヒカキンという存在の体感的人権が「希釈」され、視聴者に余計な負担を掛けさせないような構造になっている(彼が意識しているか否かに関わらず)。これは、VTuberというコンテンツ表現が浸透したことで、本来YouTuberの形式から「じゃない」形になることに明確にメリットが生まれた例だと思う。昨年12月に「初音ミクGALAXY LIVE 2020」動画の期間限定公開があった。彼女は本質的に電子の歌姫であるが故に「三次元的な演出」というのが「表現」足り得るわけで、こういった表現のことを「じゃない」と分類している。

そういった「じゃない」表現でも今回の話と近いのは、「初音ミクが一切の動きのブレなく動いていた」ということで、これは人間的な動きから言えば違和感のある動きである。元々この動きには「現実の動きを再現できない」というニュアンスしかなかったわけだが、近年のアニメをはじめとした「無意識」を表現する力の向上、そして何より「電子の歌姫」であることの固有の意味を持つに至ったその積み重ねが、電子の歌姫であることを強烈に主張するために「意識的に無意識を表現"しない"」ことを普遍的な表現として成立させたのだ。
こういった要素がやはり私に「初音ミク的」だと言わせるし、恐らくそれが普遍的な正しさをあまり持たないのも理解している。この議論がオタク特有のパッションの一部として誰かに伝われば、それほど幸せなことはないだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?