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オタクが「文化価値的接続」を語るということ

昨年実家で柳宗悦の番組を見て思索にふけっていたら、(別に同じ番組を見ていたとは限らないが)割と似たことを考えている方がいらした。

なら敢えて書く必要もないかと思ったのだが、末尾を含めると若干違う話のような気もするので、備忘を兼ねて提起。先にイガなおさんのを読んでいる前提で話を進める。なお、おそらくイガなおさんの言いたい主題とは異なる文脈で引っ張ってきていることを先に謝らせていただこうと思う。


オタクは「市場を作る」ことに終始して良いのだろうか。私は主にオタク個人の幸福のためにオタク界隈を社会的に認めさせるべきだという立場だが、急激に新規流入層が増えると、生産物に趣味人の言うところの「堕落」が起こる。少し説明する。

元来の重度オタク文化は、インターネット環境の卓越によって新規層が急速に開拓され、市場としての様相を呈した。しかしながら、これは重度オタクの愛する市場的にニッチなニーズから需要のボリュームゾーンが移動する(生産上最適化される)ことを表しており、これからの「オタク市場の拡大」は必ずしも「オタクに好まれる作品の隆盛」を意味しない。

※以前にも「閾値」の話として書いたが、軽く説明。今回のニーズ差を説明し得る一つの要素として、前提知識の差が挙げられる。多くの作品に親しんだ人は、新しい作品に登場する摂取対象の「新規概念」が高度化する傾向にある。例えば「セカイ系」を見慣れた者はより高度な設定を消化し楽しむことができるし、単純なセカイ設定を目新しいものとして楽しむことができなくなってしまう。SF小説などもわかりやすい。これは対象ジャンルを古典から消化しなくとも、新しい作品に取り入れられている「古典的なエキス」によって間接的に摂取(履修)されている場合がある。

ともあれ、これらのライト層とのニーズ差によって生み出されるボリュームゾーンのズレは多くの場合、文化的価値観によってある程度重度オタクにも還元される。これは若者文化がメジャーカルチャーとなった先行事例、例えば小説文化や映画文化を考えるとわかりやすいが、インターネットが隆盛になる以前の若者文化は新規流入層が制限されていたが故に、ある種の同人的価値観が保持されたまま中高年の趣味となり、社会的地位を得ることになった。結果として、新規流入が多いパターンと比較すれば、ある程度黎明期の価値観がそのまま文化的価値として認められたのではないだろうか。

一方、インターネットの盛んな時代に生まれた後期日本アニメーション文化、或いはFPSゲーム文化といったオタク文化の一部は、国際的な流れもあり現在新規流入層の未曾有の拡大期にある。これがどのような影響を及ぼすかは見通すことが難しいが、文化的価値の十分に世代を超えた認知がなされないまま規模が拡大してしまうことは界隈全体の価値観の中央値のノーマライズを生み、成熟期に入る前の醸成段階での重度オタクへの還元は思うように増えないかもしれない。

もちろん、そういった界隈がピラミッド構造によって成立することも承知しているし、新規流入層が多数入ったことで重度オタクの絶対数は増加するだろうが、国際的な「市場の原理」に強く晒される事自体の影響は未知数である。(ここに、ある意味で「ノーマライズの波に対抗する手段」として機能し得るクールジャパン構想が今後どのような形になるのかは興味深い。)

こういったことを未然に防ぐことを考えたとき、私が主張したいのはブランディングである。要は未成熟状態だから悪いのであって、若い段階からブランドが成立していれば良いのだ。そして、その先行事例としてわかりやすいのは「伝統的な、或いは既に認められつつあるカルチャーとの文化価値的接続を主張する」というブランディング方法である。

例えば民藝。イガなおさんの方でも紹介されているため概要説明は省くが、新たな価値観を「美術感覚」という既知の概念の再定義によって浸透させようという試みだった。雑誌に関してはいくつかのコーナーを試みては中止になり、ということを繰り返したようだが、試行錯誤の様子は見て取れる。
或いは現代アート。これは、現在その価値が「説明可能であるかどうか」に強く依存するようになってしまっているが、これも既存の芸術との文化的文脈を主張できるか否か、という部分に着眼した優れた先行事例だといえる。
面白い(ネタ)ところだと、Twitterで言われるところのマナー講師などもそれに当たるだろう。「文化価値的接続によって新たな価値観を創出、社会に提供する」ことと「失礼クリエイター」というTwitter的発想は本質的に同等である。

このように、「文化価値的接続」によるブランディングは近年の先行事例が多く存在する。汎ゆるオタクは、自身の権益を守るためにこそ、厚かましく既存の技術や文化との接続を主張したほうが良いのではないだろうかと思わずにはいられないのだ。

追記という程でもないが、私を含め近辺で起こっている事例を紹介したいと思う。もしかしたらあまり普遍的ではないかもしれないが、「オタク側」の具体例が全く無いのはどうかと思うし、「ああ、こういう人もいるよね」程度に理解していただけるとありがたい。

推しのVTuberが歌動画を上げたとき、我々はこれを褒める。そして時に「この子の歌が本当に上手くてさ。いやほんと、Vが歌ってるって言ってもわからないくらい。」なんて言って非オタの知り合いや顔も知らぬTwitterのTLで勧めたりする。そして聞かされた相手は「お、なかなかいいじゃん」とか「(いや、歌手みたいは過言やろ…)」とか思ったりするわけだ。

しかしこれは、場合によって少々奇妙である。例えば「V自身が歌でブランディングしようとしている」ならば話は分かる。ファンとしてそれを肯定して後押しすることに何も違和感はない。しかしそうではない場合、そもそもVTuberというコンテンツの消費傾向と普通の歌の消費傾向は異なる。「歌」というジャンルで括られながらも、一種ストーリーブランディング的な、別の形式のコンテンツなのである。『「コミュニティ内でのコンテンツ提供」をするための歌』にまで純粋な歌唱力という意味での「実力を持たせ」る必要は、必ずしもないはずなのだ。そのVの普段の言動やバックグラウンドを知って初めて楽しめる曲というのはアイドル曲的かもしれないが、別にコンテンツとしてそうでない”実力派”の曲に劣るわけでは全くない。そして、それでも「実力を持たせたい」ファンというのは確かに存在する。

※補足しておくが、本当に歌の上手い(と私が思っている)Vも数多く存在する。何を隠そう、私だって安直にこういう布教をしてしまう側であって、自己分析の側面もあるのだ。

この矛盾について、まず考えつくのは、「単純にVに染まりすぎて歌唱力を測りかねている」という場合だ。まあこれはわかりやすいし納得しやすい。しかしそれは、何度も友人に、或いはTLにアタックする程続くだろうか。何度も界隈外の人とのイメージの相違を感じれば流石に違和感を感じるのではないかと思う。
ここで出てくるのが「文化価値的接続」である。「歌(”実力派”)」という既存の文化価値での理解/接続を試みることを深層心理で欲しているという仮説だ。つまり我々には、意識的か無意識か、コミュニティ内消費ではなく、社会的に普遍性を持つと考えられる価値によって推しを肯定したいという欲求があって、更に言えばそれは「推しを有名にしたい」という気持ちとないまぜになりながらも「自らの推しに有名であってほしい(というと打算的に聞こえるかもしれないが)」という承認ないし社会的欲求に準じて、或いはそうでないことへの危機意識を感じているということもあるのではないか。

個人的にはかなり納得感のある事例なのだが、当然私も説明に合ったバイアスに掛かっている側なので、どの程度普遍性をもって理解できているかはわからない。所詮、水を発見するのは魚ではないのである。

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