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メディア特性を知ることは難しい、或いは「飲み会って大変だよね」という話

近代以降の技術によって成立した媒体において、その歩みは多くの資料ないし先人の分析を以て振り返ることができる。例えばアニメーションであれば『蒸気船ウィリー』のスクワッシュ&ストレッチのようにかなり早い段階から「既存の映画にはない、アニメーション特有の表現」への追求がおこなわれていたことがわかるし、映画についても、初期のものを「アトラクション映画」とガニングが定義したことは既に述べたが、最初期の、つまり1891年には技術的には存在していたキネトスコープでは『メアリー女王の処刑』(1895)などに代表される映画独自の表現技法が編み出されていたことが知られている。
近代に限らず、このような媒体の歩みとしても既に触れている。

今回話題にしたいのは、芸術論よりも広範な意味での「メディウム・スペシフィシティ」の特定の難しさであり、しかし向き合うことの重要性についてである。

例えば、絵画のスペシフィシティには平面性が挙げられると思うが、これは、一般メディアとして写真と並列すると少々ややこしいことになる。筆者は芸術論に明るいわけではないのでおかしな解釈であれば申し訳ないが、「絵画は写真と比すると立体的であるし、非写実的である」という見方は、少なくとも素人目にはすんなり理解できるように思う(スケッチが写真と比して写実性に欠けるかという議論については、フィールドワーカー諸氏のご寛恕を賜ることができれば幸いである)。しかしこの程度の話であれば、我々の日常生活に大した影響はない。

特性だと信じられていたものは、ある種の先行者利益に過ぎないことがある。これは、構造的にはそれらの事象は過渡期にしか起こらないことであって、界隈や技術の進歩/成熟によって必ず失われる部分だということである。

例を考えて、Web3.0 を挙げてみる。
近年、Web3.0こそが情報を真に自由にすると言われているが、事実2.0の時にも似たようなことは言われていなかったか。1.0から2.0になり、形の上で選択肢が増えた情報の波は、我々の処理タスク自体がボトルネックとなり、結局はGoogleといった統合ハブに集中したのではなかったか。

或いは初音ミクはどうだろう。
彼女の台頭時、特に初期において、それは「音楽表現のハードルを下げる技術コンテンツ」であった。そして同時に、(好むと好まざるとに関わらず)「オタクが中傷されない不可侵のファンダム」でもあったわけだ。
ここに関しては界隈でもいくらかの認識の差がみられ、2007年TBS初音ミク事件を「一般層がオタクコンテンツをおもちゃにした」「TBSが初音ミクを貶めた」などの感覚差があるように思う。
しかし、コミュニティは広がることによってしか健全に成長せず、「不可侵のファンダム」であったのは単純にオタクが新規コンテンツ/コミュニティであった彼女の第一陣であったからに他ならない。同様の言説はVRチャットの文脈でも見られるが…
(完全に余談だが、初音ミクが「音楽表現のハードルを下げる」のと同じように、VTuberが「映像表現のハードルを下げる」技術的コンテンツだと思われていた頃は確かに存在していたように思う。ボーカロイドは読み上げ音声に、VTuberはIRIAMなどのアプリケーションサービスに席を譲った感はあるが、名前を変えつつも、芽吹いた発想は別のところで実をつけるものなのかもしれない。技能が細分化され、ノーマライズされ、単一技能だけで勝負し、評価されることが可能な世の中もまた、幸せなんだろうか。)

これはTwitterに関しても同じことが言える。
公的な情報プラットフォームは、すべからく「情報を適切に共有するための恣意性」或いは「一定の論理に基づく網羅性」を要求される。
Twitterが流行り、情報プラットフォーム化したことで、プラットフォーマーはここに対応せざるを得なかった、さらに言えば「流行ったオープンプラットフォームはすべからく情報媒体化する」ので「心地の良いTwitter」とは先行者権益的な幻影である、ということである。
さらに一般化すれば、これは例えば「道交法が緩かった時代にブイブイ言わせていたのを懐かしむ爺様方」や「事実上オタクしかいなかった2ちゃんねる時代のインターネットを、〈開けた空間である〉と宣ってお祭り騒ぎにしたねらー」と同じ構造を持っている。(そう考えれば、それを知覚するに至った人は温かい目で見守ってやればいい気もするが…)


少し軸を増やしてみる。
多くの場合において、コミュニティは拡大するとともに、その特質(内部ルール)を鈍化させる「ノーマライズ」が起こる。
これは汎ゆるコミュニティにおいて言えることであり、逆の見方をすれば前述の「第一陣が感じていた価値の多くはいずれ無くなる先行者利益に過ぎない」ということと同質である(こともある)。
では、酒を用いたコミュニティにおいても、本来「酒を用いたコミュニケーション」が一般化するとともに「飲まないやつが悪い」に裏打ちされた割り勘や奢り文化は淘汰され、ノーマライズし、コミュニケーションツールから凡そ「相応しくない」会計処理を取り除く働きは弱まり、個別会計になる筈であったのではないのか。(「相応しくない」の概念は塚原伸治先生のレポートにインスピレーションを受けている。別に内容をちゃんと汲んだとかではないのだが、それはそれとして面白いので是非。)

しかし現実にはそうではない。無理な飲みにケーションは不分別に非難され、場合によっては軽度の「酒を用いたコミュニケーション」すら注意しなければならないものとなってしまった。これは何故なのか。

一つ考えたのは、酒飲み文化が広がった際に外的要因によってルールの一般化は阻止され、ハラスメント行為として残ってしまい、これが現在取り沙汰されている、という時間的な「ズレ」だ。
ハラスメント某は「酒を用いたコミュニケーションをライトに使いたい層」を意識したムーブメントであるが、既存のルールのイメージから飲み会への印象が悪い若者層や、ムーブメントの広がりによって狭い意味での既存の「飲み会」的コミュニケーションを行えなくなってしまった中高年層への不要な影響は著しい。
この状態はいわば、狭い範囲で強く、コミュニケーション上プラスに働くルールを強いる「飲み会」と、酒を用いたコミュニケーションとしてより広範に楽しめるようにノーマライズされた「飲み会」が意味拡大をしたまま語彙の上で分別されていない状態ではなかろうか。最近になっても飲み屋にアルコール度数の低いビアリーなどは種類を置かないが、構造として分化していくなら外飲みでの選択肢としてはあってもいいように思う。

さて、改めて見返して、飲み会では分化の選択肢を提示できたのに、前段では分化の選択肢を提示できなかったのか。自身のポジショントークが顕在化したようで、あまり良い気分ではない。

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