メイエルホリドと「堂々たるコキュ」「3つのオレンジへの恋」

古くはレッシング、近年ではグリーンバーグ に代表されたような「メディア特性の区別」と「適正への純化」という分析、或いは批評 は、類似の媒体が身近に、それも大量に存在する現代に生きる私にはひどくすんなりと受け入れられる。しかしながら、メディア特性がどこに純化されるのかという議論は当然起こり得るし、これは例えば、アンドレ・バザンやルドルフ・アルンハイムの映画という媒体への認識の違いにも見ることができる。
写真のもつメディア特性を「本質的な客観性」と定義したバザンは、それを時間軸に乗せた映画について、『現実を明らかにするリアリズム』に純化されるべきだと考えた。その後の映画表現の発展や現在映像メディアの与えるリアリティの限界が顕在化していることを考えると不思議な気もするが、同時に現代でもそれに類する映画が撮られていることを考えると、技術的な特性の1側面としては納得感がある。一方でアルンハイムは「現実の知覚との差異」をメディア特性として認識し、芸術媒体としてはこれを創造的に利用しなければならないと考えた。映画という媒体であるが故に存在するある種の“欠落”こそが、映画を独自の表現媒体足らしめるのだということである。
これはバザンの考える「リアリズムへの純化」と折り合わない発想にみえる。しかし、純技術的に「メディア特性の区別」を「任意の表現活動に対する各媒体の適正」として考えるのであれば、その区別は他媒体と比較される相対的なものであるが故に、より革新的な表現媒体が多くの特性/特異性を持つことはあまり違和感のないことのように思う。両名とも他芸術に対して肯定的な意見を寄せる一方で互いの意見と対立したという事実は、根本的な課題意識が「自身の表現し得る」「映画で表現し得る限界への追求」という表現技術に対する思想の問題だからであると考える。

話をロシアのアヴァンギャルド演劇に移す。スタニスラフスキーとメイエルホリドの関係は、バザンとアルンハイムの関係に類似する部分が多い。リアリズム演劇を志向するスタニスラフスキーはバザン、メイエルホリドはアルンハイムと対応する。当時の表現媒体全体を概観することは筆者には容易ではないが、例えば八大芸術の映画以外の七つ、文学、音楽、絵画、演劇、建築、彫刻、舞踊を当時の表現媒体の代表ととるなら、少なくとも経時表現や表現する筋を示す技法の直接性・具体性といった観点で演劇が最も「リアリティに富む」と評することはできるのではないだろうか。これはつまり筋に対するリアリティというのは演劇の特性として認められ得るという訳だが、逆にメイエルホリドの言 から、表現効果(現実と比すると特効ということもできる)は他の表現媒体との差別であると同時に、「日常の筋との差別」を意図していると捉えることができる。
娯楽性という観点で本当に“井戸端会議”と完全に別種の刺激を求めていたのかなど考えるべき点は多くあるように思うが、例えば堂々たるコキュにおいて不思議に映ったであろうその舞台装置が演者により定義される、或いは心理描写が歯車によって表現されるという技法は、「体感的な新規性を要求する」という切り口をより直接体現しようとした点でリアリズムと同系統ながら発想の異なる箇所である。であると同時に、これらの表現が、寧ろ3つのオレンジへの恋などの異化に顕著かも知れないが、筋に対してある種「過激」で「過大」であるところは、演劇表現的なアプローチを強く意識していた結果であって、“表現技術に対する思想の問題だから”であると言えよう。体感性を重視した同作は、そういった探求要素を持っていたからこそ、後にソ連国外で受け継がれていったのではないだろうか。

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