「差別的」が差別的なら、どういう表現に置換すれば良いのかという話

インターネットだと割とある話だが、「そういうとり方もできる」という表現に対して「差別的」だというレッテルを貼ることはあまり適切ではない。極端な話、「指がちゃんと5本ある」が指が5本ない人を無視していて差別的だ、という意見があったとして、「指が5本ある」はマジョリティによる一般化なのに、「〇〇的」で括るのも一般化ということになる。
発話者に差別な意識がない中で「差別的」だとすることは「差別的」という語彙のもつ意義の客観性/普遍性を主張することになるわけだ。勿論発信者は発言に対して責任を持つが、発言のテクストが「差別的に見えるか」と「差別的であることを意識して書いたか」を混同すると相手から不要な反感を招く。目標としている「相手に気づかせる」対応からわざわざ遠い選択を取ることはないだろう。
総じて「一般化」による例外の生成を否定するために一般化するのはあまり適当ではないというか、場合によっては構わないと思うが、こと指摘について言えば自己矛盾を起こしてしまうことになる。

では、こういうことを全く指摘しなければ良いのかといえば、単純に配慮に欠けたコメントのこともあり、実際に指摘されることで有名になる前に沈静化する場合もある。
では表現構造上、どう言えば適切に「例外の生成を否定」できるのだろうか。

精選版日国によれば、「 特に現代において、あるものを、正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと」、weblioによれば、差別的の意義素は「依怙贔屓を示すさま」らしい。これはまあまあ納得感があって、またこれが主観的な要素を多分に含んでいることもわかる。ここの主観成分を取り除いて、状態や性質を表すようなニュアンスとして抽出したいわけだ。

今思いつくもので提案できるのは、「一意でない」とかだろうか。「伝えたいニュアンスが伝わりにくくて、貴方の言いたい意味がストレートに伝わっていない可能性がある」ことを的確に、相手の主張ではなく表現の不備を追及する語としては悪くない気がする。

追記予定

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