新型コロナウィルスのさなかに届いたダンボールと、訃報。
新型コロナウィルスの真っただ中、私は5月終盤に久しぶりに自宅に帰った。
自宅には母から一つのダンボールが届いていた。
箱を開けると、中には色んな物が入っていた。
私は幼いころに海外にいた。
その時に弟と一緒に、両親が撮った数十枚の写真。
そして私が描いた絵が数枚。
思い出に浸りながら、その写真や絵を眺めた。
あれから随分と時間が流れた。
平成が終わり、令和になったのだなと改めて実感した。
母はなんでこんなものを突然送って来たのだろう?
どこにこんな物を補完していたのか?
この思い出の品物の持ち主は母ではなかった。
持ち主は母方の祖母の姉だった。
祖母の姉は戦後、小学校の先生になった。
やがて女性では珍しい校長先生になり、やがて中部地方の教育に携わる仕事をしていた。
7歳歳下の祖母は、今の私の祖父と結婚して、関西で専業主婦になった。
そして私の母と、私の叔父が生まれた。
私の母も、叔父も、結婚すると海外で生活をするようになり、日本に帰国することはほとんどなかった。
祖母の姉にあたるこの方は、何かと私たち姉弟や、いとこのたちのことを気にかけてくれて、日本の子供服や、本、お菓子などを、学校の先生の経験を生かして送ってきてくれた。
今回送られて来たのは、その洋服を私が着た写真や、そのお礼に描いた絵というわけだ。
それは彼女が#習慣にしていることだった。
この5月、祖母の姉が亡くなった。
中国地方にはもう親戚もおらず、かといって親族は新型コロナウィルスで葬儀に出ることもできなかった。
母方の一族は、コロナウィルス関係の仕事をしている人も私を含めてたくさんいた。
そして祖母の姉は、結婚をしていなかったのだ。
親戚づきあいをするには縁も遠く、どういう事情で海外にいる私たちを気にかけてくれているのかよく知らなかったが、この方は、この方なりに、私たちを孫のように思っていてくれたのかもしれない。
妹にあたる祖母も、さすがに年齢が年齢だけに、また体調も悪く、葬儀の出席は断念したらしい。
教職時代の教え子の方が、喪主をしてくださり、慎ましく葬儀は行われたようだ。
そして驚いたことに、この荷物の中には、かなりの額の遺産が私に残してある旨の遺言状のコピーまであった。
こんなに私のことを気にかけていたのかと、送られて来た郵便物を見ながら涙を流した。
私の家族が葬儀に参加できなかったのには、仕事や、外出規制の他にも、理由があった。
私の弟の年上の妻、すなわち義姉は二人目の出産を控えていた。
幸いこの方がお亡くなりになった数日後、元気な3300グラムの男の子が生まれた。
アラサーの私は、一人の姪と甥の、伯母となったのだ。
コロナで中小企業の支援をする仕事をすることで、私は僅かながらも社会の役に立つ、ましな大人に成長できただろうか?
未婚の私は、未婚で社会で働き続けた祖母の姉が駆け抜けた、昭和、平成、令和の苦労を考えると胸がグッとした。
私が将来結婚するのか、この方のような生き方をするのかはわからない。
でも彼女の血筋の者として、その志だけは未来に引き継いでいくつもりだ。
彼女が何を考えて、昭和、平成、令和を生きたのかは、ほとんどお会いした記憶がないのでわからない。
しかし時代を考えると、相当な困難があったのではないかと伺える。
その困難の中で、私の写真や絵は、彼女のわずかな救いになったのだろうか?
思春期に入った私は、仕事以外で写真を撮られるのが、事情があっていつも嫌がった。
だからこの方がお持ちの写真も、幼いころの無邪気な私の写真のままである。
私はほとんど自分の写真を持っていない。
しかし友人達ならば、何枚かは残っていたはずだ。
せめて亡くなる直前まで、ここまで私のことを気にかけてくださったならば、何枚でも送ればよかったと後悔が残った。
まずは精一杯の仕事をして、姪と、新しく生まれた甥の、良き伯母になることから始めたいと思う。
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