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ボンサイ柔術はグレイシー柔術なのか?

ホベルト・サトシ・ソウザとクレベル・コイケがMMAを語る時に使う「ボンサイ柔術」


こちらはマウリシオ・ダイ・ソウザ、マルコス・ヨシオ・ソウザ、ホベルト・サトシ・ソウザの父にあたるアジウソン・ソウザが開祖となる柔術の流派である。


アジウソン・ソウザは、サンパウロで極真空手と柔道を学んでいた。

ブラジルでは1920年代に、黎明期の日本の講道館柔道七段の前田光世が来日している。


この時の彼の弟子が、後に講道館柔道をグレイシー柔術に発展させることになるカーロス・グレイシー と、エリオ・グレイシー兄弟だ。

1972年にブラジルに帰化した日本人、 石井千秋がミュンヘンオリンピックで柔道による同国初の五輪メダル をもたらすと、柔道人口が爆発的に急増した。


さらに、この年に同じく日本の武道である極真空手の大山倍達の命令により、サンパウロに磯部清次が極真空手ブラジル支部を設立する。


極真空手において、4年に1回行われる世界トーナメントで、外国人初の優勝者がフランシスコ・フィリォが彼の一番弟子といえるだろう。


さらにこのブラジル支部では、エヴェルトン・テイシェイラも世界大会で優勝している。


K-1では、グラウベ・フェイトーザが、世界大会で準優勝の実績を残している。


世代的には、アジウソン・ソウザはフィリオと道場で稽古をした可能性が高い。

極真空手サンパウロの支部は、世界に広がる極真支部の中で、磯部師範の熱い指導能力によって、日本本部の次に強い選手が育つ環境が整っていた。

アジウソン・ソウザは、その環境の中で空手の稽古に励んだと考えられる。

次にアジウソン・ソウザが学んだのが、ブラジリアン柔術だ。


アジウソン・ソウザは、オクタビオ・アウメイダ・ジュニアが教える柔術アカデミーで黒帯を取得している。

オクタビオ・アウメイダ・ジュニアの師匠はオクタビオ・アウメイダ。

彼はジョルジ・グレイシーという柔術家から黒帯を授かっている。

アジウソンはユダヤ系のブラジル人で、妻は日系ブラジル人だった。

そのため彼は、柔術の自分の流派を始める時に、日系人となる自分の息子たちに引き継いでもらう祈りを込めてボンサイ柔術と名付けた。

これは、ハリウッド映画のベスト・キッドが由来となっている。

アメリカのカリフォルニアで虐められていた少年ダニエル・ラルーソーが、日系人の宮城成義に空手を習い、苛めを克服する物語だ。

転校でカリフォルニアで虐められていたダニエルに、唯一優しくしてくれるのが宮城成義だ。

おそらくアジウソン・ソウザもまた、気の弱い子供たちに優しい道場を運営していきたかったのだろう。

映画ベストキッドでは、宮城が盆栽を手入れする場面がある。

このシーンから彼は、自らの流派をボンサイ柔術と名付けたのだ。

ボンサイ柔術は、グレイシー柔術とは違う流派なのかという話はよくある。

それはアジウソンが、オクタビオ・アウメイダ・ジュニアから柔術を学んだためである。

オクタビオ・アウメイダ・ジュニアは、柔術家オクタビオ・アウメイダの息子で、彼から柔術の技を伝承されている。

このオクタビオ・アウメイダは、ジョージ・グレイシーという柔術家の弟子にあたる。

一般的にグレイシー柔術とは、ガスタリオン・グレイシーが、前田光世から、自分の五男であるエリオ・グレイシーと、その兄のカーロス・グレイシーが学んだ無敗の格闘技として広まった。

しかし、実際には兄弟5人いて、彼らも柔術を学んでいた。

ジョージ・グレイシーは、ガスタリオン・グレイシーの四男だった。


しかしジョージ・グレイシーは、ブラジルの総合格闘技の試合で、ルタ・リーブリという、イギリスのキャッチレスリングの選手との試合に敗北。

そのためグレイシーの技術を進化させるために、ルタの道場の内弟子に入ったため、自分の柔術の道場はもっぱらオクタビオ・アウメイダに経営を任せていたのだ。

しかしオクタビオ・アウメイダは、人格者であり、1980年代にグレイシー柔術がセレブの間で流行する前から、サンパウロで柔術の普及に力を入れ、ジョージ・グレイシー柔術のインストラクターとして、本家グレシー柔術を脅かす優秀な弟子をたくさん育て上げた名伯楽だった。

逆に師匠のジョージ・グレイシーは、柔術のやる気がなく、海外へ放浪。

この道場はジョージ・グレイシー&オクタビオ・アウメイダアカデミーに看板が変わったほどだ。

やがてジョージ・グレイシー&オクタビオ・アウメイダアカデミーは、オクタビオ・アウメイダアカデミーと名を変え、オクタビオ・アウメイダアカデミーとして、オクタビオ・アウメイダジュニア引き継いだ。

アジウソン・ソウザはここで修業をして柔術を学び、ボンサイ柔術の開祖となったのだ。

恐らく本家グレイシー柔術は会費が高いのも理由と考えられる。

このような背景からボンサイ柔術は、ブラジルでは異端の格闘技であり、教室ではアジウソンがバックボーンとする空手や柔道も、柔術の他に熱心な指導がされていた。

しかし生活は苦しく、ソウザ家は家族で日雇い労働をして道場を守った。

早朝はボランティアで貧しい子供に柔道を教え、昼は農作業、建設現場で仕事をし、夜になるとアカデミーで柔術を教え、それでも生活が苦しく、アジウソンは深夜の警備員も仕事をした。

しかしアジウソンの地元での青少年育成の地道な活動が認められないわけがなかった。

その活動はグレイシー一族の総帥であるエリオ・グレイシーの耳にも届き、ボンサイ柔術は、グレイシー柔術の流れを持つ流派として認められた。

アジウソンの武道の心がエリオの心を動かしたのだ。

やがて2000年になると、アジウソンの長男であるマウリシオ・ソウザが父から黒帯を授かる。

2003年パウリスタ(サンパウロ選手権)でアダルト黒帯で優勝している。

そしてサトシのもう一人の兄であるマルコス・ソウザも

ヒクソン・グレイシー杯 優勝(2008, 2011)

コパブルテリア2013優勝

ワールドプロ柔術2013世界大会優勝で偉大な実績を残す。

サトシもまた

世界柔術選手権レービィ級で2009,2010で優勝。

アブダビ・ワールド・プロ柔術選手権茶帯/黒帯レーヴィ級で、2012年と2014年に優勝している。


彼ら兄弟が偉大なのは、彼らがこの実績をブラジル国内で練習して獲得したものではないということだ。

2000年代の後半、ブラジルでの貧しい生活から脱却するために、彼らは出稼ぎで日本に働きに来た労働者に過ぎなかったのである。

静岡県磐田市で朝早くから、夜遅くまで、工場での肉体労働で彼らは生活し、ブラジルの道場へ仕送りもしていた。


2004年マウリシオ来日。

2008年までにマルコス、サトシも来日。

つまり彼らは肉体労働をしながら、柔術の稽古をしてこの実績を積むことになったのだ。

静岡県磐田市は、不良外国人も多く、地元の日本人からの差別や偏見も少なくはない。

彼らは柔術サークルを開き、特別な才能を持ちながらも、長く肉体労働に励んでいた。

その過程の中では、リーマンショックや、東日本大震災があり、仕事がなく過酷な生活の中で、小さなアパートで彼らギュウギュウになって生活をしていたのだ。

外国人労働者は一番最初に派遣切りに遭う。

この時期の彼らはまだ10代から20代前半の若者である。

日本に残ったのは凄まじい精神力である。

彼らの柔術サークルに参加していた坂本健氏は、彼らの才能を静岡県で終わらせてはいけないと感じ、道場を開く手伝いをした。

それが今の静岡にあるボンサイ柔術だ。


東日本大震災の後は静岡では不良外国人の事件が多発。

ボンサイ柔術も、外国人の集まる場所として警察にマークされていた。

その時に潜入捜査のような形で、ボンサイ柔術に通っていた刑事が、現在の関根シュレックである。

彼はボンサイ柔術の兄弟に感動して、警察を退職して格闘家になった。


やがてボンサイ柔術の選手達は、柔術の大会で実績を残すことで、MMAの試合の勧誘を受けることになる。

しかし彼らの基本的な技術は柔術のみである。

そこで、彼らはボンサイ柔術をMMAの技術に進化させるために講師を呼ぶことになる。

1人は初代PRIDEウェルター級王者の三崎和雄


彼は10年間、彼らの練習に関わった。

もう一人は元シュートボクシングの鈴木博昭


2人の支援でもって、ブラジルで生まれたボンサイ柔術は海を渡り、日本でMMAの格闘技として発展した。

そして今年のRIZIN28、日本で最も有名な格闘家である朝倉未来を、ボンサイ柔術のクレベル・コイケが撃破した。


そしてホベルト・サトシ・ソウザは、トフィック・ムサエフに勝利し、RIZIN初代ライト級王者に輝いた。

ソウザ兄弟の父親は、東日本大震災の時にブラジルで52歳で亡くなった。

お金がなかったソウザ兄弟は、死のギリギギリまでブラジルに帰国できなかった。

彼らは周囲の人々からのカンパでブラジルに帰国できた。

これをきっかけに、彼らはお金を稼ぐためにMMAに参戦することになる。

サトシ・ソウザが入場の時に巻いている黒帯は、彼の父であるアジウソン・ソウザから死の間際に渡された黒帯である。

現在のボンサイ柔術は、ブラジルのサンパウロでは、マウリシオ・ソウザが柔術と柔道を中心に指導をしている。

静岡県ではマルコスとサトシが、会員には柔術を中心に指導している。

所属しているプロ選手は、柔術、柔道、空手というアジウソン・ソウザのバックボーンを中心とし、三崎和雄が指導するグラップリングの技術、鈴木博昭が指導するキックボクシングと、シュートボクシングの技術などを集約させて練習をしている。

ちなみに日本でのボンサイ柔術のジム名はブルテリア格闘技ジムである。[8]

ブラジルではAcademia Bonsai Jiu-Jitsuである。

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