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💟御在所山の神風串呂

このオンラインブックは、神皇正統家しんのうしょうとうけ極秘伝ごくひでん 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢もといせ伝承で皇祖神・天照大御神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護こうじょうしゅご結界けっかいのことだといわれて来ましたが、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

三浦芳聖師が生涯の精魂せいこんを込めて解明した串呂によって、元伊勢クシロとは、皇統正史こうとうせいしを我が国の国土に埋め込んだ地文学「神風串呂」であることが判明したのです。

地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問(皇霊学)が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは「御在所山の神風串呂」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神・天照大御神からの神妙なる息吹を体感体得たいかんたいとくすることができるでしょう!

串呂主宰神かんろしゅさいしん(天照大御神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助てんゆうしんじょにより日本民族本来の力を発揮はっき出来るようになります。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に、無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、御在所山(ございしょやま)とは

御在所山(御在所岳)は、何がございますか?(どなた様のどのような在所ですか?)を鑑定する重要串呂起点で、三重県三重郡菰野町の御在所山は全国各所にある御在所山の中で、標高からも、歴史(地誌・地歴)的にも、霊的にも、地文(三重県三重郡)の上からも、串呂哲学上、名実ともに日本最高の御在所山です。

御在所山(三重県三重郡菰野町)
標高・・・1,212m(日本一)
地歴・・・天照大御神(御鏡)の御在所(駐屯地)
地文・・・三重県三重郡(三串 -〇-〇-〇- に相当)
位置・・・日本列島の中心地(中部地方)に存在する。

『御在所山- Wikipedia』(三重県三重郡菰野町)

在所とは「住所、居所、物が存在する所、ありか、郷里など」の事で、「その在所を尋ねる」「生まれ在所」などと使用します。

御在所山と御の字が付くのは「その対象は、やんごとなき御方」という事で原則的に「皇統、皇室」に関する串呂地文です。

地名の由来は、元伊勢伝説による天照大御神(御鏡)の御在所(駐屯地)です。ここからも天照大御神(御鏡)の各地巡行は、元伊勢クシロ構築の旅だったことが分かります。

この他の御の付く重要串呂起点には「御名」「御正体山」「高御位山」「御調町公文」、御の字の付く地文には「御園」「御陵」「御弟子」「御祓山」「御堂山」「御子神」「大御神」「御冠山」「御麻生園」「御稜威ケ原」などがあります。

串呂は地文による皇統正史であるというのが原則です。

御在所岳ございしょだけは、三重県三重郡菰野町と滋賀県東近江市の境にある標高1,212 mの山で、御在所山とも呼ばれる。鈴鹿国定公園の中に位置し、日本二百名山、関西百名山及び鈴鹿セブンマウンテンに選定されている。(「ウィキペディア御在所岳」↓↓↓↓↓ より)

この日本最高の「御在所山」が三重県三重郡という日本のほぼ中央部に存在することも大いなる神図かみはかり、神経綸かみしくみと拝察いたします。

御在所山(ウィキペディア)で、御在所山は日本全国に6ヶ所存在すると出ています。

【参照】名前の由来は天照大御神(御鏡)の御在所
インターネットの「御在所山HP」(広報こもの、平成18年6月号 No.550)を拝見しますと、〔御在所山の名の由来は「神や仏がいます所」の意で、菰野では、垂仁すいにん天皇の皇女倭姫命やまとひめのみことが天照大神の神霊を奉じて、大和の笠縫かさぬいの宮から伊勢の五十鈴川のほとりへおうつしするとき、その鎮座地を求めて伊賀、近江、美濃の国々を巡行されて、桑名の野代から亀山へ向かわれる途中、御在所山の上に、仮の屯宮とんぐうを設けられた故事から、その名がついたと伝えられています。〕と出ています。(現在はリンク切れです。)

【参照】御在所山の名の由来(御在所に登ろう!)

菰野町役場発行「歴史こばなし」第五集

🟢上記の伝承からは、神風串呂の経綸のために皇祖「天照大御神」御自ら、このような早い時代から、いろいろとご苦心されたことが拝察されます。


💫串呂哲学の理解を助ける予備知識

初めての方は、下記の記事を参照してください。


2、御在所山に関する主な神風串呂

三重県御在所山
三重県三重郡菰野町 御在所山

(1)北陸朝廷の存在を昭示する神風串呂 (№20)
(2)御在所山と三浦芳聖晩年の住所との神風串呂 (№30)
(3)名古屋市御所町の神風串呂1(№142)
(4)御在所山と興国天皇御陵の神風串呂(№61)
(5)御在所山と木曽岬町松永との神風串呂(№85)
(6)大宝天皇御座所跡(切越町)と御在所山の神風串呂 (№9)
(7)大宝天皇の御製を昭示する神風串呂 2(№10)
(8)坂出市天皇と白山市三浦との神風串呂(№39)
(9)明治天皇・松良天皇皇胤説を昭示する神風串呂(№212)
(10)御在所山と三河御津府御所の神風串呂(第298号)
(11)新串呂解明2-⛩元伊勢内宮と御在所岳の神風串呂(№375)

🟢千代田区皇居と御在所山との神風串呂
弓削島弓削上弓削(愛媛県越智郡)-〽御在所山(三重郡)-皇居(東京都)

試みに、東京都千代田区の「皇居」の中心から此の三重県三重郡の「御在所山」の標高点に串呂してほゞ同距離延長致しますと、愛媛県越智郡弓削島弓削町の「上弓削」にピシンと串呂しています。「弓削」の「皇居」であります。

(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』本文70頁)

弓削島」ー約150キロー「御在所山」ー約150キロー「皇居

弓削(ゆげ)とは、宇佐八幡宮神託事件で有名な「弓削道鏡」の故事により、臣下の身分で皇位を伺う(盗む)者、またはその精神を表わす。

皇室を尊崇・敬愛している方からは現皇室が「弓削」であるという説は理解し難いかも知れませんが、三浦皇統家が神皇正統家であるという串呂の世界では現皇室は「弓削」となります。

三浦皇統家は後醍醐天皇から三種の神器を継承(地下深く埋蔵)し、長慶院法皇が内宮の大神から天授された「神鏡」を継承し祭祀しています。
【参照】三浦芳聖伝 57、長慶院法皇と御鏡(№180)

弓削(三重県鈴鹿市)-御正体山(都留市)-皇居(東京都)
弓削(岡山市東区瀬戸町)-京都御所(京都市)-御正体山(都留市)
弓削島弓削上弓削(愛媛県上島町)-御在所山(菰野町)-皇居(東京都)
*公文(御調町)-京都御所-欲賀町(守山市)-弓削(竜王町)-皇居

世界史に類例のない封建的専制政治の拠点であった江戸城(皇居)の串呂が悪いのはご理解頂けるかと思いますが、南朝革命と言われる明治維新で皇統に就き江戸城を皇居とした明治天皇の皇統は大正天皇で断絶しています。

昭和天皇の血統(実の父親)について、私は1970年頃、三浦芳聖から霊界物語として聴いていましたが、その研究が下記のような活字やDVDとなって出版されています。

鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』(2007年発行成甲書房)
鬼塚英昭が発見した日本の秘密[DVD] (2011年発行成甲書房)
鬼塚英昭『日本の本当の黒幕』上下(2013年発行成甲書房)

【参照】大戦防・逆面・皇居の神風串呂
【参照】三浦芳聖伝 54、皇居遷都提唱運動
【参照】東京都千代田区皇居と御正体山の神風串呂
【参照】日本の支配構造⑤表天皇の系譜、昭和天皇は何者か?
【参照】山口県田布施町の怪③明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない
【参照】『ウィキペディア』弓削島より

1981年(昭和56年)7月、学習院大学に在学中の皇太子明仁親王(第125代天皇)が、「中世の荘園制度」をテーマに、来町(島)、弓削神社・顆成寺・高浜八幡神社・大森神社・革泉寺・伝十・狩尾を見学し、研究を深めた。(『ウィキペディア』弓削島)

3、参考資料   

 歴史こばなし 御在所山の名の由来  文 郷土史家 佐々木     古くから御在所山の名のおこり、いわれには次のようなはなしが伝えられています。
 垂仁天皇の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が 天照大神の神霊を奉じて、大和の笠編 (かさぬい) の宮から伊勢の五十鈴川の川上へお遷しする とて長い旅をされました。そのとき桑名の野代 (のしろ) から亀山へと向かわれる途中、 菰野あたりで一時、仮の屯宮を設けられたことから御在所、 すなわち御在所山とよばれるようになったと。
 これは菰野の里に伝わる単なるはなしですので、その大本 (おおもと) の神宮に伝わる「倭姫命世記」と 「神宮儀式帳」から、倭姫命の歩まれた巡幸の道すじをたどって見たいとおもいます。
 初代の神武天皇から三十二代目の崇峻天皇までは神話の時代で、 三十三代推古天皇からが日本の有史のはじまりと言われています。 その倭姫命は第十一代の垂仁天皇の皇女ですので、二千年も昔のはなし になります。
 まず最初の大和の①御諸 (みむろ) の宮は、いまの桜井市三輪山の麓、 檜原神社といわれ、そのあたりに皇居もあったようです。 ②宇陀の阿貴 (あき) の宮、そして初瀬街道を歩まれて、榛原の③佐々波多 (ささはた) の宮、そして伊賀の④穴穂の宮、 ⑤柘植 (つみえの) 宮、伊賀から近江へ向われて⑥ 淡海 (おうみ) の坂田の宮、そして関ヶ原は不破の関を越えられて美濃国の ⑦伊久良 (いくら) の宮へ。 ここからは川舟を使われて、伊勢国へ⑧桑名の野代の宮へ上陸されました。そして伊勢の野 を進まれて⑨小山 (こやま) の宮へ。 それからは伊勢路を⑩藤方片樋 (ふじかたかたひ) の宮、 ⑪飯野の高宮、⑫多気の佐々牟江 (ささむえ) の宮、 ⑬磯 (いそ) の宮、⑭家田田上 (やだのたがみ) の宮、⑮度会 (わたらい) の五十鈴川上の宮と進まれています。
 このほか甲賀の日雲の宮、尾張の中島の宮、 多気の滝原の宮との異説もありますが、おおよそ十五ヶ所の順に旅を経られて、 今の五十鈴川のほとり神路山に宮居を定められました。
 この巡幸の経路においても鈴鹿山地の近江の 坂田の宮から、伊吹山の麓、不破の関を 通り、美濃の伊久良の宮ではこの国の国造 や県主から舟二隻の献上を受け、ここから揖斐の 大河を舟で川下しもの桑名まで下り、野代に上陸されたよ うであります。 太古の昔は野代まで伊勢の海が進入していたようです。
 野代の宮からは御衣野(みその)、古浜、笹尾、鳥取、北大社、 南大社、市場、中野、川北、下村、宿野と歩まれて、そ れからは三滝川沿いに上られ、いまの湯の山駅西の江田の 神明あたりに足をとめられて仮屯宮を設営されたように思われます。 その屯宮跡か、江田神明社が明治末までありました。 宮の前の三滝川は御幣川とよばれたこともあり、この辺の 景色は倭姫命の時代と、今もそう変わりはないはずです。
 菰野からは宿野峠を越えて坊主尾、青木、伊舟、川崎、岩森、椿世 (つばいそ)そして亀山の野村、 鈴鹿川の北岸に足を止められて、仮屯宮をされたようです。 その跡がいまの忍山神社です。
ここから西へ登れば鈴鹿の関、そして天下の険の鈴鹿峠、 千年の昔もいまも変らぬ交通の要所です。
 地図を広げていただくと、桑名の野代の宮から亀山の忍山宮の 関に間に、わが菰野の里がちょうど中間に位置しています。 そして西の国と東の国に背で分ける鈴鹿山地の中心に、 御在所山はどっかりと鎮まっています。
 なお、倭姫命が最も愛された甥の日本武尊が東国出征から帰り、 鈴鹿の能褒野で亡くなられたという物語も、なにか繋がりが あるように思われます。


🔴神風串呂を学びましょう!

串呂哲学研究会では、今日では入手不可能な三浦芳聖師の著書を復刻するのに多くの時間と労力を掛け、採算を全く考慮せず、串呂図、表紙画像、系図、中扉などのCG画像作成のために多くの費用を掛けて参りました。

これは、我が日本国と日本民族の将来を案ずればこそであります。皇祖神・天照大御神が、私達日本民族のために、苦心惨憺、長期間を掛けて構築して下さった神風串呂を学びましょう!


🟢後醍醐天皇の皇位を継承したのは誰かについて、歴史資料を示し、さらに串呂で証明した串呂哲学の概説書かつ神風串呂の入門書!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志)


🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№210)
🟢次号(№212)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。