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三河御津府御所の神風串呂4-御在所山‐住吉町三串‐天皇堂(第298号)

🔴三河御津府御所の神風串呂4

今回は、三河みかわ御津府みとふ御所跡の神風串呂4として、八大串呂起点のひとつである「御在所山」と御津府みとふ御所跡(御津町御馬長床)とを結ぶ串呂を研究して見ました。

御在所山(起点)-天皇堂(串果)-御津府みとふ御所跡(鑑定先)

愛知県常滑市金山天皇堂(地図マピオン)

住吉町三串 -🟡-🟡-🟡-で、国内唯一の地名「天皇堂」や「吉野町」「碧天王町」「南蔵伝」「砥神山・⛩砥神神社」「村上」などの的確なる地文が多数串線していまして、今さらながら串呂の神秘性に驚嘆しています!

これは明らかに御津府御所の初代王・後村上院(義良)の神風串呂です!

歴史は戦争の者によって文字通り「好き勝手に」書かれると云いますが、天照大御神の瑞穂の国では、地文に真の皇統正史が秘められているのです!

🔴御在所山ございしょやまとは

御在所山(御在所岳)は、何がございますか?(どなた様のどのような在所ですか?)を鑑定する重要串呂起点で、三重県三重郡菰野町の御在所山は全国各所にある御在所山の中で、標高からも、歴史(地誌・地歴)的にも、霊的にも、地文(三重県三重郡)の上からも、串呂哲学上、名実ともに日本最高の御在所山です。

御在所山(三重県三重郡菰野町)
標高・・・1,212m(日本一)
地歴・・・天照大御神(御鏡)の御在所(元伊勢駐屯地)
地文・・・三重県三重郡(三串 -〇-〇-〇- に相当)
位置・・・日本列島の中心地(中部地方)に存在する。

『御在所山- Wikipedia』(三重県三重郡菰野町)

在所とは「住所、居所、物が存在する所、ありか、郷里など」の事で、「その在所を尋ねる」「生まれ在所」などと使用します。

御在所山と御の字が付くのは「その対象は、やんごとなき御方」という事で原則的に「皇統、皇室」に関する串呂地文です。

地名の由来は、元伊勢伝説による天照大御神(御鏡)の御在所(駐屯地)です。ここからも天照大御神(御鏡)の各地巡行は、元伊勢クシロ構築の旅だったことが分かります。

関連する主な地名を拾ってみました。

御在所山(三重県)-住吉町(常滑市)-天皇堂(常滑市金山)-宝来町(半田市)-住吉町(半田市)-吉野町(半田市乙川)-天王町(碧南市)-住吉町(西尾市)ー神ノ郷町南蔵伝(蒲郡市)-豊岡町(蒲郡市)-〽砥神山・⛩砥神神社(蒲郡市豊岡町)-御津府みとふ御所跡村上(御津町下佐脇)-神ヶ谷町(静岡県浜松市西区)-豊岡(磐田市)-福田(磐田市)

地文のみ
御在所山-住吉🔴町-天皇🟢堂-宝来町-住吉🔴町-吉野町-天王🟢町-住吉🔴町-神ノ郷町南蔵伝-豊岡🟡町-〽砥神山・⛩砥神神社-御津府みとふ御所跡-村上-神ヶ谷町-豊岡🟡-福田

串呂の解読は最後にあります!

🔴地文の解説

🟡住吉町(常滑市)
「すみよし」は、「住み良い」を表わす。鑑定対象の御津府御所が気候温暖で美養の地、住み良い御所であったことを表わす。

この串呂が「住吉町三串 -🔴-🔴-🔴- 」となっている事について、御津府御所の初代王・後村上院と「住吉」とが深い関係にある(あった)ことを思い出しました。

住吉とは、後村上院(義良)の行宮あんぐうの名称であり崩御の地です。後村上院の串呂符号と言ってもいいでしょう。

同文同種の地名が三つ串線する場合、三浦芳聖は「至高絶対確証の串呂」と呼んでいます。

その三串の地名が御津府御所を皇居としていた後村上院に縁の深い「住吉町」であることに串呂主宰神の並々ならぬ御苦心(芸術性)を感じています。

三串の地名は、地文芸術・串呂芸術の一大成果です。

この住吉町三串の串呂は、山口保吉(究宗)著「三河吉野朝の研究」「芳花鶴水園の聖地」にある「三河吉野朝の御津府御所説」を確定する重要串呂と言えます。

💞後村上天皇- Wikipediaより引用
父の後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、東北地方(陸奥国)南部の宮城県多賀城市にある陸奥国府兼鎮守府の多賀城に入城。後醍醐天皇が多賀城に創設したに奥羽将軍府(東北地方将軍府)のトップとして、北朝を擁する室町幕府軍と南北朝の内乱を戦った。のち大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮した。

💞「歴朝聖徳録」から関係部分を引用させて頂きます。
(新漢字・新仮名遣いに変換し、フリガナを付し句点を補いました。)

同(編注・正平)十五年の秋の頃、天皇はみことのりを四方に伝えて、勤王の士をつのり、京師けいし攻入せめいらむとし給う、時に宗良むねなが親王、信濃しなのに在り、みことのりを得て兵を集めけれど、其用意そのようい整わずして、出軍の期おおいに遅れしかば、天皇使をつかわして、之をうながし且ッ歌を寄せて曰く、

いつまでか、我れのみひとり、住吉の、問はぬうらみを、君にのこさむ

時に天皇住吉殿に御す、宗良御返しをたてまつりて曰く、

わがいそぐ、心を知らば、住よしの、待つ久しさを恨みざらまし

天皇先帝の志を継ぎ、鋭意えいい恢復かいふくを図り、軍を出して京師けいしを取らしめられしこと前後四回に及びしが、常に後援の継がさるを以て、したがいて取れば随いて失い、長く之を守ることあたわざりし、北朝にては、この頃高氏たかうじすでに死し、其子義詮よしあきら将軍の職を継ぎ、義詮又死し、其子義満よしみつ職をつぎ、諸国の将士多く服属して、勢威せいい日にさかりなり、是を以て天皇は、居常に怏々おうおうとして楽しみ給わず、正平二十三年、ついに住吉殿にて崩御せり。

「歴朝聖徳録」371頁・後村上天皇(訂正第五版)

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🟡天皇堂(てんのうどう、愛知県常滑市金山)国内唯一の地名
天皇の御所を表わす地文です。愛知県常滑市に、この様な地名があることは今回初めて発見しました。研究の成果です!

「〽御在所山」-「天皇堂」-「御津府みとふ御所跡」

この「天皇堂」は、御津府御所跡の存在を確定する地文と言えます。串呂の的確さに驚嘆しています!💝💟💖

住所の金山かなやまは、財政的に裕福であったこと、常滑とこなめは、御津府御所が短期間で消滅した(すべった)ことを表わします。

🟢国内唯一の地名も、串呂主宰神による、地文芸術・串呂芸術の一大成果です。

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🟡宝来町
(ほうらいちょう、愛知県半田市)
串呂哲学では、宝(たから)は、三種の神宝を表わす地文です。
宝来は、この串呂線上の御津府みとふ御所跡に、かつて三種の神器の渡御とぎょがあり、存在したことを昭示しています。

宝来=神がやってた!

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🟡住吉町
(すみよしちょう、愛知県半田市)
既出。
住吉とは、後村上院(義良)の行宮あんぐうの名称であり崩御の地です。後村上院の串呂符号と言ってもいいでしょう。

他の二つの住吉町と住吉町三串 -🔴-🔴-🔴-の至高絶対確証の串呂を構築しています。

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🟡吉野町(よしのちょう、愛知県半田市乙川)
三河御津府御所跡にかつて三河吉野朝が存在したことを表わす地文です。

〽御在所山-天皇堂-吉野町-御津府みとふ御所跡

山口保吉氏の「三河吉野朝の研究」「芳花ほうか鶴水園かくすいえんの聖地」には、三河御津府御所こそが「吉野朝」の存在した所であり、後村上院(義良)もその母・新待賢門院しんたいけんもんいん阿野廉子あのれんし)も、この地で生死し、御陵もこの地に存在すると記述されています。

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🟡天王町
(てんのうちょう、愛知県碧南市)
南朝の天皇を表わす地文です。住所が、碧市であることに注意。
碧=白+王+石
皇=白+王

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🟡住吉町
(すみよしちょう、愛知県西尾市)
既出。
住吉とは、後村上院(義良)の行宮の名称であり崩御の地です。後村上院の串呂符号と言ってもいいでしょう。

他の二つの住吉町と住吉町三串 -🔴-🔴-🔴-の至高絶対確証の串呂を構築しています。

西側に隣接している「花ノ木町」「永楽町」は、御津府御所が、興国元年(1340年)頃~元中9年(1392年)頃までの半世紀にわたって花の御所であり楽園であったことを表わす地文です。

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🟡神ノ郷町南蔵伝(かみのごうちょうみなみぞうでん、愛知県蒲郡市)
南朝の御所を表わす地名で、南蔵伝は、南朝の隠棲地を表わすユニークな
国内唯一の地名です。隣接して宮成町(⛩大宮神社)がある。

愛知県蒲郡市神ノ郷町南蔵伝(YAHOO!JAPAN地図)

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🟡豊岡町
(とよおかちょう、愛知県蒲郡市)
気候温暖で美養の地、豊川市御津町に存在した「三河吉野朝」が財政的に裕福であったことを表わす地文です。

磐田市の豊岡とで豊岡二串 -🔴-🔴- の確定立証の神風串呂を構築しています。

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🟡砥神山・⛩砥神神社
(とかみ山・とかみ神社、蒲郡市豊岡町)
砥神とかみ兎神とかみ兎頭とがみです。
この串呂の守護神です。

穂の国の神風串呂(第293号)でご紹介した「兎頭とがみ大明神」(⛩相良神社)と同様、後村上院(義良)を隠祀した神社です。

🟢後村上院(義良)は、大和国吉野山から海(伊勢湾)を渡って三河吉野朝を開いた天皇ゆえ、「古事記」の海を渡ったうさぎ神話に因んで、兎頭とがみさまなのだそうです。(山口保吉)

🟢後村上院(義良)は、嘉暦かりゃく2年(七赤金星丁卯ひのとう年/1327年)生れ説の口碑があるようです。(山口保吉)

(「三河吉野朝の研究」「芳花ほうか鶴水園かくすいえんの聖地」)

🟢串呂哲学では後村上院(義良)の生年は、元徳2年(四緑木星庚午かのえうま /1330年)説です。

「兎上神社(とがみじんじゃ)」は、霊山「砥神山(とがみやま)」の山裾にあり、
山を挟んで反対側には「砥神神社(とかみじんじゃ)」があります。
兎上神社と砥神山(愛知県蒲郡市)より転載させて頂きました。」

🟢砥神神社(とかみじんじゃ)

砥神神社(蒲郡五十七社巡り)より転載

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🔴御津府御所跡(みとふごしょあと、愛知県豊川市御津町御馬)
後村上院(義良)、長慶院法皇(寛成)の三河御所。

三河吉野朝のあった豊川市御津町西方松本の「JR愛知御津駅」(無人駅)

JR愛知御津駅(豊川市御津町西方松本/2023年3月29日撮影)快晴の天候で歓迎された!

山口保吉氏の「三河吉野朝の研究」「芳花ほうか鶴水園かくすいえんの聖地」には、三河御津府御所こそが「吉野朝」の存在した所であり、後村上院(義良)も、その母・新待賢門院しんたいけんもんいん阿野廉子あのれんし)も、この地で生死し、御陵もこの地に存在すると記述されています。

豊川市御津町御馬(地図マピオン)

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🟡村上(むらかみ、豊川市御津町下佐脇)
後村上院(義良)を表わす地文です。

御津府御所跡に後村上院を記念する為に付けられた地名遺跡です。このほかに「義郎ぎろう」(御津町下佐脇)という地名もあります。

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🟡神ヶ谷町
(かみがやちょう、静岡県浜松市西区)
串呂哲学では、神=現人神=天皇です。
神ヶ谷かみがやは、神ヶ家かみがやで、皇居または御陵を表わします。

ここには、|神久呂《かくろ》という地名があります。⛩兎頭とがみ大明神(⛩相良神社)に関連が深いようです。下記参照下さい。

【参照】
下記は、山口保吉著「芳花ほうか鶴水園かくすいえんの聖地」に基づく鶴呂かくろ神久呂かくろ)です。神久呂=賀久留かくろ

兎頭とがみ大明神(蒲郡市相良町)-後村上院御陵(西川2号古墳)-素盞嗚すさのお神社(豊川市正岡町)-箆矢のや神社(石巻町神ヶ谷🔴) -賀久留かくる神社(浜松市西区神ヶ谷🔴)

◎神 久 呂
後村上天皇の御座所の都を鶴水園かくすいえん又は鶴郡つるのこおりと称えらる。遠江国浜名郡神久呂村大字神ヶ谷には賀久留神社あり賀久は(鶴)にして留はまた呂とも称す。石巻村神ヶ谷の箆矢のや神社を通り更に正岡の神社につらなりて兎頭とがみ大明神並に御陵へとおるを以て鶴呂(神久呂)と称す。

山口保吉著「芳花ほうか鶴水園かくすいえんの聖地」12頁

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🟡豊岡
(とよおか、静岡県磐田市)
既出。気候温暖で美養の地、御津町に存在した「三河吉野朝」が財政的に裕福であったことを表わす地文です。

蒲郡市の豊岡とで豊岡二串 -🔴-🔴- の確定立証の神風串呂を構築しています。

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🟡福田
(ふくだ、静岡県磐田市)
南朝副統(吉野朝)を表わす地文。

🟢南朝正統は、内伝・秘蔵!御裏みうら
💞表裏一体、正副一如!💫

🔴串呂解読

〽御在所山住吉🔴町-天皇🟢堂-宝来町-住吉🔴町-吉野町-天王🟢町-住吉🔴町-神ノ郷町南蔵伝-豊岡🟡町-〽砥神山・⛩砥神神社-御津府みとふ御所跡-村上-神ヶ谷町-豊岡🟡-福田

御在所山を起点とし三河吉野朝の御津府御所跡を鑑定した住吉町三串 -🔴-🔴-🔴- の至高絶対確証の神風串呂です。

御所を表わす天皇堂、碧市の天王町、後村上院に関連した蒲郡市の〽砥神山⛩砥神神社、御津町下佐脇の村上、三河吉野朝を表わす半田市乙川の吉野町など的確な地文が串線しています。

まさに驚異的です!私自身、これらの地文に驚嘆しています!

この串呂は、山口保吉氏の著書にある「後村上院の御所は三河御津府にあったとする説」を確信せしめる説得力を持っています。

これは仮説にすぎませんが、後村上院の崩御された住吉殿とは御津府御所のことであったと思います。太古の神武・崇神の御代ならいざ知らず、すっかり貴族化した平安王朝の末裔である後村上院が危険な戦場の第一線にでることなど考えられないからです。

ですから、近畿地方で戦争を指導していた後村上院は影武者であったに相違ありません。後村上院が憲良から義良と改名しているのも影武者の存在を示唆する暗号であると思います。これも憶測に過ぎませんが!

🟢義は義足、義肢など本物ではない偽者にせものの意味があるからです。文字の意義から考えて、憲良➡義良 は、決して改善・改良とは思えません。

真の後村上院は、気候温暖で安全な美養の地・三河御津府御所で豊かで安楽な生涯を過ごしたことが、西尾市住吉町・花ノ木町・永楽町などの地文からも窺われます。神風串呂(地文学)は、天照大御神が構築された真の皇統史なのです。

💖拙稿を最後までお読み頂き感謝いたします。🥰💝😂



🟡串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。


🔴神風串呂を学びましょう!

串呂哲学研究会では、今日では入手不可能な三浦芳聖師の著書を復刻するのに多くの時間と労力を掛け、採算を全く考慮せず、串呂図、表紙画像、系図、中扉などのCG画像作成のために多くの費用を掛けて参りました。

これは、我が日本国と日本民族の将来を案ずればこそであります。皇祖神・天照大御神が、私達日本民族のために、苦心惨憺、長期間を掛けて構築して下さった神風串呂を学びましょう!


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💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志)


🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№297)
三河御津府御所の神風串呂3-長慶寺二串、萩原三串
🟢次号(№299)
三河御津府御所の神風串呂5-御正体山‐天子ケ岳‐玉袋‐御幸浜

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会 
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。