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三河御津府御所の神風串呂3-長慶寺二串、萩原三串(第297号)
🔴三河御津府御所の神風串呂3
今回は、三河御津府御所跡の神風串呂3として、三河吉野朝の研究家・山口保吉氏の著書を参考にして長慶寺二串、萩原三串の串呂を研究して見ました。
最初に前号、前々号でご紹介した御津府御所跡の串呂(重要地文のみ)を参照下さい。
(1)〽巴山-大代町-国府南-森-御津府御所跡-〽蔵王山-高松町
御津府御所は、後村上院(義良)が南朝忠臣・北畠親房らの扶翼により開き給いし新都(新城)であり、三河南朝の政庁(国府南)であり、天皇の座したもう王城(大代)であり、この皇統は、その第一皇子寛成親王(長慶院法皇)に継承され(豊川市森=仙洞御所)、さらにその猶子・松良天皇(高松)に継承された。
(2)下府町ー上府町ー加賀美・多麻-国府町-⛩大塚神明社-御津府御所跡-⛩熊野神社-三河玉川御所跡-御所原
御津府御所は、三種の神器を擁する朝廷(政庁/国府)であり、その後継者は、三河玉川御所の春宮(松良親王)であった。
![](https://assets.st-note.com/img/1679953849480-5mJrTV1lRA.jpg?width=800)
山口保吉著「芳花鶴水園の聖地」所載の上記の串呂図に、下記の串呂が紹介されています。これは緯線に対して、ほぼ直角に交わる串呂で、下記の地名が串呂しています。
南方から重要地文のみ
長慶寺(豊橋市)-三河御津府御所跡-卍山長慶院跡(豊川市国府町)-萩原(瑞浪市)-萩原町(下呂市)-萩原(富山市)-長慶寺(富山市五艘)
「長慶寺」二串 -🟡-🟡- 、「萩原」三串 -🔴-🔴-🔴- の驚異的な神風串呂です。
🟢卍山長慶院は消滅しましたので、幻の「卍山長慶院跡」の串呂です!
🟡卍山長慶院とは
山口保吉著「芳花鶴水園の聖地」によれば、卍山長慶院は長慶院法皇の仙洞御所「望理郷(王田殿)」にあった念仏堂(阿弥陀堂)の事で、下記の串呂線上にある(あった)と記述されています。
⛩相良神社(蒲郡市相良町)-卍観心寺跡(〽御堂山麓)-卍山長慶院跡(望理郷・国府町)-⛩豊川天王社(豊川市千歳通り)
「卍山長慶院は宝飯郡国府町大字国府字印辺にありし御堂にして、後醍醐天皇を斎き祀れる豊川天王社と後村上天皇を斎き祀る兎頭大明神並に香華院観心寺の串線上に創建遊ばさる。文中二年五月八日御生母崩じ給い御不例に依りて、御弟宮熈成親王に御譲位の上、只管両天皇並に御母為菩提、宗風線路の浄地を撰んで御供養寺を建立遊ばされ、長慶院と号し給う。依りて長慶院法皇と尊称し奉る。」
新漢字・新仮名遣いに変換し、適宜改行し句点を補いました。
🟢卍山長慶院(王田殿)=国宝・阿弥陀堂(念仏堂/1994年焼失)
![](https://assets.st-note.com/img/1679903781814-CIAuzKOe6h.jpg?width=800)
藤原石山著「三河に於ける長慶天皇伝説考」より転載
🟡長慶寺について
「三河吉野朝の研究」(106頁、山口保吉/1940年)には、長慶寺について下記のように記述されています。
長 慶 寺 愛知県下に六ケ寺現存す
南朝の忠臣の隠栖地に建立せられたりと称す。愛知県下に六ヶ寺あり。寬成親王御弟宮熈成親王に御譲位あり、覚理法皇と号し給い一字を御創建遊ばさる。
後村上天皇の香華院の所在地卍山を山号となし給い吉野朝の忠臣と倶に長く慶を致すべしと、卍山長慶院と号し給う。
山門は霊亀を正面となし、後醍醐天皇の香華院、夢窓国師開山の霊亀山天龍寺を偲ばせ給い、其裏面の鼠の彫物は御醍醐天皇の子御年に因みて刻せしめ、後の彫物は兎に浪にして御父後村上天皇を兎頭大明神と御祭祀あらせ給ひしを偲ばせ給う。
破風には卍字の彫物ありて卍山なるを如実に悟るものあるべく、本堂の長慶院は天皇の御位を譲らせ給えるを以て正菊花を裏となし給う裏菊と三柏並に卍字の御紋章を顕わし給える格天井あり、仙洞の御所に御座中親しく御祈念あらせ給ひし御堂なり。
忠臣等長慶院の御聖徳を慕い御供養のため長慶寺を建立す。東春日井郡小幡には松栄山長慶寺あり、東加茂郡松平村には吉谷山長慶寺と六木山長慶寺との二ヶ寺あり、宝飯郡豊川町当古には富当山長慶寺あり、八名郡金沢村には吉祥山長慶寺あり、渥美郡杉山村には布金山長慶寺ありて、卍山又は御山陵と貫線し無言の内に其因の関連を悟る要あり。(因に岩倉の長慶寺と観心寺を中心として杉山の長慶寺は貫線上にあり)
愛知県下の長慶寺
松栄山長慶寺(名古屋市守山区小幡中)
吉谷山長慶寺(豊田市岩倉町吉ケ入)
六木山長慶寺(豊田市松平志賀町横)現在、天王山長慶寺
富当山長慶寺(豊川市当古町東新井)
吉祥山長慶寺(豊川市金沢町藤弦)
布金山長慶寺(豊橋市杉山町孝仁)
長慶寺の串呂
吉谷山長慶寺-観心寺(御堂山麓)-布金山長慶寺
布金山長慶寺-御津府御所跡-卍山長慶院跡(望理郷/消滅)
〽御堂山(卍山)-船山御陵-砥鹿神社-吉祥山長慶寺
🟡王田殿(卍山長慶院)の推定地
また同上著「三河吉野朝の研究」には、王田殿(卍山長慶院)について下記のように記述されています。
王田殿の推定地と日落 宝飯郡国府町森在
望理神社の鎮座地中、森には千種文献所載の王田殿の所在地ならんと推臆し奉まつる印辺、日落、行歴の地名あり。
右文献中、長慶院法皇王田殿に崩御とあるは此地なるべし。日落とは御誕生地、日向と対照して崩御の象を意味す。其傍に行歴と称する地あり、御供養の寺院行歴寺の所在地ならんと推臆す。
印辺は長慶院の御黒戸の御在しませし処、現今残る卍山長慶院の国宝は此處に存在せしを移遷せられたるなりと世に伝えらる。此の辺一帯仙洞の御所にして菰敷、天神等の地名あり。
御陵へ鎮祇奉りし後、天皇の御神霊を祀りし所なるべく、青木和田尉盛勝、御山陵の前方(南)に当りて王田天神として祭祀せしは王田殿の傍より其名称の起りしならん。
王田天神と称する位置は御陵より南方十二町斗り隔りたる所にして、其前方に望理神社あり、一直線上にありて三星形となる。
適宜改行し句点を補いました。)御黒戸=仏壇のある部屋、仏間
![](https://assets.st-note.com/img/1679903580240-CSEOehT3jp.jpg?width=800)
藤原石山著「三河に於ける長慶天皇伝説考」より転載
🔴御津府御所と長慶寺二串、萩原三串の神風串呂
山口保吉著「芳花鶴水園の聖地」所載の串呂図を参考にして、愛知県豊橋市杉山町の布金山長慶寺と豊川市御津町御馬の御津府御所跡とを結ぶ串呂線上の地文を拾ってみました。
布金山長慶寺(愛・豊橋市杉山町)-御津府御所跡(愛・豊川市御馬)-卍山長慶院跡(豊川市国府町)-御油町(豊川市)-月原町(愛・豊田市)-百月町(豊田市)-萩原(岐・瑞浪市稲津町)-⛩南神社(岐・恵那市飯地町)-萩原町(岐・下呂市)-国府町(岐・高山市)-萩原(富山市)-五福(富山市)-法羅陀山長慶寺(富山市五艘)
地文のみ
布金山長慶寺-御津府御所跡-卍山長慶院跡(国府町)-御油町-月原町-百月町-萩原-⛩南神社-萩原町-国府町-萩原-五福(富山市)-法羅陀山長慶寺(富山市五艘)
この串呂は、「萩原」三串 -🔴-🔴-🔴- 、「長慶寺」二串-🟡-🟡-、「国府」二串 -🟢-🟢-、「月」二串-🟣-🟣-、「五」二串-🟠-🟠-で、御津府御所跡は、長慶天皇の御所であったことを昭示する実証の神風串呂です。
神秘的な事に、この串呂は、長慶院法皇が幼年時代を過ごされた御油町(⛩御油神社付近)、および法皇時代の仙洞御所の所在地(豊川市国府町)を串線しています。
🔴地文の解説
🟡布金山長慶寺(豊橋市杉山町孝仁10)
本堂左手の墓地の中には長慶寺開基の弘仁太子の墓があり、本堂には菊の紋がある。曹洞宗。(「東三河を歩こう」より)
本尊は釈迦。開基は弘仁太子。
往古は、布金山長慶寺-卍山長慶院-法羅陀山長慶寺で「長慶」三串 -🟡-🟡-🟡- の絶対確証の神風串呂であったが、卍山長慶院が消滅したため、現在は「長慶寺」二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
【参照】長慶寺とは(豊橋百科事典より)
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🔴御津府御所跡(みとふごしょあと、愛知県豊川市御津町御馬長床)
後村上院(義良)、長慶院法皇(寛成)の三河御所。
三河吉野朝のあった豊川市御津町西方松本の「JR愛知御津駅」(無人駅)
![](https://assets.st-note.com/img/1680422347782-mDdbuZ90bA.jpg?width=800)
御津町の地霊・地神に快晴の天候で歓迎された!
山口保吉氏の「三河吉野朝の研究」「芳花鶴水園の聖地」には、三河御津府御所こそが「吉野朝」の存在した所であり、後村上院(義良)もその母・新待賢門院(阿野廉子)も、この地で生死し、御陵もこの地に存在すると記述されています。
![](https://assets.st-note.com/img/1679312400240-8iCdwjPRI0.png?width=800)
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🟡卍山長慶院跡(まんじさん長慶院跡、豊川市国府町印辺/現在は消滅)
卍山長慶院は、文中2年(1373年)5月8日、長慶院法皇の母親が薨去後、長慶院法皇は母親の菩提を弔うために法皇となり、仙洞御所(王田殿)内に建立したという寺院で、この寺院名が長慶院法皇の命名の由来とのこと。
岐阜県高山市の国府町と国府二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
山口保吉氏の著書「三河吉野朝の研究」および「芳花鶴水園の聖地」に基づいて、卍山長慶院跡の位置を探してみた所、豊川市国府町仙路か、⛩望理神社のある豊川市森6丁目あたりかと思われます。
国府町=政庁(朝廷)=御津府御所=卍山長慶院(仙洞御所/望理郷)
往古は、布金山長慶寺、卍山長慶院、法羅陀山長慶寺で「長慶」三串 -🟡-🟡-🟡- の絶対確証の神風串呂だったが、卍山長慶院が消滅したため、現在は「長慶寺」二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
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🟡御油町(ごゆちょう、豊川市)
「青木文献」によれば、長慶天皇(寛成親王)は興国3年壬午(康永元年/1342年)8月13日に、五井美吉原隠沢城口全柵の天皇山明澄院(現・豊川市御油町西沢の御油神社附近)で降誕したと記録されています。
山口保吉著「三河吉野朝の研究」「芳花鶴水園の聖地」では、「長慶院法皇(寛成親王)は、興国3年壬午(1342年)11月15日、蒲郡市相良町の丹野で降誕した(伝承)」と記述されています。
後に、長慶院法皇の仙洞御所の所在地を望理郷と名付けたことから、長慶院法皇の降誕日は11月15日(満月の日)であると思われます。
望=満月=15日
![](https://assets.st-note.com/img/1680416179643-DiE7BiGRP8.png?width=800)
こうした相違はありますが、長慶天皇(寛成親王)が豊川市御油町の⛩御油神社附近の「天皇山明澄院」でお育ちになった事は間違いのない事だと思います。
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🟡月原町(わちばらちょう、愛知県豊田市)
上記の「御油町」で、考察したように、長慶天皇(寛成親王)の降誕日が11月15日(満月の日)であることから、串呂哲学では長慶院法皇は「月」で表わされます。
この月原町は、この串呂が長慶天皇(寛成親王)の串呂であることを昭示しています。
下記の百月町とで、月二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
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🟡百月町(とうづきちょう、愛知県豊田市)
上記の「御油町」で、考察したように、長慶天皇(寛成親王)の降誕日が11月15日(満月の日)であることから、串呂哲学では長慶院法皇は「月」で表わされます。
この百月町は、上記の月原町同様、この串呂が、長慶天皇(寛成親王)の串呂であることを昭示しています。
上記の月原町とで、月二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
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🟡萩原(はぎわら、岐阜県瑞浪市稲津町)
この串呂は、萩原三串 -🟡-🟡-🟡- の絶対確証の串呂、萩四串 -🟡-🟡-🟡-🟡-の超特絶対確証の神風串呂を構築しています。
従って「萩原」は、長慶院法皇の串呂上の符号となります。
萩原(岐阜県瑞浪市稲津町)
萩原町(岐阜県下呂市)
萩原(富山県富山市)
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萩町(愛知県豊川市)
萩は、高貴な紫色の花を咲かせることから、南朝の隠棲地を表わす秘密の暗号と言われています。
![](https://assets.st-note.com/img/1679312399196-Mn9hxrP5sl.png)
南朝の隠棲地と萩
豊川市萩町・・・松良天皇隠棲地
山口県萩市・・・光良親王(松良天皇第四皇子)隠棲地
静岡県牧之原市萩間・・・小室門院隠棲地(西萩間、東萩間)
また、萩は草冠+秋ですから、秋に亡くなられた方という考え方も出来るようです。(山口保吉)
青木文献では、長慶天皇は1379年(天授5年)9月20日に崩御と記録されています。しかしこれは「懽子内親王」が身代わりで亡くなられたと考察されています。(藤原石山)
三浦家の系図には、長慶院法皇は、応永16年(1409年)秋に崩御と伝承されています。(三浦芳聖)
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🟡⛩南神社(みなみ神社、岐阜県恵那市飯地町南)
恵那市飯地町南の⛩南神社は、南朝を表わす。
「南神社」の地図⬇⬇⬇⬇⬇
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🟡萩原町(はぎわら町、岐阜県下呂市)
上記、岐阜県瑞浪市稲津町の萩原に同じ。
この串呂は萩原三串 -🟡-🟡-🟡- の絶対確証の串呂、萩四串 -🟡-🟡-🟡-🟡-の超特絶対確証の神風串呂を構築しています。
従って「萩原」は、長慶院法皇の串呂上の符号となります。
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🟡国府町(こくふ町、岐阜県高山市)
政庁(朝廷)を表わす。ここでは、御津府御所が三河吉野朝であったこと、卍山長慶院が仙洞御所で院政を行っていたことを表わします。
国府=政庁(朝廷)=御津府御所=卍山長慶院(仙洞御所/望理郷)
卍山長慶院跡の豊川市国府町とで国府二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
JR飛騨国府駅のある国府町広瀬町は、寛成親王が住んでいた所を表わす地文です。
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🟡萩原(はぎわら、富山市)
上記、岐阜県瑞浪市稲津町の萩原に同じ。
この串呂は萩原三串 -🟡-🟡-🟡- の絶対確証の串呂、萩四串 -🟡-🟡-🟡-🟡-の超特絶対確証の神風串呂を構築しています。
従って「萩原」は、長慶院法皇の串呂上の符号となります。
🟡五福(富山市)
吉野朝の天皇を表わす。
五は帝王(天皇)を表わす。福は吉野朝(副統)を表わす。
![](https://assets.st-note.com/img/1680528656798-xjlKXsrFgi.jpg?width=800)
下記の法羅陀山長慶寺の住所「富山市五艘」の「五」とで「五」二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
【参照】
九星の中でも五黄土星は「帝王の星」「独立と統制の星」とも呼ばれる強運の星であり、支配者として上に立つといわれたり、情熱を持って前に進んでいく、与えてもらうのではなく自分の手で作り上げていくというパワーがあるなど、最強の運勢を生まれつき持っているとされています。
(五黄の寅とは?やばい・最強と言われる理由)
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🟡|法羅陀山《ほらださん》長慶寺(富山市五艘)
本尊は釈迦。開基は日輪当午。曹洞宗。長慶寺の本尊は「桜谷大仏」と呼ばれる大仏であったが、1870年(明治3年)頃、廃仏毀釈の折に富山藩の命により失われ、現在は仏頭のみが鎮座する状態となっている。
『長慶寺 (富山市)- Wikipedia』
往古は、布金山長慶寺、卍山長慶院、法羅陀山長慶寺で「長慶」三串 -🟡-🟡-🟡- の絶対確証の神風串呂だったが、卍山長慶院が消滅したため、現在は「長慶寺」二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
上記の富山市五福の「五」とで「五」二串 -🟡-🟡- の確定立証の神風串呂を構築しています。
串呂哲学の理解を助ける予備知識
始めての方は、下記の記事を参照してください。
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🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志)
🔴バックナンバー(総合)
🟡情報拡散のお願い
この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。
串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
🟡前号(№296)
三河御津府御所の神風串呂2
-国府町、御薗、加賀美、多麻、御所原
🟢次号(№298)
三河御津府御所の神風串呂4
-御在所山‐住吉町三串‐天皇堂
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!