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三浦芳聖伝 54、皇居遷都提唱運動(串呂哲学研究ノート№176)

💟ご挨拶

串呂哲学研究会 鈴木超世志

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)の大成者「三浦芳聖」の伝記を記述したものです。

ここでは、三浦芳聖の「皇居遷都提唱運動(皇居の串呂)」をご紹介し、詳しい解説をしています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。
  
元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。

神風串呂は、地文ちもん(地名)を研究することで天地神明の存在を認識することのできる神道皇霊学しんとうこうれいがくで、神国日本再建のために皇祖神によって構築されました。
 
地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂(串呂哲学)です。
 
神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
 
串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。
 
神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、群雄割拠の戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。




皇居遷都提唱運動

1、皇居遷都提唱運動とは

皇居こうきょ遷都 せんと提唱ていしょう運動とは、三浦芳聖が、神風串呂(串呂哲学)の解釈に基づき、東京都千代田区の皇居の位置が国家の象徴たる天皇の住居として相応しくないとして、皇居遷都を提唱し、昭和30年(1955年)1月から昭和34年(1959年)6月までの4年5ヶ月間に渉って、文書により政府当局者や国会議員等に呼びかけた運動のことである。

皇居

皇居遷都提唱運動は、三浦芳聖の皇居遷都提唱理由書にも「極秘裏に皇居の遷都を提唱して参りましたが、一向に取上げてくれませんから」と記載されてあるように、内々に皇居遷都の話を進めても一向にらちが明かないので、文書を送付する方法で下記のように実施されました。

昭和30年(1955年)1月より開始され、昭和34年(1959年)6月の皇居造営審議会の答申に基づき新宮殿の造営地が千代田区の皇居内に決定されるまでの足掛け5年間に、三浦芳聖が私財を投じて、衆参両院議員全員に9回、皇居造営審議会長・大野伴睦氏へ9回、政府及び宮内庁に各69回にわたって進言書を送り続けて実施された運動である。

神風串呂が如何なるものかを熟知していた芳聖は、日本国家及び日本民族の将来の為には「皇居遷都が必須」と考え、已むに已まれず実施した運動であり、一種の示威運動でもありました。

2、運動の発端

三浦芳聖の「皇居遷都提唱理由書」(下記に掲載)に「国の象徴たる天皇の皇居の位置が神風串呂地文の上より見て極めて不適格」とありますが、三浦芳聖に依る皇居の串呂の解明は、昭和15年(1940年)7月12日に起きた三宅島雄山の噴火があった時に始まります。

このとき芳聖は、たまたま軽井沢の近衛家の別荘で近衛文麿から東洋平和の方策について意見を求められ、近衛公と面会中でした。

意見具申を終わってお茶を頂いている時に配られた「三宅島雄山爆発の号外新聞」を見た時、芳聖は世界大戦の勃発を直感し、五万分一の地図を買い求めて貰って、三宅みやけじま雄山おやま(東京都三宅村)と大戦防だいせんぼう(茨城県結城市)を串呂に掛けたとき南方から、次のような地文がありました。

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三宅島雄山(東京都三宅村)

三宅島雄山(東京都三宅村)-池田(神奈川県三浦市南下浦町松輪)-池田町(神奈川県横須賀市)-昭和町(神奈川県川崎市川崎区)-皇居(東京都千代田区)-大戦防(茨城県結城市)-逆面町(栃木県宇都宮市)

大戦防
大戦防(茨城県結城市)

三宅みやけ島雄山-池田-池田町-昭和町-皇居-大戦防だいせんぼう逆面さかずら

「大戦防」―「逆面」の串呂

「昭和の御代、大戦防の逆面ぎゃくめん(即ち大戦)が勃発する」と解明されたので、直ちに近衛公に「皇居遷都」を進言したのが「皇居遷都提唱運動」の発端になったということです。

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栃木県宇都宮市の逆面町(地図マピオン)

もちろん近衛公は、直ちに「それは絶対に不可能の事です」と断固として否定されたそうです。詳細は下記を参照下さい。

【参照】三浦芳聖伝 33、三宅島の噴火で大戦を予知(№153)
【参照】大戦防・逆面・皇居の神風串呂(№154)

*コラム・超世志のここだけの話
昭和4年、三浦芳聖が田中光顕伯爵に三浦家系図の鑑定を仰いだ時、明治天皇は後醍醐天皇の皇子「満良親王」の王孫と聞いていたので、戦後、三浦芳聖は日本国再建の為に現皇室を盛り立てようと皇居遷都提唱運動を実施したものと思います。
 若しも、昭和帝が西園寺八郎の子供であると知っていたら、足掛け5年間に、衆参両院議員全員に9回、皇居造営審議会長大野伴睦氏へ9回、政府及び宮内庁に各69回という夥しい回数、私財を投じて書類を送付したかどうか分からないと思います。
 三浦芳聖は、晩年(昭和45年/1970年頃)には、御祖大神からの霊示で「昭和帝は西園寺八郎の子供であること」を知っていました。

3、皇居遷都提唱理由

昭和33年(1958年)8月16日発行の三浦芳聖著「皇居遷都提唱理由書」(第5版)の一部を下記に掲載します。

我国肇国ちょうこく以来未曽有みぞうの敗戦国辱は、皇室も国民も斉しく大反省をして、依ってここに至った因由を究明し日本国再建に当りては万全の対策を講ずべきだと存じます。

私は敗戦以来現在に至る迄あらゆる角度より検討致しまして、国の象徴たる天皇の皇居の位置が、三浦家極秘伝の神風串呂地文の上より見て極めて不適格なるに因由することを痛感し、極秘裏に皇居の遷都を提唱して参りましたが、一向に取上げてくれませんから、余儀なくここに国民の代表たる衆参両院議員諸賢の良識に訴えて先づ日本国再建に当っては憲法改正よりも皇居遷都が先決問題である事を提唱する者であります。

京都の御所は、日本の歴史を学んだ者なら何人と雖も知る如く、逆賊足利の一類が神皇正統の天皇を追放して、勝手に自ら擁立せし天皇の為に造営せし御所でありまして、天地神明は之を護持し給わず、幾年を経ずして世は刈菰かりごもの如くに乱れに乱れ、凡そ百有余年が間、戦国乱麻の世を現出し、織田豊臣徳川の三傑さんけつ出でて漸く鎮定され、徳川幕府によって凡そ二百六十年の太平を来たしましたが、此間一般国民の脳裏からは皇室の存在は殆んど忘却されていました。

然るに薩長土肥をはじめ諸藩の幕末勤王の志士によって尊王倒幕が唱導され、遂にこれが時代思潮となって倒幕は実現し、王統の中より明治天皇を擁立し奉って王政復古明治御維新を迎えたが、皇居は足利逆賊の築造せしものより徳川幕府十五代に渉る将軍の居城たりし世界歴史にも稀なる独裁専制の封建政治の行われたる江戸城へ遷都せんとされました。

西郷南州の如き国家の柱石が逆賊として葬らるるが如き不祥事は、幾多続出致しましたが、とにかく明治天皇御一代は建武中興の英主後醍醐ごだいご天皇御再現とも称えまつる御聖徳により国運の隆昌を致しました。

然るに大正天皇には摂政を必要とする程の御不例に渉らせられ、今上天皇に至っては肇国以来未曾有の敗戦被占領国の大国辱をこうむるに至りました。

憲法は千古不磨の大聖典と云われたる大日本帝国憲法あり、教育は古今に通じてあやまらず中外に施してもとらざる教育勅語あり、陸海軍は全世界に絶対比類なき軍人勅諭ちょくゆを以て律せられ、総てが万邦に冠絶せると自負せられていた大日本帝国は、明治天皇崩御三十三年にして壊滅して世界の劣等国民に転落したのは一体何の為でありましょう。

理由はいろいろありましょうが、我が日本民族は肇国以来二千有余年、皇室を中心に国家を構成して来た民族であります。此の御住居が、天地神明の昭示し給う神風串呂上よりお調べして、皇居として極めて不適格なるに因由するものと確信致します。

今日迄に秘かに此の事を要路の方に訴えて来ましたが、全然取上げて頂けませんから、皇室を中心に考えている私としましては何としても認識して頂くために、左に現皇居及京都御所に対しまして、皇大神宮、橿原神宮、多賀大社、公文、御正体山の五方面より串呂致しまして地文を掲げ御参考と致します。

尚序に私の現住所も右五方面より串呂して御参考にします。

(三浦芳聖著「皇居遷都提唱理由書」(第5版)1958年8月16日発行、改行を施し、読み仮名や句読点を補うなど編集致しました。)

4、皇居の串呂

「皇居遷都提唱理由書」を見ると、 皇大神宮内宮(伊勢市)、多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)、橿原神宮(奈良県橿原市)、御正体山(山梨県都留市)、公文くもん(尾道市御調みつぎ町)の5点の重要串呂起点と皇居(東京都千代田区)及び京都御所(京都市上京区)とを結んだ串呂および串呂図が掲載されています。

ここでは、要点のみを記載します(既に消滅した地名も有ります)。

(1)皇大神宮内宮

皇大神宮内宮と皇居、京都御所との串呂
 皇大神宮内宮狸穴(静岡県浜松市北区)-神縄(神奈川県足柄上郡山北町)-皇居
 皇大神宮内宮真泥(三重県伊賀市)-京都御所胡麻(京都府南丹市日吉町)-里町(綾部市)

皇大神宮内宮
皇大神宮(三重県伊勢市)

(2)多賀大社(たがだいしゃ)

多賀大社と皇居、京都御所との串呂
 多賀大社天狗森山(岐阜県中津川市)-日の入山(長野県下伊那郡阿智村)-明治神宮(東京都渋谷区)-皇居
 京都御所多賀大社日影足利市(栃木県)

多賀大社
多賀大社(滋賀県多賀町)

(3)橿原神宮(かしはらじんぐう)

橿原神宮と皇居、京都御所との串呂
 橿原神宮田貫町(愛知県西尾市)-御殿(富士郡白糸村)-天子ヶ岳(静岡県富士宮市)-皇居
 橿原神宮京都御所自縄久須夜ヶ岳(福井県小浜市)

橿原神宮
神武天皇奉斎⛩橿原神宮

(4)御正体山(みしょうたいやま)

御正体山と皇居、京都御所との串呂
 弓削町(三重県鈴鹿市)-御正体山皇居
 弓削(岡山市東区瀬戸町)-京都御所御正体山

御正体山
御正体山(山梨県都留市)

(5)御調町公文(くもん)

御調町公文と京都御所・皇居との串呂
 公文京都御所欲賀町(滋賀県守山市)-弓削(滋賀県竜王町)-皇居

御調町公文
御調町公文(広島県尾道市)

(6)御所高校(御所市御所町)

また、皇居遷都提唱運動中の昭和33年(1958年)4月17日、奈良県御所ごせ御所ごせ町の御所ごせ高校(奈良県立青翔高校)で火災が発生した為、この火災現場の御所市御所町の「御所高校」と「皇居」(東京都千代田区)とを結んで解明された串呂が増補頁に掲載されています。

 御所高校田貫町(愛知県西尾市)-田貫湖(静岡県富士宮市)-皇居

愛知県西尾市田貫(地図がリンクしています)

(7)田貫について

三浦芳聖の神風串呂の解釈によると、田貫たぬきとは、たぬきの諺文(おんぶん=同音による隠語)で、たぬきは、人をだますもの(たぬき寝入り・たぬきおやじ)、化けて人をたぶらかすもの(カチカチ山)の象徴であり「虚偽・詐欺・詐称」等の意味を表わすという。

この田貫たぬきは我が国内では愛知県西尾市田貫たぬき町、京都市右京区京北田貫たぬき町、静岡県富士宮市田貫たぬき湖の三ヶ所あるのみで、上記の串呂はその内の二ヶ所が串線しています。確率から言っても偶然とはとても思えません。

【参照】伊都能売神諭 (大正7年12月22日)(165行目)
武蔵野に今はたぬき腹鼓はらつつみたたいて鳴らして、八畳敷はちぜうじきまでひろげた○○のあとの始末はふするつもりか。人民ではこの終局おさまりくまいぞよ。

(8)弓削について

弓削ゆげとは、宇佐八幡宮神託事件で有名な「弓削道鏡」の故事により、臣下の身分で皇位を伺う(盗む)者、またはその精神を表わす。

『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』第二章、御在所山をはさんで東西ほぼ300キロの等距離。

弓削町(三重県鈴鹿市)-御正体山(都留市)-皇居(東京都)
弓削(岡山市東区瀬戸町)-京都御所(京都市)-御正体山(都留市)
弓削島弓削上弓削(愛媛県上島町)-御在所山(菰野町)-皇居(東京都)公文(御調町)-京都御所-欲賀町(守山市)-弓削(竜王町)-皇居

欲賀ほしか(よくが)は、唯物史観(物欲を賀す)を表わす地文です。

こうした「忌まわしい地文」から三浦芳聖は「皇居の位置が神風串呂地文の上より見て極めて不適格」と断定し、皇居遷都提唱運動を実施したのであります。

皇室を尊崇・敬愛している方からは現皇室が弓削ゆげであるという説は理解し難いかも知れませんが、三浦皇統家が神皇正統家であるという串呂の世界では現皇室は「弓削」となります。

三浦皇統家は後醍醐天皇から三種の神器を継承(地下深く埋蔵)し、長慶院法皇が内宮の大神から天授された「神鏡」を継承し祭祀しています。
【参照】三浦芳聖伝 57、長慶院法皇と御鏡(№180)

世界史に類例のない封建的専制武断政治の拠点であった江戸城(皇居)の串呂が良くない事は、ご理解頂けるかと思いますが、南朝革命と言われる明治維新で皇統に就き、江戸城を皇居とした明治天皇の皇統は大正天皇で断絶しています。

昭和天皇の血統(実の父親)について、私は1970年頃、三浦芳聖から霊界物語として聴いていましたが、その研究(昭和天皇は貞明皇后と西園寺八郎の子であること)が下記のような活字やDVDとなって出版されています。

 鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』(2007年 成甲書房)
 鬼塚英昭が発見した日本の秘密[DVD] (2011年 成甲書房)
 鬼塚英昭『日本の本当の黒幕』上下(2013年 成甲書房)

5、皇居遷都出来ず

三浦芳聖が世界の平和(大戦防)と全人類の安寧を願って実行した皇居遷都提唱運動は、昭和34年(1959年)4月16日に皇居造営審議会が設置され、

同年10月8日付皇居造営審議会の答申に基づき、昭和35年(1960)1月29日の閣議決定により「宮殿は、その位置を皇居内旧西の丸地区旧宮殿跡とし、昭和35年度から造営実施の準備を始める」ということになり、

昭和43年(1968年)10月に完成し、翌昭和44年4月から使用が開始され、現在に至っています。

という事は、世界大戦が起きる可能性が強くなったと同時に、皇室の将来性、日本国の真の繁栄・発展の可能性が遠のいたという事です。

昭和37年(1962年)10月から11月にかけて、キューバ危機(ソビエト連邦がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚、アメリカ合衆国がカリブ海でキューバの海上封鎖を実施し、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した)などもありました。

三浦芳聖が神風串呂地文を根拠に看破した「皇居の位置」の問題は、現在、皇后の精神病、天皇家に「お世継」が生れず、出生に於て疑義のある皇弟が皇嗣に立ち、某宮家長女の結婚問題など、「皇室そのもの」の存続問題にまで進展しています。

6、天皇の責任について(蜷川新博士)

 「降伏日本」は、天皇が作られたものである。日本民族のために、この未曽有の恥辱をこうむらしめたことは、天皇に大きな責任がある。「天皇の命によって、戦争は終結したが故に、天皇は人民を苦悩から救い出した人である」と称し、天皇におもねる人間が、日本人の中にはいる。それらは倭物である。戦争は、天皇の宣戦によって生じたのである。「宣戦の勅」を再読すべきである。
 然るに、今の天皇は、休戦を放送された以外には、人民に向って、何ら悔悟かいごの意志を表示されたことがない。
 天皇には明白に法律上の責任がある。天皇は、その責任を感じられるべきである。天皇はその責任を自覚し、その地位を去られることが、人間道として至当である。天皇の退位を論ずる者は非国民であるという人もいるが、主権が人民にある現在において、天皇即ち主権全くなき一人間に関してその進退を論ずることは、法律上、徳義上、何ら非違ひいはないのである。人民の言論の自由を奪う人間こそは、今日にては非国民である。
 明治憲法は、プロシャ人グナイストに、伊藤博文が教えられて、ほとんどそのままに日本の帝国憲法となつたのである。
 明治天皇の「告文つげぶみ」によれば「おもフニ此レ皆、皇祖皇宗の後裔こうえいのこシタマヘル統治の洪範こうはんヲ紹述スルニ外ナラズ」と書いてある。しかしながら、それは人民を欺瞞ぎまんした文句である。プロシャ人に教えられた帝王権力万能主義の憲法である。曽つて日本の歴史に見なかつたほどの広大な権力を、天皇に与えて、形式は、三権分立の憲法に見せかけつつ、実際は、「天皇の権力万能主義」の国法を作ったのである。人民は、たくみに欺かれていたのである。
 明治二十三年以後の日本人は、正しい日本歴史を教えられていない。そうして、天皇は、国初以来、終始一貫して、日本人民の崇敬をし来つたもののように信ぜしめられている。

吉田長蔵『新天皇論』32頁、蜷川新博士の「天皇論」(『改造』1952年6月号所載)

7、外国の占領下に置かれている日本

実際、戦後75年を経過した今日、我が国の状況は、表面的には独立しているように見えて、全国各地に外国の軍隊が駐留していて、あちこちで制空権無しの半独立国の状態が続いている。名のみの国民主権、民主主義で、国益を考えて行動する政治家は殺される。

予算審議なしの特別会計から、毎年米国の国債を買うという方法で血税を搾取されている。日本の保有残高は1兆1600億ドル(約127兆8000億円)。

【参照】売ると殺されると噂の米国債保有残高で日本が外国勢トップを記録!(2020/01/17)

神風串呂の上から見て「皇居の位置が天皇の住居として相応しくない」という事は、串呂主宰神が象徴天皇制を、どの様に御覧になっているかと云う問題と直結しています。

神風串呂は、串呂主宰神(天照大御神)が未来を見通す「千里眼」で見た世界を長年月掛けて地文に表わしたもので、これまでご紹介して参りました様に神風串呂は、まことに的確なものです。

その的確なる神風串呂に「狸穴まみあな」「田貫」「田貫沼」「弓削」「欲賀ほしか」と出ている以上、象徴天皇制は、相当な「たぬき」であり「弓削」であり、「欲賀」(唯物史観)であり、その状況は半端ではないという事です。

皇居に生死した昭和天皇が「たぬき」であり「欲賀」(唯物史観)であった証拠を挙げようと思えは枚挙に暇が有りません。以下に一例を挙げます。

あの戦後期、東京裁判の国際検事局には最高機密とされた二つのルートがあった。一つは天皇の御用掛の寺崎英成の「天皇ルート」であり、もう一つは吉田茂の「Y項ルート」といわれたものであった。天皇と吉田茂は、軍人たちや政治家たちを戦犯にしたてるために密告し続けたのである。

(鬼塚英昭著『天皇のロザリオ(上)』404頁・成甲書房)

昭和天皇が貞明皇后と西園寺八郎の子である「傍証」として、山川三千子著『女官』に「大正天皇と貞明皇后との夫婦仲を疑っている」ことをほのめかす下記のような謎めいた記述があります。

 加賀敦子さんの「貞明皇后」も読みました。この両陛下こそは、悲劇の帝王でございましょう。大正天皇を失われてからの皇后は、まるで「黒衣の人」といわれてもよいような、黒一色の生活をされ、自分自身の手で加えられるそのような鞭はなにがため、とありましたが、その謎はやはりご自分の心だけがとかれるものでしょう。お四かたの皇子をあげられたのですから、お睦まじい時もあったのでしょう。
 御賢明にわたらせられすぎて、となげいた人もあったとか。亡き天皇をしのばれる時があるなら、ふと浮ぶざんげのお心持がなかったとは申せませんでしょう。
 天皇があられたればこそ、皇后になられたのですから。 

(山川三千子著『女官』325頁/講談社学術文庫)

また坊城俊良著『宮中五十年』には、大正天皇の三皇子の将来について、香川敬三皇太后宮大夫が次の様に述べたと記されている。

 昭憲皇太后が、沼津の御用邸に御滞在中、御機嫌伺いにあがったことがある。そのときちょうど皇孫殿下お三方お揃いで来ておられ、皇太后や女官たちと遊んでおられたが、その御様子を、目を細めて、うれしそうに眺めていた香川〔敬三〕皇太后宮大夫は、私をかえりみてつぎのような感想をもらした。
 只今は三殿下とも、何のこだわりもなく無邪気に遊んでおられるが、お年を召してからは、それは大変な御苦労が、今日では想像もできない御苦労があろう・・・

(坊城俊良著『宮中五十年』82頁/講談社学術文庫)

インターネットで検索すれば、皇室に関する負の情報がいくらでも見つかります。三浦芳聖が解明した神風串呂が如何に的確であったかという証拠であります。

【参照】日本の支配構造⑤ 表天皇の系譜、昭和天皇は何者か?
【参照】山口県田布施町の怪(上)
【参照】山口県田布施町の怪(下)
【参照】日本人が知らなくてはならない本当の昭和史
【参照】天皇が日本国民を殺した証拠
【参照】米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !?

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情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。

串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。