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三浦芳聖伝 53、小林橘川・名古屋市長当選を予言(串呂哲学研究ノート№175)

小林橘川・名古屋市長当選を予言

1、小林橘川・元名古屋市長

昭和31年(1956年)5月1日に発行された三浦芳聖著『串呂哲学第一輯』の中に、神風串呂を理解する上で適切且つ興味深い教材があるので、取り上げてみたいと思います。

それは、神風串呂を根拠に、下記の3項目を予言して的中させた事です。
(1)数年後、小林橘川氏が名古屋市長選挙に出馬し当選する。
(2)当選後、熱田神宮の御造営が成り、小林橘川氏が名古屋市長として、衣冠束帯烏帽子姿で遷宮式に参列する。
(3)名古屋市民病院(名古屋市立大学病院)で現職のまま帰幽する。

小林橘川

第17~19代名古屋市長「小林橘川」氏

明治15(1882)年10月1日滋賀県生まれ、本名「小林海音」、浄土宗高等学院〔明治36年〕中退、大正大学卒、明治38年近江新報主筆に迎えられ、44年名古屋新聞主任となり、大正3年主筆となる。記者として社会批判の筆をふるい、9年名古屋労働者協会を創立。昭和5年名古屋新聞副社長となり、22年中部日本新聞取締役論説委員。27年、名古屋市初の革新市長となり、同市の復興と発展に尽くしたが、3選半ばで没した。
20世紀日本人名事典の解説小林 橘川より

2、小林橘川氏の名古屋市長当選を予言

三浦芳聖は、選挙が実施される数年前に下記の神風串呂を根拠に、将来小林橘川氏が名古屋市長選挙に出馬し、必ず当選すると予言し、事前に知人、友人、門人等に通告していました。

小林橘川1

三浦芳聖著『串呂哲学第一輯』より転載(以下同じ)

(1)小林橘川氏の名古屋市長就任を昭示する神風串呂

小林橘川2

小林」(滋賀県柏原村)-「名古屋市役所」(愛知県名古屋市中区)-「神殿」(愛知県豊田市大平町)-「一色」(愛知県新城市)-「橘川」(静岡県周智郡森町橘)

小林橘川は、名古屋市役所の神(上・長)殿になると解読します。

神殿=かみどの=上殿=長官=市長。一色は彼と之とは同じで小林橘川の代名詞、小林橘川氏が必ずこの串呂線上の人となる(市長に当選する)と解釈する。

静岡県周智郡森町橘を流れる川を「橘川」と言います。滋賀県坂田郡柏原村の小林は消滅しました。

森町橘

静岡県周智郡森町橘(橘川)

(2)予言は外れるも翌年の選挙で小林橘川氏が当選

すると、芳聖の予言の通り、1951年(昭和26年)4月23日に執行された名古屋市長選挙に、小林橘川氏が立候補しました。

小林橘川氏は、自由奔放な評論を行うジャーナリストで、名古屋市長選挙への出馬自体、当時の人々の予想に反するものでした。下記参照下さい。

1951年(昭和26年)、日本社会党の赤松勇、小山良治、近藤国雄らは小林の自宅を訪ね、名古屋市長選挙への出馬を要請。一度は断るも、赤松は小林をすき焼き屋に招き、重ねて口説いた。「行政をやったことがないから自信がない」と答えると、赤松に「行政は役人に任せておけばよい。あなたは3階の市長室に座り、名古屋の文化を高めるアイデアを出してくれればいい。ほかに何も期待しない」と返され、出馬を決意。同年4月23日に行われた市長選挙に革新系無所属の候補として立候補するも、名古屋新聞の後輩にあたる、現職の塚本三に558票差で敗れ落選。(『ウィキペディア』小林橘川

1951年4月の選挙結果は下記の通りで、小林橘川氏は、558票の僅差で現職の塚本三氏に敗れ、芳聖の予言は当たりませんでしたが、翌年8月、塚本市長が病気で死去された為、

昭和27年(1952年)9月28日に選挙が行われ、小林橘川氏は、塚本市長の助役であった手島博章氏を破って、三浦芳聖の予言通り、名古屋市長に当選したのです。(下記の画像は『ウィキペディア』小林橘川より転載)

名古屋市長選挙1

当選した塚本三市長は、1952年胃潰瘍が再発し、同年8月3日から名古屋市東区下竪杉町の市長公舎で療養していたが、8月25日に死去した。63歳没。
『ウィキペディア』塚本三

名古屋市長選挙2

3、烏帽子姿で遷宮式に参列する予言

熱田神宮の御造営が成ると、小林橘川名古屋市長は、衣冠束帯烏帽子姿で遷宮式に参列し衣冠束帯の神ながらの服装に威儀を正して御神前に参進するという(2)の予言に関する神風串呂です。

この予言も、小林橘川氏が名古屋市長に就任するという(1)の予言同様、1951年(昭和26年)4月の名古屋市長選挙の行われる数年前に知人、友人、門人等に通告していました。

(1)小林市長が烏帽子姿で神宮に参進する事を昭示する神風串呂

小林橘川4

烏帽子嶽」(岐阜県大垣市上石津町細野)-「⛩熱田神宮」(愛知県名古屋市熱田区)-「一色」(愛知県新城市)

一色(小林名古屋市長の代名詞)は、熱田神宮の神殿御造営を唱道推進し、熱田神宮御造営が完成して御遷宮の暁に、地元の市長として、烏帽子=衣冠束帯の神ながらの服装に威儀を正して、熱田神宮の御神前に参進すると解釈します。

烏帽子岳

岐阜県大垣市烏帽子岳

(2)小林市長の唱道で神宮再建が成る事を昭示する神風串呂

小林橘川3

須成」(愛知県海部郡蟹江町)-「⛩熱田神宮」(名古屋市熱田区)-「和合町」(愛知県豊田市)-「神殿」(愛知県豊田市大平町)

和合=米英その他と平和条約が締結せられて、熱田神宮(栖・御簾)がる。即ち神殿が造営される。

須(す)=栖(す=すみか)=御簾(みす=すだれ)。神殿は「しんでん」であると共に、上殿=かみどの=長官、即ち名古屋市長「小林橘川」でもある。

この神風串呂の通り、昭和30年(1955年)10月熱田神宮は再建され、11月11日御遷宮式が厳修され、小林橘川氏は三浦芳聖の予言通り、名古屋市長として衣冠束帯の装束に威儀を正して堂々と御遷宮式に参列されました。

須成

愛知県海部郡蟹江町「須成」

4、現職の小林市長が市民病院で逝去する予言

三浦芳聖は、昭和31年(1956年)5月1日発行の『串呂哲学第一輯』で、下記の神風串呂を公表し、小林橘川氏は現職の名古屋市長のまま、名古屋市民病院で逝去するという予言をしました。

(1)小林市長が現職のまま逝去する事を昭示する神風串呂

小林橘川5

立野」(岐阜県海津市海津町)-「名古屋市役所」(愛知県名古屋市中区)-「小林」(愛知県北設楽郡東栄町振草)

立野は「野辺送り」で人が死亡する事を表わします。野立、入野も同じです。船入は、高貴な方の薨去を表わします。

愛知県北設楽郡東栄町振草「小林」は、小林橘川市長を表わしますが、住所の「振草」は、「草薙の剣を振興する」を意味し、熱田神宮の再建御造営を唱道し、熱田神宮の振興に貢献した「小林橘川市長」を表わします。

この神風串呂は、熱田神宮の振興に貢献した「小林橘川」氏が、現職の名古屋市長のまま逝去すると解釈します。

東栄町小林

愛知県北設楽郡東栄町振草「小林」

(2)「小林」(米原市)と「立野」(海津町)との神風串呂

小林橘川6

小林」(滋賀県柏原村)-「立野」(岐阜県海津市海津町)-「⛩津島神社」(津島市)-「須成」(愛知県海部郡蟹江町)-「⛩知立神社」(愛知県知立市)

小林市長は須成(熱田神宮の再建、御造営が完成)後に逝去(立野)すると解釈します。

津島神社、知立神社が存在するのは、この串呂の守護神と考える事も出来ますし、また戦時中に破壊された両神社の神殿造営(須成)後に、小林市長は逝去すると解釈する事も出来ます。

海津町立野

(3)小林橘川氏が名古屋市民病院で逝去する事を昭示する神風串呂

小林橘川7

立野」(岐阜県海津市海津町)-「名古屋市民病院」(名古屋市瑞穂区瑞穂通)-「橘川」(静岡県周智郡森町橘)

橘川(小林市長)は名古屋市民病院(名古屋市立大学病院)で逝去(立野)する事を表わします。

実際、小林橘川市長は昭和35年(1960年)9月18日に実施された名古屋市長選挙で3選を果たした後、

三浦芳聖の予言通り、現職のまま、10月13日、名古屋市民病院(名古屋市立大学病院)に入院し、昭和36年(1961年)3月16日、公務に復帰する事なく、同病院で動脈硬化症により逝去されました(78歳)。

なお、名古屋市民病院は、1950年4月、名古屋市立大学病院と改称され、1966年4月現在地(名古屋市瑞穂区瑞穂町字川澄1番地)に移転しました。
『ウィキペディア』名古屋市立大学病院

5、串呂哲学的考察

(1)この小林橘川の神風串呂物語は、串呂主宰神によって、長期間かけて入念に準備され構築されたものだと思います。

串呂地文はもとより、選挙戦を闘った登場人物も、戦災で焼失した熱田神宮の社殿も、名古屋市民病院も、何もかにも全て、串呂主宰神が用意されたものだと思います。

(2)その目的は、神風串呂の公表時期に合わせて、神風串呂というものが如何なるものかを人々に知らしめる為に理解しやすい教材として用意されたのだと思います。

(3)その為に、いったん芳聖の予言が僅差ではずれたり、予言に反して当選した塚本市長が、当選後16ヶ月後に病死され、再び選挙戦が行われ、見事芳聖の予言通り、小林橘川氏が市長に当選し、革新系の市長が熱田神宮の再建造営を唱道し推進するという意外性など、ドラマチックに構成されています。

(4)神風串呂が構築された主旨は、神皇正銃のスメラミコトが「天之岩戸篭り中」である事、そして神皇正統家は厳然と存在している事を人々に知らしめる為であります。

(5)串呂主宰神は伊勢神宮内宮の「天照大御神」様です。日本民族の危急存亡の今こそ、天照大御神の御神意に添い奉る時だと確信しています。


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情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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