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【短編小説】その日

「ここまでよく生き延びた!お疲れ!」

 日めくりカレンダーの最後の一枚には、自分で自分に書いた労いの言葉が弱々しく書かれていた。このカレンダーを作った日、きっとこの言葉は未来の自分には届かないだろうなと思っていた。感慨深い?安堵?そんな穏やかな気持ちは一切ない。人生で初めての武者震いをしてしまうほど、僕はいま、喜びに満ち溢れていた。
 嫌で仕方なかった、細身の僕には少し大きめの学ランを着て、教科書もルーズリーフも入っていない空の鞄を肩に掛けて、意気揚々と自転車を漕ぎ出した。この三年間のうち、これほど太陽の光が目に優しかった日があっただろうか。疎ましさしかなかった朝日の輝きを全身に浴びて、少しずつ体温の上昇を感じられる。まだ冬の名残を風の中に感じながらも、その冷たさとのコントラストを春の訪れとして慈しむことすらできていた。ペダルを踏み込む足にも力が入って、下校のときと同じくらいのスピードで登校をしている自分に笑いが止まらない。早る気持ちに体も必死に食らい付こうと、意志とは無関係の強い力が働いているのがわかる。学校の駐輪場に植わっている紫陽花の枯れ木も、先端からふっくらとした新芽の頭を覗かせて、その黄緑色の涼やかな佇まいに自然笑みがこぼれ落ちる。
 まるでこの世の全てが、僕の今日この日を全力で祝ってくれているようだった。

 教室に入ると、美術部が各クラスそれぞれに制作した黒板アートが描かれていた。「卒業おめでとうございます」の字に、満開の桜と空にかかる大きな虹。大まかな特徴だけをかい摘んで描いてある担任の小林先生の笑顔に向かって、「似てねぇー!」と笑いながら何人かが写真を撮っていた。
 いつもならこの時点で、心のシャッターを閉め切っている。制作してくれた美術部の子達の気持ちを何故考えないのか、配慮に欠ける発言を笑いと共に受け流すその周りの人間にも嫌気がさして、これだからこいつらのことが嫌いなんだと心の中で見下して、席に着いてすぐ顔を伏せていただろう。
 でも、今日の僕は違う。クラスの連中の言葉なんて、何一つ気にも留めないでいられる。堂々と顔を上げたまま、周りの人間の表情や言動を五感で感じ取っていこう。何故なら今日は、この世の全てが僕を祝ってくれているのだから。
 数分してすぐ、背中がじんわりと汗ばんできているのがわかった。もうすでに登校したときの汗は引いていたから、緊張の冷や汗であるのは間違いなかった。進学先の話題で盛り上がるメガネ率の高いグループ、他クラスからもお互いの写真を撮りに来て騒いでいる運動部の奴ら、登校時に配られた花の記章を上手く付けられないと騒いでいる連中。どいつもこいつも皆、今日というこの日に全力で浮かれていた。その浮かれ具合が、僕の万能感とまで言えるほど高まっていた愉悦を遥かに超えているようで、次第に僕自身のそれは萎み始めていた。
 でも、それでも、僕はしっかりと顔を上げ続けた。周りに悟られないように、ゆっくり深く呼吸をして、早まる鼓動を抑え込もうとした。今日で終わりなのだから、せめて最後くらいは強く、自分を支えていこう。視界を遮って逃げる必要なんて全くない。どう思われても、どう見られても、明日からはもう関係なくなる。それでもやっぱり、誰かと目が合わないようにはしていた。

「うい、今日で最後じゃん」

 右肩を軽く叩かれて、思わずビクッと体が跳ねてしまった。見上げると、クラスメイトの谷が笑顔で立っていた。彼とは数回、体育のストレッチでペアを組んだことがあったけど、それ以外で会話をしたことはなかった。

「最後くらいは寝ないんだな。お前いっつも寝てるじゃん」
「あ、あ」

 最後くらいはってゆうか、いつもだって寝ているわけじゃなかったけど、という返しが「あ、あ」の二言の中に収まってしまった。口の動きもおぼつかなくて、声帯はそれ以上に動きが鈍かった。途端に、本来の自分の気持ち悪さを再認識して、朝のスパークしていた自分のはしゃぎっぷりを思い出して赤面した。今この場にいる自分は、羞恥100%でできているに違いなかった。

「おはよう谷。やべぇよ最後じゃん今日」

 いつも一緒にいる谷の友人二人が登校してくると、そのまま僕の席の周りで会話を始めた。二人ともおそらく同じクラスなはずだけど、僕は名前はおろか顔もよく覚えていなかった。ただ、休み時間に顔を伏せながら聞こえてきた谷の声と、いつも混ざり合っていた声の持ち主達であることだけはわかった。
 すぐ別の場所に行くと思っていたけれど、彼らはそのまましばらくそこで楽しげに話し続けていた。そんなわけはないことくらいわかっていても、何だか自分もその輪に入っているように思えてきて、先程までの緊張と居た堪れなさが少し薄らいだ。

「こいつとさ、写真撮ってよ」

 突然、谷がそう言うと、友人の一人にスマホを渡して僕に肩を組んできた。心臓が壊れたのかと思うくらい激しく動いて、全身の毛穴が一斉に開いた。驚きと共に再び訪れた緊張で動けなくなっている僕をよそに、スマホを渡された友人は当たり前のようにカメラをこちらに向けると、合図と共にシャッターボタンを押した。

「ありがとな。後で送るから、帰りにLINE教えてよ」

 そう言うと、谷は他のグループに呼ばれて行ってしまった。

「おまえ、顔ちゃんと見たの初めてかも俺。結構普通なのな」
「いやいや、失礼だろ。こいつ悪気ないから、ごめんな」

 谷の友人二人は、極々自然に僕に声をかけたあと、谷の後を着いて行ってしまった。
 全く予想もしていなかった展開に呆気に取られて、僕はしばらく口が開いたまま黒板を見つめ続けた。相変わらず鼓動は早く打ち続けているし、変な汗は止まらなかった。けれど確実に、お腹の奥底の方で、何かの塊がじわじわと僕を内側から温め始めていた。
 どうして今日がこれほど喜びに満ち溢れて、その勢いそのままに、教室でも顔を伏せずにいようと決心できたのか。本当はもう気付いていた。その場で繰り広げられている青春の1ページというものに、何とか自分の存在も載せていこうとしていたのだ。最後くらい、僕は僕自身を労い、優しくしてあげたかった。この教室で気配を消して、いてもいなくても誰にも影響を与えない置物のような自分に、3年分のご褒美をあげたかった。
 この数十分、顔を上げて座っていた。ただそれだけで、人に話しかけられて交流を持つことができた。時間にして僅か1分にも満たない、きっと数ヶ月後には彼らの記憶からは消えてしまうだろうとても短い時間だったとしても、確かに僕は人と交流できたのだ。
 もし、この三年間で顔を上げている時間がもっとあったら?そのうちの半分でも、三分の一でも、何なら数日、数時間だっていい。僕が顔を上げているだけで、ほんの少し、何かが違っていたのかもしれない。

「はい、廊下に並んで。出席番号順」

 小林先生の声と共に、クラスメイト達はぞろぞろと教室を出て行った。こぼれ落ちそうな涙を学ランの袖に染み込ませてから、僕はゆっくりと立ち上がった。

食費になります。うれぴい。