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”腑に落ちる”は、突然に。

有名な曲みたいなタイトルをつけました。
でも、
何かが肚落ちする、腑に落ちる感覚で”わかる”時って、いつも不意にやってきませんか?
恋とは違って、日常のなんでもなさすぎる瞬間にやってきますが。
お風呂入ってるときとか、台所に立ってるときとか、信号待ちしてるときとか。


発見は、ポケットのような瞬間にやってくる。


どうやら昔からそう言われているようです。
”発見”は朝を好むらしい、というのは外山慈比古さんの言葉です。

”三上”という語がある。その昔、中国に欧揚修という人が、文章を作るときに、すぐれた考えがよく浮ぶ三つの場所として、馬上、枕上、厠上をあげた。

「思考の整理学」
1986年初版ですが、とても読みやすい色褪せない本の一つだと思います。

今だと、
馬上は、車や電車などで移動している時でしょうか。
確かに、前に腑に落ちた時は幼稚園にお迎えへ行く途中の自転車の上でした(笑)
枕上は、朝起きた時のことだからあまり変わらないかな。
厠上も、トイレ中ってことですね。

とある問題について日頃考えたり頭を悩ませたりはしているけれども、
そこからふっと離れている、ポケットのような瞬間に”発見”がやってくるのでしょうね。

台所で腑に落ちる。


ちょうど、先日もそんな瞬間がありました。
日曜の朝。
家族の朝ごはんの準備でもしようかと台所に立っている時でした。

最近は、色々と心配なことが多くて心が疲れ気味でした。
・長男の受験
・父のケア
・義父の病気のこと
大きいのはこの辺りですが、細かなことはもっとたくさん。

気持ちが揺さぶられて、疲れていました。
自分ではどうにもできないと思いつつ、気になってしまうからです。

・・・なんで、私がこんなにイライラしたりもやもやしたりしてるんだろう。自分ががんばって解決できることじゃないのに。

って思った瞬間に、
「あ、そうか。
いくら家族や大切な人でも、究極的にはその人の問題なんだ。
結局あれこれ心配したり気を揉んだりしても、
私ができること(しなきゃいけない)ことは限られてるんだな
ってやっと腑に落ちました。

他者ができることって、
せいぜい、自分が思うことや感じることを伝えたりするくらいなんだ
、と。
まあ、父のケアに関しては実際に動いて手助けすることが必要ですが。

その人の人生は、その人だけの大切なもので。
たとえ血の繋がりがあろうと、心の繋がりがあろうとも、一瞬だって肩代わりをしてあげることはできないんだ、と。

そう思えたら、気持ちがすっと楽になりました。
誰かのことを親身になって考えるということと、他者と自分を重ねて一緒に悩むことは似ているけれども、ちがうな、って。

自分と他人との間に境界線を引く。


共感力が高めの人は、ついついここが混ざりがちになってしまいますよね。
だって、悩んでる人を見てたら、話しを聞いてたら気持ちがすごく伝わってきちゃうんです。

自分と他者とを切り分けることが苦手、なんです。

これまでだって、たくさんそういう本を読んできました。
たくさんの方法や言葉に触れてきました。
だけど、
そうなんだよねー。
頭ではわかってるんだ。
気持ちも、わかりたいって思ってる。
そうできた方が楽なんだろうって。
でも、なかなかそれができないんだよね、って感覚でした。

それは、きっと、心が理解してないからだったのでしょう。
腑に落ちていなかったからです。

そして、いつかやってくるだろうその瞬間は、
厄介なことに、いつ来るのか本人には分からないんです。
ううん、きっと誰にも。
神のみぞ知る、というところなのでしょうか。

こういう自分の心を癒したり癖を見つけたり直したり、といった作業は、
よく、玉ねぎの皮をむくようだ、と喩えられます。

本当にそうだな、と思います。

色々な事情で身につけた(憑いてしまった)皮を、一つ一つ脱いでいく。
時間もかかるし、痛いこともあるけど、軽くなります。

その皮が何枚あるか、自分でもわからないのですが、
そうやって一つ一つクリアしていくうちに、自分自身の気持ちが見やすくなって、なんだ、自分もそんなに悪くないな、っていうか結構がんばってたんじゃない?
なんて自然に思えるようになって。

そんな未来が来るなんて、10~20代の自分は想像さえしていませんでした。

いいことも、いやなことも、無駄じゃない。


だから、どうか。
今とても辛い人も。
生きていてほしいと思います。

何が起こるかわからない未来が、とても不安にみえるかもしれないけれど。
良いことばかりの未来もないけれど、悪いことばかりの未来なんていうのも、多分存在しなくて。

いいことも、いやなことも。
すべては繋がっていて。

あんなに苦しかったことにも、ちゃんと意味があったんだ。
その時は、全然そう思えなかったけれど、すべては無駄じゃなかった。
そんな瞬間が、不意に訪れるから。

そういう途轍もなく大切な形のないものを
体験するために、知るために、手に入れるために。
きっと、人生はあるのかもしれない。

そんなことを思ったりしました。


読んで頂きありがとうございました。
願わくば、今、感じている辛さが少し和らぎますように。






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