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小説 名娼明月

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#北九州

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

 博多を中心としたる筑前一帯ほど、趣味多き歴史的伝説的物語の多いところはない。曰く箱崎文庫、曰く石童丸(いしどうまる)、曰く米一丸(よねいちまる)、曰く何、曰く何と、数え上げたらいくらでもある。
 しかし、およそ女郎明月の物語くらい色彩に富み変化に裕(ゆた)かに、かつ優艶なる物語は、おそらく他にあるまい。
 その備中の武家に生まれて博多柳町の女郎に終わるまでの波瀾曲折ある二十余年の生涯は、実に勇気

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「小説 名娼明月」 第43話:絶体絶命

「小説 名娼明月」 第43話:絶体絶命

 太左衛門は、辞するお秋を無理に自分の真向こうに坐らして、

 「まず一杯!」

 と杯を献(さ)した。
 一人立ち、二人立ちして、四人の女中が一人もいなくなったのを、すぐと感づいたお秋は、どうかしてこの坐を立つに足るべき辞抦(じへい)を考えた。しかし、今来て今立つわけにもいかぬ。
 杯を無理に押し付けらるれば、三度に一度は受けねばならぬ。
 お秋は、飲めぬ酒を飲みし苦しさに、ほんのりと紅潮(くれ

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「小説 名娼明月」 第45話:一封の手紙

 急場を思いがけなき人に救われて、蘇生の思いをしたるお秋は、感激の涙を両眼に湛えながら、母の室(へや)に帰った。そうして事の始終を詳(つまび)らかに話すと、阿津満(あづま)も一方(ひとかた)ならず喜んだ。

 「いずれ明朝お目にかかって、ゆっくりお礼を申し述ぶることとしょう。その際、その方がどこの何というお方であるかは判るであろう」

 と、その夜は枕に就き、翌朝朝飯を終わるやいなや、すぐにお秋は

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「小説 名娼明月」 第46話:零落の底

「小説 名娼明月」 第46話:零落の底

 阿津満(あづま)母娘が今度引越した裏町の家は、六畳の一間に二畳の板敷が付いている。門口から台所まで、一目に見透さるる棟割である。
 亀屋から貸してくれた世帯の道具いろいろを、それぞれの所に並べ、綺麗に払いて、お秋はまず母の床を敷いた。南窓を頭に母を臥(ね)さして、母の枕元に坐れば、近所の色黒き男や、人相の悪い女房どもが、移り替り門口から母娘を窺(うかが)いに来る。自分たちの仲間としては、余りに品

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「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

「小説 名娼明月」 第47話:門演(かどづけ)の身

 長屋の盲女(めくらおんな)から聞いたる三味線門演(かどづけ)のことを、その夜お秋は種々思案してみた。

 「かくまで窮迫した身で、どうして贅沢が云えよう? 飢えたる者は食を撰ぶの隙はない。幸い自分は三味線ならば一通りは弾ける。三味線の門演でも仕事には相違ない。思い切って門演を行(や)ってみよう!」

と、雄々しくも心を極めたが、

「このことが母上に判っては許されまい。よし許されたとしても、却

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「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む

「小説 名娼明月」 第48話:病勢進む

 お秋の美容と美音とは、たちまち小倉の城下の大評判となった。
 もうあの美人三味線が来そうなものである、と日暮るれば、お秋の来るのを待ちかねる人が、そこここにあった。従って収入(みいり)も殖えて、母の病気を養い、己の口を養うのに充分であった。
 そうして、このことの評判は、長屋中に伝わらずにはおかなかった。近所のおかみさんや娘さん連は皆、お秋の身を羨んだ。
 ある晩のこと、お秋はある家で、尠(すく

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「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

「小説 名娼明月」 第49話:阿津満(あづま)の死

 阿津満(あづま)の病勢は、いよいよ募った。十二月五日は雪を以って明けた。真っ白く明け放れた空には、なお小歇(こやみ)なしに綿雪が降る。雪を踏んで寒そうに仕事に出かける長屋の人もいる。
 阿津満は、目をつぶったと思えば開き、開いたと思えばつぶりして、窓の向こうに見える雪を力なくながめていた。
 頭は惘然(ぼんやり)となってくる。そうして眼界にある総ての物が影薄く眼の底に映ってくる。それでいて古郷を

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「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅

「小説 名娼明月」 第50話:またも巡礼の旅

 広き天地の間にただ一人取り残されしお秋は、母を失いし嘆きの涙の裡(うち)から雄々しくも奮い立った。
 今日を限りと思えば、お秋は朝から母の墓に詣でた。草花手向けて墓前に叩頭(ぬかづ)けば、さまざまの思いが一時に胸に罩(こ)み上げてきて、涙は墓前の赤い土を濡らした。さすがに勇ましい決心も、母の墓前にあっては、一個の弱い女である。悲しい思い出の数々、母についての記憶のさまざまが、一緒に雲のように湧い

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