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天皇と原爆…米国🇺🇸観の見直し その1

書評⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

ややセンセーショナルなタイトルで始まる保守論壇の大御所の西尾幹二先生の著です。先ずはマルクス主義史観の説明から入る本書は、例えば、日本の戦争時代の歴史を語る時も、17、18世紀から始まる西洋のアジア侵略の歴史を先に置き、日本と中国とヨーロッパの歴史をパラレルに比較させて見る必要性を説き、世界の現実の動きを見る事を抑えた自閉的で自足的な、偏頗(へんぱ)な歴史観を戒めます。

マルクス主義史観と言うのが何だったかと言うと、

人類史と言うのは階級社会と無階級社会があって、無階級社会を実現するために、今まであった歴史は全て間違っている、真の歴史の前史である、これから未来に始まる歴史こそが本物の歴史で、したがって過去から現在までを全て否定しなければならないと言う意識になります。これは革命思想で、将来、共産主義になった時に初めて人々は解放されると言うもの。単純な善悪の二元論が特徴的な一つの類型で、善なるもの、これは未来に属するもので、進歩するもので、人々を解放するものである。対して、悪は何かと言うと、その逆で未来に反するもの、反進歩で、反動に与するものであり、これが悪となります。もう一つの類型は、その歴史を語る人、知識人なら知識人、あるいは歴史家、そう言う存在は例外的なものとしておく。彼らは未来に属するもの、人々を解放するものに努めて奉仕する人々。つまりは善です。彼らは高いところから目の前にある国家も社会も歴史もことごとく見下して自らは超越して行き、俺は全部知っているよ言わんばかりです。世界のこと、過去も現在も知っているとばかりに。これが進歩思想の特徴です。

こう言った所謂、進歩思想を持った進歩人・知識人ってマスコミ界隈や作家・言論人などにもいますよね。好きじゃないので見ていませんが、「関口宏のサンデーモーニング」、「池上彰のニュースそうだったのか!」などこの手の番組に出てくる出演者からは所謂、善玉悪玉と言う単純な二元論でしか物事を語れない人間特有の匂いを感じます。また、本書でも紹介されていますが、半藤一利、保阪正康、秦郁彦と言った作家・言論人等がそうです。本著の言葉を借りると、彼らの作り出す自閉的で自足的な閉じた日本現代史は万事が日本悪玉論に終始してしまい、ドイツ🇩🇪と日本🇯🇵は革命が出来ずにフランス革命は素晴らしい、ドイツと日本と言う後進国で野蛮な国家を、正義の味方のアメリカ🇺🇸が立ち上がって押さえこんだそれが過日の戦争であって、中国🇨🇳侵略を盾にして、日本人に罪悪感を植え付けつける様な事が、だいたい動機に入ってくるそんな構図です。これは所謂、ニュルンベルク裁判や東京裁判というドイツや日本の戦争犯罪を裁くと称して「事後法」を犯した間違いをした裁判と同じ構図であって、裁判では存在しない法律で裁いてはいけない罪刑法定主義が取られているはずであり、戦争行為は国際法的に認められていた。ドイツや日本と言う二つの国を犯罪国家として裁こうとしても、そもそも法律が無い。そこで無理に事後法、後から作った法律で裁いたのがこの裁判です。この裁判の性格は戦勝国の敗戦国に対する復讐劇と言うのが本当の性格です。だからこそ、先程の進歩的知識人と言う面子は戦勝国に尻尾を振る犬🐶の様な構図にも映る訳です。

二十世紀の戦争に関する本著の説明の一説を引用すると、以下の様になります。歴史の流れの連続性を全世界的に俯瞰し、多視覚的に眺めようとする努力が見て取れます。

20世紀は、世界がすでに一つになった歴史を展開していた時代で、アジア情勢と日本の国内政治だけでいくら詳しく述べ立てても歴史は分かりません。欧州戦争とシナ事変と日米戦争は一つつながりに、いわば一体化していおり、例えば、スペインの内戦(1936-39)は日本史にも深刻につながっています。この内戦は独伊と英仏を切り離し、英仏をソ連に近づけた鍵をなします。欧州が分裂し、革命後まもないソ連は中国共産党に梃入れを始めます。1935年7月~8月のモスクワにおけるコミンテルン第七世界大会は決定的に重要な岐れ(わかれ)目で、ソ連の中国への干渉、国共合作への働きかけに対し日本側が警戒し、対応策に出たのが日独防共協定でした。ところが、イギリスは中国大陸で反ソ的な動きを全くせず、日本の反ソ的対応に批判的です。イギリスは当時中国の金融経済力を独占しようと暗躍していました。~中略~ スペインの内戦から第二次上海事変(1937年8月)までの歴史を動かしていたのはコミンテルンとユダヤ金融資本です。突如として英ソが手を結んだ欧州情勢はヒットラーの憎々しさだけでは説明できません。あの時代を神秘的に蔽ったコミンテルンの影響史と、それを裏から手を握った金融財閥の影を決定的要因と見ない歴史叙述は、やはり現実を反映しないフィクションに過ぎないのではないでしょうか。

著者は、先述の進歩的知識人半藤一利氏の「昭和史」に対して、日本国内政治ばかりに目を向けて、日本側からみた国際社会は書いてあるが、世界史の中に日本を置いて世界が日本にどんな仕打ちをしてきたか客観的に考える視点が全く無い。歴史の群像を善玉、悪玉の二つに分けてみるが、陸軍が悪玉で海軍が善玉と言う不思議な前提で書かれている。最初、海軍が表向き平和を志向するような顔つきをしていたからで、それが軍略的に国家を対米戦争に追い込む結果になった可能性については考えようもしない…と喝破します。確かにその通りであって、上記の著書は歴史を世界的に眺める多視覚的な視点を欠き、先述のマルクス主義史観に拘泥し善悪二元論にのみ始終している様に思います。書店にこの本は並んでいますがさほど読む価値の無い本の様に思えました。アメリカは日本への全面降伏を求めてきますが、妥協があるからこそ政治なのに、ルーズベルトには一切それが無く、日本への挑発しか考えていなかった。そこに至るまでの日本政治が間違っていたのではないかと言うが、アメリカの政治も間違っていたのかも知れない。確かに、そう考えるのが現代の我々の正当な判断だと思います。戦争は双方に戦意があって初めて起こるが、どっちの戦意の方が強かったのか。戦後の70年間あった歴史を振り返った時、アメリカはどういう国であったか。アメリカが正義だとどこに言えるのかと考えるのが常識であるでしょう。その様に、マルクス主義二元論の残骸を克服しようとする試みが本書の一つの目的である様に思います。

続いて、本著は本論であるいったいアメリカはどのような国なのか、なぜアメリカは日本と戦争をしたのかと問う歴史認識の盲点を考察して行きます。その続きはその2で書きたいと思います。

(了)






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