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鬼滅の刃無限列車編は女性に都合のいい少年像を提示する物語だという話

僕はアニメしか見ていないが、『鬼滅の刃』が嫌いだ。特に、無限列車編が大嫌いだ。

内容自体もそうだが、特に嫌いなのは「(女性に)人気だ」という事実の方だと思う。「人気作なんだ」と思いながら見ていると不安になる。ものすごく焦る。多分、どこぞの女性作家が描いた、特に人気にもならない無名の少年漫画なら、ここまで嫌いにならなかった。

表面的にはすごく優しい話のようで、弱さを吐露していい場面がどこにもない気がする。鬼滅の刃には(そしてこの作品を取り巻く言説には)、男としての辛さを語れる場面がどこにもない気がする。いや、そういう感情を緩やかに排除し、なかったことにするような力学さえこの映画からは感じる。「私の考えるかっこいい少年漫画」を作るために、男性性の辛さや欲をきれいに脱臭し、不可視化する排除の視線だ。そのせいか、この作品が「日本映画歴代興行収入一位」として語られるとき、「新時代の男らしさ」として語られるとき、僕は焦る。そして怒りが湧いてきて、思わずどこにもいない「女性」と呼ばれるナニカを徹底的にこき下ろしたくなる衝動に駆られる。端的に言えば、鬼滅の刃は僕をミソジニスト化するパワーを持っている。

この記事は、一連の「鬼滅の刃ブーム」のなかで、僕が何に傷ついたかを考えていくものだ。

実は、僕は鬼滅の刃を見て、フェミニズムから距離を置こうと思った。もともと僕は昔からジェンダー論の一部としてのフェミニズムに期待していた。僕は男性という規範から降りたかったし、もっと多様な性のあり方があると信じたかった。でも、鬼滅の刃を見て、その盛り上がりを見て、そしてそこでの男性/少年表象の語られ方を見て、フェミニズムと僕はそもそも立場が違うという当たり前のことに気づいた。僕の苦しみを代弁してくれる政治運動としてのフェミニズムなどない。フェミニズムは(直接的には)僕を救わない。ただ同時に、フェミニズムから学ぶべきことがたくさんあるとも思った。

なぜ、そう思ったのか。そのことについても書いていくつもりだ。出来る限り正直に。

これは誰かを傷つけたいと思う以上に、「なぜ傷つけたいと思うんだろう」という問いから出発した文章だ。

ただ、最初に宣言しておこう。もし、この文章で誰かが傷ついたのなら、それはそれでちょっとスカッとするのかもしれない。正直に言おう、僕はそれを否定しない。なぜこう宣言するのかといえば、僕がこの後書いていくのは、「そういう加害欲求を不可視化する視線への抵抗」だからだ。そもそも、僕が「鬼滅の刃」の「女性ファン」や「男性評論家」にブちぎれている(いた)のは本当だし、それを否定しても何も始まらない。それを無かったことにしたら、本当に言いたかったことが言えなくなるだけじゃない。そういう語り方をしたら、最後には自分の本心を誤魔化して、読者サービスとしてかっちょいい「解決策」を提示して、「この解決策があるから、自分は大丈夫だ」と言い聞かせる、みじめな文章になるだろう。

本当は怒っているのに、傷ついているのに、自分は傷ついていないという偽の前提を設け、その前提に従って偽の問を立て、そこに偽の問題解決を見出しても意味がない。そんなものは、常識が答えになるように逆算して問を立て、それを解いているだけに過ぎない。

したがって、この文章では、怒りをぶつけ誰かを批判することを最終目的にしないが、同時に自分の怒りも無視しない。

(と同時に、もしこの怒りで誰かが傷ついたなら、その感情を僕は尊重したい。例えば、冒頭の「多分、どこぞの女性作家が描いた、特に人気にもならない無名の少年漫画なら、ここまで嫌いにならなかった。」という言葉はかなり攻撃的だと自覚している。もし怒りを感じたのなら、あなたは怒っていい。)

この文章は何よりも「自分で自分に納得したい」という思いの発露でもある。もし、読者とその感情で繋がれたのなら、僕はうれしい。


鬼滅の刃の基本的な展開

鬼滅の刃の展開は、少し偏った見方をすれば、個人的な欲望を持たない主人公・竈門炭治郎が、鬼になってしまった妹を人間に戻すために、個人的な欲望に振り回される存在である鬼をばっさばっさと切り倒すというものだ。

特徴的なのは「欲望に振り回されているんじゃねぇ!」と相手を悪と規定して断罪しているのではなく、「お前も辛かったな」と敵キャラに寄り添うシーンがあることである。なお、なぜこのようなシーンが存在し得るのか、のちに僕の意見を提示する。

日本映画興行収入1位となった(なってしまった)無限列車編では、主人公の兄貴分とでもいうべき煉獄杏寿郎というキャラが出てくる。この煉獄は映画の終盤で現れた鬼から味方を守るため、母親から諭された自己犠牲の精神を説き、弱さにこそ価値があると説きながら、鬼との激闘を繰り広げ、散る。

本稿を読むにあたって押さえておくべき内容はこのくらいだろう。注目すべきは、主人公やその兄貴分が、個人的な欲望を持っていないのにも関わらず、戦っているということである。これは非常に珍しいと個人的には思う。そしてここにこそ、鬼滅の刃に僕が傷ついた原因がある。

そのことを知るためには、どうして少年漫画にバトル物が多いのかを考える必要があると思う。次節はそのとりあえずの答えを提示しよう。


そもそも、どうして少年は戦うのか

そもそもどうして主に男性向けである少年漫画の主人公たちは剣を携え、敵と戦うのだろうか、という問いをここでは考えよう。

よくある答えは、強さへの欲望だろう。何か対象を決め、そいつよりも自分が強いことを示したい!という欲望が男性にはあり、それをフィクションの中で疑似体験しているという説明だ。これには一理あるし、個人的にもそれなりにしっくりくる。(もちろん、強さというものを無批判に称揚する気にはもちろんならないが。僕は「強くあらねばならない」という男性ジェンダーが嫌いである。しかし強さへの忌避観があってもなお、少年漫画には憧れがある。それが何かは後述)

それ以外にも、よく言われるのは、退屈からの脱却という筋書きである。主人公は代り映えのしない毎日に飽き飽きしていたが、突如戦いに巻き込まれていく、という展開に、読者は自らを重ね、束の間の「退屈からの脱却」を味わうのだ。

このどちらか、もしくは両方が重なるものとして、少年漫画という形式は支えられている。

しかし、少年漫画という形式はこうした欲望の充足というファクターだけから出来ていない。なぜなら、この欲望は加害性に満ち溢れているからだ。

ナニカを敵と定め、攻撃するには通常何らかの理由や動機がないといけない。正当な動機もなしにこの欲望を満たすことをこの社会は暴力と定義する。その規範を逸脱すれば、自らが排除されてしまう。

したがって、少年漫画という形式は、必ず「正当な暴力行使の動機」を必要とする。


無い動機を捏造する。それが意味すること。

退屈から逃れ、敵を倒す快楽を本気で味わうためには、どうしても「良い動機」が必要なのである。

僕は少年漫画で引き合いに出される動機には大きく三種類あると思う。

①自らの大切な人を殺されたなどの、トラウマがあり、その報復のため

②大切な誰かを守るため

③世界観設定によってあらかじめ、戦って良いとされている

①は『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』などの近年のヒット作も使用している動機だ。この動機を使う場合、序盤で家族が死ぬ展開が王道である。

②これも結構ある。戦いたくはないが、ヒロインや家族を守るためには戦わないといけない。①ときれいに分けることはできないが、例えば『鬼滅の刃 無限列車編』ではそういう動機が裏にはあった。

③これは、敵が最初から「モンスター」という無内容の記号と化しており、それを攻撃することに何ら意味を持たない場合や、①や②の動機を基礎とした社会的に正当性のある動機がある場合(敵国を倒すことが良しとされている場合など)がある。

そしてこうした「言い訳」は、「もう言い訳したからいいよね」というような気軽なものではない。作中で行使される暴力すべてに理由を設ける必要がある。例えば、自分が被害者だとして正当化しただけでは、「敵も実は被害者なのでは」という反論が簡単に想定される。相手も何かを守ろうとしているのかもしれない。こういう反論を踏まえてそれでも自らの快楽を追い求めようと、少年漫画に限らず男性作家の作品は加害性の弁護のため、究極の根拠を求め、設定が複雑化していく傾向にある。

これは作家だけに限らない。もっと一般的にみられる現象である。例えば、ミリタリーマニアがある部分で異常なまでに客観性を重視したりするのは、自らの加害的な欲望と触れているからだ。人を傷つけるならば、理由がなければならない。シビアであらねばならないという圧力が強く働くのだ。少年漫画含め、男性ジェンダーをテーマとした作品では多くの場合、根拠を求める回路が開く。

それだけではない。もうそうした「暴力を行使するなら理由が必要だ」という発想が強く内面化されているため、あまりに理由や動機薄い作品に感情移入することが出来なくなるのである。簡単な動機では自分を騙せない。もし腑抜けた動機を語ったら自分で自分を許せない。そういう内罰的な傾向を持つこともある。ご都合主義は徹底的に排除しなければいいけないのだ。

ここで特に注目してほしいのが、こうした強い内/外罰的感性は、何よりも自らの内からわき上がってくる欲望があるからこそ生まれる欲求なのである。欲求があるからこそ、罪悪感が生まれ、自罰/他罰意識が生まれる。

(ちなみに、こうした動機捏造過程そのもの、もしくはその手前の屈託を作品として昇華してしまうこともある。例えば自らの日常の退屈さや空虚さに対する自意識を語るような作品である。彼らは空虚さそのものに固執して、自らの不全感を戦うことなく解消しようとする。脱力系主人公などと言われることもある。まぁ要は、主人公がうじうじした男であるような作品である)

さて、ここまでで、「退屈からの脱却&強さへの憧れ」という欲望を満たすには、社会的な正当性を纏う必要があることを確認した。暴力を行使する少年漫画もそうした葛藤の上にあるのである。ここまで確認したうえで、『鬼滅の刃』の特殊性――主人公たちが個人的な欲求を持たずに暴力を行使してること――は何を意味しているのか見ていこう。


鬼滅の刃の持つ排除の視線 主人公が優しい理由

先に確認したように、『鬼滅の刃』の主人公の竈門炭治郎も、その兄貴分の煉獄杏寿郎も、どちらも個人的な欲求を持っていない。退屈から逃げ出したいとも思っていないし、強くありたいとも思っていない。

これは、前節までで確認した少年漫画という形式を支えてきた欲望が無いことを意味している。煉獄杏寿郎に至っては、そうした欲求をきっちり言葉で否定している。それなのに、戦っている。

ここには不思議な欲望の空洞がある。先走って、ここで言ってしまえば、女性読者や作者にとって、主人公がこの種の欲望を持っているのはウザいというか、困るのではないだろうか。というか、そもそもこういう感情は理解しがたいのではないか。そして彼女らは少年という表象に何か別に意味を見出したいのであり、こんな余分な心など在って欲しくないのではないか。こう考えると、理解不能な欲望や葛藤なんて少年には最初から無くていいのだ、とでもいうような排除の視線の理由が説明できる。ポルノとして少女を見る際に、その内面の葛藤を不可視化してしまう男性と似ている、と僕は思うが読者はどうだろうか。

また、主人公たち一味は欲望はないくせに、社会的に正しいことだけを言う。しかし、ここに男性作家特有の執拗なまでの他罰/自罰意識は薄く、敵キャラに寄り添うような発言すらする。これも前節の内容を考えれば理由はわかりやすい。

前節で確認したように、自らも憧れているからこそ、惹かれているからこそ、逸脱者は強く罰そう/律しようという意識が働くのだ。そういう欲望が最初からなければ、優しく手を差し伸べることも出来る。

僕は、男性的な欲求を持ち、その加害性に自覚的な人であれば「そういうお前だって、楽しそうに刀振ってたじゃねぇか」という指摘が来ることに怯えて、手を差し伸べることが出来ないのではないか、なんて思ったりする。特に、こういう展開を大勢の人が見る作品として書けるかと言われたら、少なくとも僕はもっと言い訳の数を増やさないと怖くてできない。

そういう展開を描けるし、それを受容できるのは、男性的な欲望が存在しないからではないだろうか。


『鬼滅の刃』の言説① 新しい「男らしさ」

さて、鬼滅の刃をジェンダー的に読み解こうという評論の中には、こうした男性的な欲望の欠如したキャラ造形を「新しい!」と称揚するものがあり、そうした意見に同意する人も多かった。

背景には、「有害な男らしさ」という名のもとに、男性的な欲望、特に「誰かよりも強くありたい、あらねばならない」という欲望を良くないものだとする風潮があるだろう。

例えばこの記事では、そうした文脈の上で、強さへのフェチズムがない『鬼滅の刃』を肯定的に評価しようとしている。

この記事では、『鬼滅の刃』は、強さへのフェチズムだらけの『バガボンド』などの作品とは違い、助力者としての「男らしさ」を描く新しい作品であると評価している。

この評論、実は最初に読んだとき、変な気持ち悪さを感じた。

僕自身は、「強さ」を追い求めて人と競争するのは実は昔から苦手だった。対戦ゲームとかが苦手で、負けたら苦しくなってしまうのはもちろん、勝ったとしても相手のことを考えてしまって、気持ちよく勝利に酔えないことが多かった。僕にとって、強さへの欲望を素直に充足していく周囲の男子は恐怖の対象だった。強さを素直に求める気持ちは僕には薄い。

とはいえ、コンピューターのような人ではない対戦相手とは、いつまでも対戦することが出来た。勝っても相手のことを考えずに済むときは、強くなることをそれなりに楽しんでいたと思う。しかしそれもほんのちょっとだけで、それに固執することなんてなかった。CPUの最高レベルに勝つまで強くなろうとしたりはあんまりなかった。

したがって、僕の立場は「人並程度には強さへの欲望はあるが、忌避観も強くあり、近年の「有害な男らしさ」を否定する文脈に大きく反対するつもりはない」というようなものだ。

だからこそ(表立っては表明していないが)この記事がほのめかす政治的主張には普段なら同意するのだ。しかし、何だろう、だとしてもこのような「男らしさ」の言説を、僕は受け入れる気にならない。「そうじゃないんだよな……」みたいな感情を抱いていた。

1年くらい考えて、そこには二つの要素が無視されていたと感じた。片方は、アンチフェミニズム領域で「男らしさ2.0」という言葉とともに言われている問題だ。これはすぐに気が付いた。まんまだからだ。しかし、もう一つはしばらくかかった。そして「僕は強さへの忌避観があるのに、助力者としての男らしさに満足できそうにない」と思ってしまうことに気づいた。

前者については、のちに別の論点(『鬼滅の刃』がもつ努力主義について)と交えて語ろうと思う。

次節では順番を入れ替えて、後者についての考察をしようと思う。強さへの欲望こそが少年漫画の成長という形式を支えてきたはず。しかし、なぜ強さへの忌避観があっても、僕は剣をもって戦うことにあこがれるのか。少年はなぜナイフを携えるのか。一つの仮説を提示する。


そもそも、どうして少年は戦うのか【再論】――剣の重みへの恍惚、そして破壊衝動

最初に告白すべきだったかもしれないが、実は僕は少年ジャンプが嫌いである。ここで連載されている作品にハマったためしがない。(鬼滅の刃も、主人公が優しいから僕でもイケるかなと思ってアニメを見てみたのだが、駄目だった)

先ほど書いたように、努力して相手より上回ろうとするような競争や成長を重視する作品が、基本的に苦手なのである。みんなで協力するようなゲームとか、うじうじと成長せずに停滞するような作品を僕は好んできた。

では僕は少年向けの作品群にハマったことがないかといえばそうではない。あまりにミーハーなので少し恥ずかしいが、『ソードアート・オンライン』と『進撃の巨人』には大きく影響を受けた。

この両者に共通することは、「強くなる」や「成長する」という社会的/規範的な欲望以前のものを重視していることだ。

僕くらいの年齢(二十歳くらい)だと、中学生くらいでソードアート・オンラインにハマった人も多いのではないかと思う。この作品はご都合主義的だと指摘されることがあるが、僕は別にそのこと自体はどうでもいいと思っている。この作品は優れて、男性性がもつある種の感情を抉り出している。

要は、剣を振り回すという肉体的な欲求を重視しているのだ。

『ソードアート・オンライン』は、主人公の少年キリトが、ソードアート・オンラインというVRゲームの中に囚われてしまい、そこから脱出するために剣を振るう物語だ。

この作品は主人公の成長がゲームのレベルという数値に置き換えられているせいか、成長譚としての側面がすごく弱い。少年漫画の形式をライトノベルであるこの作品と照らし合わせるのなら、二つの欲望の内の一つである「強さへの欲望」が薄い。では、何があるのか。

ハーレム要素や、トロフィーヒロイン的な要素もある。それも確かに多くの(男性)読者に受け入れられたところだろう。しかし、それだけではない。この作品が優れて持っているもの。それは剣を振り回すという快楽がもつ、欲望よりももっと肉体的で、非言語的なもの。社会性と対立し得る素朴なもの。あえて言うなら、欲動だろう。

それはまるで、雨の日にもって行った傘を、剣に見立ててグッと握りこむときの力のかかり具合。それをぶんと横に一閃したときに腕にかかる重さ。全身に広がる筋肉の緊張。全身のエネルギーを、剣に込めて放出するかのような恍惚。

『ソードアート・オンライン』はこうした肉体的な感覚をソードスキルという極めて秀逸な設定により盛り込んでいる。

それは『進撃の巨人』もそうだ。この作品も、強くなり、成長することを重視する成長譚ではない。(かといって、精神的成長がないわけではないが) それよりも、恨みや絶望、夢といった感情のエネルギーのようなもの――エネルギー自体は何でもいい。適度な重さと緊張感を全身に伝えるものであれば――を右ストレートに載せて思いっきり振りぬく快楽、思いっきり咆哮する快楽、何かを思いっきり”壁”に、叩きつけ、破壊したいという非言語的な肉体的な快楽が中心にあると僕は思う。(というか、『進撃の巨人』という作品そのものがそういう風に、社会に何かを叩きつけること、何かを傷つけることを目的としていると感じる)

そして僕は、少々安易な整理ではあると思うが、少年漫画という形式の根幹にあるのは、欲望ではなく、こうした欲動なのではないかと思っている。

まず、欲動があり、それが社会化され「強さへの欲望」という形態をとり、それを正当化するために言い訳が複雑化していく。フィードバックループなどを想定しない、もっとも単純なモデルを考えればこういうことなのではないか。つまり、納得できる理屈を、全身の隅々までいきわたらせ、ググっと溜め込み、その後にエネルギーを相手をぶつけてぶっ飛ばしたいのである。その欲動が具体化される際に、何らかの欲望という形態をとるだけではないだろうか。

この観点から考えれば、先ほどの記事は強さへのフェチズム(欲動)を特に冷静に考察することなく、ぽーいと捨てて「助力者」としての欲望を重視しているように思えるのだ。

この記事は、端的に、なぜこんなにバトル物の作品が多いのかということ。そういう当たり前の事実を見逃してはいないか。欲動という肉体的な次元があり、簡単に欲望を継げかえることは出来ないということを忘れていないか。

あの記事では

つまり、炭治郎のキャラクターは、『バガボンド』的な行き詰まりを越えて、なおかつ主人公が強くなり続ける少年漫画的プロットを成立させるために、助力者男性の系譜を接ぎ木した結果出来上がったと言うことができる。

とするが、その少年漫画的プロットの背景にある、退屈への嫌悪や強さへの欲望の裏に、剣という欲動や破壊したいという欲動があったということを忘れてはいないか。

世間一般では、欲望は簡単に捨てることが出来ると思われている。しかし、欲動はどうか?

何故僕は助力者などやっていられなかったのか。そこに魅力を感じなかったのか。簡単だ。他人に剣を渡して自分は後方に控えているなんて我慢できなかったのだ。剣を渡されたらぶんぶんとその場で振り回したくなるのだ。

『ソードアート・オンライン』の敵キャラ、萱場明彦はいいことを言っている。「他人のやっているRPGを傍から眺めるほど詰まらないものはない」

小学校でサッカーをやれば、男子はフォワードをやりたがる傾向にある。もちろん、そこには人より上に立ちたいというような欲望もあるだろう。しかし、それ以前にボールを思いっきりシュートして、ゴールに入れることが気持ちいいということを忘れて、欲望の次元で語ってもしょうがない。実際、僕は特に誰と競争するわけでもなく、ただサッカーボールを壁打ちしているだけで楽しかった。両腕を緩やかに回しながら徐々にスピードを上げて踏み込み、右足でボールを捉えて、思いっきり振りぬく。足に掛かる重さと衝撃。顎の筋肉に緊張が走り、ぐっとかみしめる。社会的な欲望はそうした欲動と結びついて発展していくものだ。根本にある欲動を無視し、欲望だけが独立して存在していると捉えるのはおかしい。

欲動を無視し、人に「助力者は素晴らしいから、君も助力者になれ」と言うことは、木に対して「そこに生えてないでこっちの誰の迷惑にもならないところに生えろ」というようなものだ。根っこは簡単には動かない。

確かに僕は欲望としての強さは嫌いだ。しかし剣という欲動や破壊したいという欲動はある。だから、「旧来的な男らしさが嫌いなら、鬼滅の刃は嫌いじゃないよねー」と軽く同意を求められて『バガボンド』を欲望の次元で切り捨てられ「助力者」が称揚される時、あるいは剣を思いっきり振るという欲動が脱臭されている『鬼滅の刃』という作品を見たときに、丸め込まれたかのような居心地の悪さを感じたのだ。

最後に、一応指摘しておけば、「助力者」としての男らしさが全くダメと言っているのではない。誰かを支えることが大嫌いで、いつでも前に前に飛び出したいわけではない。人を支えることに、喜びを感じることもある。

しかし、ことバトル物の娯楽に関していえば、話が変わる。バトル物の作品には必ず欲動がある。そしてその欲動は欲望として昇華されたがっている。いろいろな作家がいて、それを安易によくある欲望として昇華する人もいれば、ぐっとこらえて迂回路を探す人もいるだろう。少年漫画はそういう試行錯誤の場であり、切実な思いを賭けている人がいた場でもあったはずだ。それを、最初からなかったことにしてはいけないと思う。欲動に光を当ててほしい。(余談だが、助力者をやりたいなら、現代を舞台にしたヒューマンドラマとかのほうがあっているのでは?なんて思ったりする)


『鬼滅の刃』の言説② 過酷な世界と努力主義

さて、前節で『鬼滅の刃』が「新時代の男らしさを描いている」と称揚された際に忘れ去られた「欲動」について考察した。

しかし、この作品は、「新しい男らしさを提示している」として評価を受けただけではない。その過酷な世界観も魅力だと分析されてきた。

例えばこの記事。

https://imidas.jp/jijikaitai/l-40-279-20-10-g823

この記事では、『鬼滅の刃』の特徴として凄惨な世界観を上げている。そしてその世界観とセットに語られる「努力はどれだけしても足りないんだよ」という、諦観を含んだ努力主義を指摘している。

この記事はそうしたものを無批判に称揚しているわけではないが、この作品の努力主義についてうまく書かれているのでまだ読んでいない方がいたらぜひ読んでほしい。

さて、僕は『鬼滅の刃』の「努力し続けないと、駄目だよ」というような価値観が苦手である。そういうのに疲れてしまう。

最初に『鬼滅の刃』を見たときも「こんなのが世界中でヒットしているって、うっそだろ……」と絶望したのを覚えている。

そしてこういう過酷な世界観を結びついた努力主義は「鬼滅の刃に学ぶ!!折れない心!」というようなキャッチフレーズとともに、ゆるやかに広まっている。

(『鬼滅の刃』好きな息子に対して「〇〇君は炭治郎なんだから、このくらい耐えられるよね、とか言いながら注射を我慢させる親がいるとかなんとか……恐ろしい……)

ただ、こういう過酷な世界でも生きていこうという作品はほかにもあった。例えば『進撃の巨人』は努力主義はないにせよ、過酷な世界という意味では同じだった。しかし、僕はこの二つの内、『鬼滅の刃』の努力主義は何かうまく呑み込めない。なぜだろう。

『進撃の巨人』の過酷さは、それでも追い求めたい自由というものとセットで語られている。自らの夢を阻むものがどんなに大きくとも、立ち向かえ。「自己実現と過酷さ」。高いリアリズムの中に、そういう要素がどこかにある。

一方で、『鬼滅の刃』の主人公の竈門炭治郎には夢がない。妹を元に戻すために自分の人生を棚に上げて何年も特訓できるやつである。例えば主人公には夢があり、それが妹の鬼化によって中断されてしまった、というような展開にはならない。もし難病モノなら、病気の家族のためにやりたいことを抑圧して献身的なケアを続け、それを周囲に心配される主人公というのはよくある展開だが、この主人公、そんなことにはならない。最初からそんな欲望はないかのようだ。超人的な無私さである。

そして、この無私さと結びついた努力主義は嫌なものを連想させる。旧来の男らしさである。


『鬼滅の刃』の「旧来の男らしさ」との内容的一致

ここでいう旧来の男らしさとは、よくフェミニズムで問題になる「有害な男らしさ」とは少し視点が違う。(一応)男性である僕から見て、嫌だなと感じる男らしさのことだ。

要は「男は、寡黙であれ。女・子どもを守り、死ぬまで戦え」とでも言うような、自分の欲求を一切封じ、誰かのために尽くして生きることをよしとする価値観である。

僕は人生で初めてこういう価値観と触れたとき「馬鹿なのか?」と思ったが、どうやらある程度より上の男性たちは素でこう思っているようだ。

女性は家庭にいるべきだという一見すると意味不明な主張の背景にも、こういう理屈があるらしい。曰く、仕事などというあんな過酷な世界に女性を入れてはいけない。家庭は穏やかな団らんの場としてあればいい。子供もそういう団らんの中でこそ育つ。傷つくのは自分だけで十分だ。そういう理屈だ。

『鬼滅の刃』はこうした女性の社会進出を否定する形態はとらないが、しかし滅私奉公的な「旧来的男らしさ」には通ずるものがある気がする。なぜなら、最初から私的な欲望、欲動が不可視化されているからだ。過酷な世界。守るべきものは家庭だけ。私的な欲望はない。こんな状況で努力をするというのは、内容的には「旧来的男らしさ」と同じだ。

こうした価値観への反発から、Twitterでは「鬼滅の刃は小中学生に男の責任たるものをインストールさせるマッチョ思想的漫画」として批判されたりもした。

唯一違うことがあるとすれば、「旧来的男らしさ」にある、諦観のようなものが無いことである。『鬼滅の刃』には自分の自己実現を追いかけてはだめだと自分の感情を切り捨てる、勢いのようなもの――セリフにすれば「自分の夢も追いかけたい、でも……でも……、こんなことばっかり考えてはだめだ。もう絶対考えないようにしないと!」というような、自分に言い聞かせる必死さが無いのである。実際、「旧来的男らしさ」を語る男性の中には「若いころは自分の夢を追いかけていたけど、途中で妻を守るために人生をささげることが大事だと気付いたんだ」と、価値観の変遷を語る人もいる。『鬼滅の刃』には最初から、そういうものはない。

現実には、こういう「自分を捨てて、誰かに尽くす」というのには痛みが伴う。だから、男性たちが現実の中で生み出してきた「旧来の男らしさ」をよく観察すれば、痛みをどう誤魔化したのかを読み取ることが出来る。しかしフィクションでは、こうした痛みを脱臭することも可能だ。そして、その痛みが無視された表現に反発を覚える人も当然いるだろう。

上のtogetterでも話題になっていた「男なら!」とか「長男だから」というセリフも、作品のイデオロギーを示しているわけじゃないのかもしれないけど、こういうセリフが嫌だ!という人に向かって(女性)ファンが「大正時代なので(笑)」とか答えているのを見ると、ああこの人たちは、男性や少年がもっている葛藤や苦しみみたいなものは無いことにしたいんだなと思う。(何度も言うが、ポルノと同じである)

では、なぜこのように過度に無私さを求めるのか。

実は、『鬼滅の刃』以外の文脈でも、男性の内的な葛藤を不可視化する視線が一部の人から批判されている。

そして内的な葛藤が不可視されているのは、女性から見て都合の良い男性像になるように男らしさが再構成されているからだとする言説が、主にアンチフェミニズム界隈で流行っている。そうした押し付けられた「新しい男らしさ」は「男らしさ2.0」という言葉で語られている。それも触れておこう。


男らしさ2.0=無私+家父長制 しかし、何故?

男らしさ2.0というのは、この記事で話題になった言説である。

この記事の

いまジェンダー論者やフェミニストが草食男子に要求しているのは、女性にとって不利な社会構造を解消するための、女性に心地よい形にアップデートされた「新たな男らしさ」――いわば「男らしさ2.0」を身につけろというものだ。

という部分で、男らしさ2.0の定義はなされている。実際には男らしさ2.0言葉は単にこの定義だけにとどまらず、「女性にとって都合の良い男性像」というような広い意味でも使われている。今回の『鬼滅の刃』で使うのは、後者のふわっとした言葉だ。

『鬼滅の刃』の少年像がどういう風に都合がいいかといえば、女性的な目線にとって消費しやすい、ということだ。後述する欲望をぶつけるにあたって、対象となる少年像は想定から大きく逸脱する欲望や欲動を持っていてはならないのだろう。だから、邪魔な内面を排除しているのだ。

では、その少年にぶつけたい欲望とは何か。

ここからは、かなり適当な考察になる。なんでかというと、僕には女性的な欲望や欲動がよくわからないからだ。

一応僕の考えを披露しておくと、『鬼滅の刃』とくに無限列車編で語られているのは、大きなものに包まれているというような欲動であり、そして何かが自分の命令に忠実に行動する(それこそ死ぬまで戦い抜く)という欲動(ここまで社会的なものは欲望かもしれない)ではないかと思っている。(正直、後者の欲望にはドン引きする)

前者は「煉獄さん、かっこいい!」とうやつであり、後者は「最後までお母さんの言うことに忠実に戦って尊い!」というようなやつだろうか。

このブログ記事では、煉獄は「最強の柱」などではなく、その本質は「最強の息子」だとし、それが女性人気が出た理由であると分析している。僕の考察の後者にあたる。

(ちなみに、このブログでは「遊郭編では最強の彼氏像が来る」としている。僕的には「うげぇ、マジかよ。こんなんがまだ続くのかよ」という感じである)

ただ、この辺に関しては当人たちの言葉を聞かないと何とも言えない。本当にそういう欲動が存在するのかわからない。したがって、解釈はこの辺にして置こう。

とは言え、女性たちが何らかの欲望や欲動を見出しているのは間違いないだろう。そして、その欲望や欲動をぶつけるその裏で、男性的な欲望や欲動が不可視化されているという構造があるのは、大きく外れていない気がする。


フェミニズムは男性の欲動に共感しない 無視したことにも気づかない

僕は最初はこういう女性的な欲望の視線で「少年」を消費することに対して、フェミニズムは敏感に反応し、自浄するだろうなと期待していた。しかし、ふたを開けてみれば、特にそういう自己批判的な運動は起こらなかった。

ただ、立ち止まって冷静に考えれば、フェミニズムは主に「女性にとって有害な男らしさ」をどうにかしようと思って戦ってきたのであり、「自らの欲望が誰かを傷つけているかもしれない」ということを気にして発展してきた運動ではない。自浄作用の強い運動では最初から無いのだ。こちらが「嫌だ!」と言わなければ、彼女らだって気が付かないのである。こんな当たり前のことをどうして気づかなかったのか。

自分の弱さや辛さをきちんと語る必要がある。誰かが代わりに語ってなどくれないのである。


フェミニズムへの敬意と僕の傷

上で確認した通り、少年漫画はいろいろな葛藤を抱えて、それでも捨てられない欲動や欲望を織り交ぜて語られてきた。

そうした系譜が、女性的な目線の中に回収されていく恐ろしさを今僕は感じている。居場所だったのに。矛盾もあったけど、加害性もあったけど、そこでいろいろ悩んできたのに。

そういうことを考えると、「何をしても男性の目線の中に回収されていく」という世界に楔を打ち込もうとしてきたフェミニズムに敬意がわく。「こんなものと戦ってきたのか……」と。

やはり、男性学が必要だと思う。しかし、それは単に男性の欲望をポリコレに合わせるように変形しようとするものではだめだ。本稿は「少年漫画」についてだったが、ここにあったのは男性たちが少年漫画に仮託してきた、欲動と欲望の系譜である。僕たちは何にこだわっているのか。それを外部の人間に勝手に「解決」されないための豊かな語りが必要だ。

僕は一連の「鬼滅ブーム」の中で、こうした系譜を不可視化しする視線を向けられ、一方的な欲望や欲動をぶつけられ、お前も新しい男らしさに乗れ!とでもいうように煽られて傷ついた。

昨今、少年漫画を消費する女性が増えてきたようだ。いい感じに欲望をぶつけられるものが見つかったのか、爆発的にヒットしている。(男性向けポルノ市場がそれなりの規模であることと、何らかの対応がある気がする……)

出版社としてもありがたいことだろう。失礼を承知で言おう。「女性オタクはよく金を落とす」 女性受けがヒットの秘訣となりつつある。しかしだからこそ言いたい。

「都合よく少年を利用するな!! スナック菓子のように消費するな!! お前らにはわからない葛藤があるんだ!! そこに託してきたものがあるんだ!! かっこいい!だの、尊い!だの言ってんじゃねぇ!! お前らがやっていることは新天地を見つけて現地人を虐殺or同化してんのと変わらないんだよ!! やるなら、そういう欲望を吐き出してもいいところでやってくれ!!!!!!」

もちろん、こんなこと言ったところで、「少女を性的に加害的な目線から守るのは当然だが、少年の欲望を不可視化する視線は別にいいでしょ」という社会的コンセンサスは消えないだろう。そもそも「”少年”って、別に男だけのモノじゃねぇし」って言われたらそれまでだ。(”少女”は、女だけのモノじゃねぇしとか言ったら炎上しそうなのにね)

もう怖くて見ていないが、『呪術廻戦』、最近じゃ『東京リベンジャーズ』っていう漫画も標的に会っているらしい。もうしょうがないのかな、と思ったりもする。

僕は作品を作るプロでもない。決して上品な読者でもない。でも、決して『鬼滅の刃』のネガティブキャンペーンをしたいわけじゃない。だから映画の公開が終わるまで待った。安易な言葉を語りたくなかったから、一年くらい考え込んだ。

女性的な目線で「少年」を消費している人たちだって、別に悪意があるわけではない。彼女らは新天地を見つけ、無邪気に、まるで観光地を歩くかのように楽しんでいるだけだ。しかし、その目線が、僕には辛かった。焦った。苦しかった。

『鬼滅の刃』は傑作だと思う。しかし、傑作が塗りつぶしていくものもある。だから、どうしても言いたかった。



……本稿を読んでも何の解決にもならない。しかし、僕は自分なりに分析出来て満足している。

『鬼滅の刃』に傷ついた人の語る記事として、他にはない要素を入れたと自分では思っている。最初本稿を作るときは「男らしさ2.0」の話題を多く入れたものになると思った。しかしそういうことはもう他の人が豊かな言葉で指摘してくれている。なら、私はそれだけではなく、語り落されがちな「欲動的なもの」というタームとともに、「男性」に対する女性の選別ではなくて、「少年」に込められた思いと、その大切な居場所が奪われる恐怖を書こうと思った。

この記事が、誰かの言葉にならない辛さを掘り起こす助けになったのなら幸いだ。

『鬼滅の刃』が好きな人。どうか、進むのならこの僕の全力の否定を超えていってほしい。あなたの欲望を僕は否定する。その否定を初めから無かったことにせず、潜り抜けてほしい。



※脊髄反射的に恨みつらみを書くより、じっくり考えてから公開しようと思って一年くらい待ってから公開したのだが、今日からテレビアニメ版の放送らしい。不思議な偶然もあったもんだ。



蛇足 最後に作者への共感

『鬼滅の刃』の作者・吾峠呼世晴氏はどうも、作品を作り急いでいる気がする。ここまで人気なら、もっと引き延ばしてもいいはずだ。作家としての才能もある。人を引き込む力もある。それがたとえ、僕らの持っていた語りを上から塗りつぶし、変質させる怖いものだとしても。

この作家はどうしてこんなにも描き急いでいるのだろう。どうしてこの内容を描かないといけないのだろう。理由はわからない。しかし、これは個人的な推測で、しかもアニメ版と作品を取り巻く言説を見ての推測だが、自分が憧れたモノへの距離が遠いことを、本人がわかっていたのではないか。まるで、何か別の場所に”お邪魔している”かのような焦りを、僕は感じた。うがちすぎだと思うけれど。例えば、吾峠呼氏が「こういうの、少年漫画っぽくないよね」と主人公が敵キャラに寄り添うシーンを消そうとしたと聞いた。これは、そういうことではないだろうか。

もちろん、こんな一言で作家への印象が変わってもしょうがないし、そもそも絶対的に相容れない部分もある。努力への心理的抵抗を軽視して書くこと。内的葛藤を描かずに、素直さが消費されることを前提としていること。これだけは絶対に許せない。しかしこれは僕の個人的な感情だ。そして、そういうのも吾峠呼世晴氏は分かっていた気がする。だとしても、書かないとイケなかった。そういう鬼気迫るものを感じる。

この作家の作風には、自分の屈託や欲望を下手したら提示することが出来ないというような、まるでそういう不可視化要請でも突きつけられているかのような、焦りと葛藤もある気がする。場違いな場所に出向いたとしても、やらなきゃいけないんだ、とでもいうような。

なぜこの作家はこんなにさらりと、書きたいことだけを書こうと思ったのか。倫理観や自意識が小さい人だとは思えない。しかし本編の中に韜晦がほとんどない。これはすごいことだ。

この作品が誰かを傷つけることに気が付いていなかったとは思えない。基本的に優しい人だと思う。節々からそれを感じる。それでも、これだけは描き切らねばという、「たとえ自分の言いたいこと全部じゃなかったとしても、せめて、これだけでも書かねば」とでもいうような、焦りと決意を感じる。

そう考えると、あんまり作者を非難する気にはならない。とはいえ、作品は作品だけで見るのが礼儀だろう(実はこういう礼儀もいまいちピンとこないのだが)。こういうのは蛇足というものだろう。





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