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退院前夜の呟き 2022年 10月

長かったようで短かった閉鎖病棟生活も終わりがやってきた。3ヶ月。私はこの期間の中で様々なことを感じた。刺激の少ない閉鎖病棟の中でもやはり気づきというものは存在するのだ。
今回は入院生活の中で感じたことについて少し書き記してみようと思う。
入院の経緯を知りたい人は「止まった夏」をご参照あれ。

入院の序盤、私は怒り狂っていた。「私をこんな目に遭わせたやつは絶対に許さない」と心に誓っていた。保護室にいた数日間はロクにご飯も食べず怒りと後悔に心を費やしていた。何もない部屋でただしゃがんで思考ばかりする時間はただただ虚しかった、と今になっては思う。けれど当時は本気で怒りと後悔に心を使っていたので特段何も感じていなかった。相当精神が参っていたのだろう。ちなみに風呂に5日程入れておらず髪はボサボサで姿は狂人のソレだった。
心の輪郭がはっきりとし始めたのは保護室で看護師さんに諭されながらひやむぎを食べたあたりだった気がする。あの時のひやむぎの麺の白さとかき揚げの香ばしさは忘れられない。すごく美味しかった。久々の食事だったからだろうか。いやわたしにとってあのひやむぎはそれ以上の意味があった気がする。
数日間の保護室生活の後私は一般病室に移された。自由があって心地が良かった。しかし措置入院だったため自由に売店や散歩に行くことができない。それは退屈だった。一日中病棟にいる日々に飽き飽きしていたし、そもそも20代の夏をこんなシケた閉鎖病棟で過ごすなんてもったいないと思った。だから時折カッとなって主治医相手に喧嘩をふっかけたこともあった。(うまいように言いくるめられて終わりだったが)イライラすると主治医の前で水を一気に2L飲んでお腹をタプタプにする謎の行動までしていた。そのくらい入院初期は自分が閉鎖病棟に押し込められているという事実が受け入れ難かったのだ。
しかし慣れというものは非常に恐ろしいもので3週間ほどすると閉鎖病棟での生活に順応していった。毎日ICE BOX(氷菓)とペプシ・コーラを看護師さんに頼んで売店で買ってきてもらいおやつとして食べる毎日。暇になったらアニメやYou Tube・Twitterを徘徊する毎日。それが私の中での当たり前になっていった。それからは主治医に喧嘩をふっかけることはなくなり”コイツは大丈夫だぞ”と判断されたのか1ヶ月続いた措置入院が解除になり医療保護入院になった。

措置入院が解除されたのと同時に病棟移動になった。最初に入れられていた病棟は深夜救急受け入れもしている病棟だったのだがそこから前回入院していた馴染みのある病棟へ。やはり前回3ヶ月居ただけあって居心地がいい。措置入院が解除されたのだから散歩や売店に行けると喜んでいたのだが、コロナの影響で病棟スタッフの人数が激減しているため散歩や売店に付き添えないとのことで私は再び病棟内軟禁生活に。この時はひたすら銀魂を観ていた。時折窓から外の景色を見た。緑が青々としていて蝉がうるさいくらいに鳴いていてとてもとても夏だった。けれども特に何も変化が起きることなく8 月が残酷に過ぎていった。

9月に入り私に意外な依頼がやってきた。母校に出向いて大学に関して高校生に講演をしてほしいという依頼が校長直々に届いた。私は卒業以来母校に出向いていなかったためこれは願ってもいないチャンスだと思い、主治医に外出の許可を取った。プレゼン資料は勿論のことメイク道具や洋服も準備し来る日に備えた。しかし心には一点の曇があった。私は現在大学を休学中でそれについて母校の先生方から聞かれたらどうしようと。休学に引け目を感じていた。そんななかで迎えた当日、朝部屋に主治医がやってきた。やってきた理由は”コンサータを持っていくか”。私は鈍った頭の回転を早くして講演やその他のコミュニケーションに臨みたいから是非コンサータを持って行きたかった。しかし主治医は反対している様だった。(直接的には言わないが)主治医は私に聞いた。
「なぜコンサータを持っていきたいのか」
と。私は
「万全な状態で講演したいし周囲の人と話したいからです」
と答えた。
「周囲の人とうまく話せないと思うの?今私とこんなに普通に話してるのに?」
と主治医は聞く。
「不意打ちな質問されたら困るじゃないですか」
と私は答える。
「聞かれたくないことあるんか!」
と主治医は言う。
「…休学のこととか」
小さな声で答えた。
「今、あなたは何してる?」
突然主治医は尋ねた。
「何って、、何もしてないですけど、、」
と言った。
「昨日も一昨日も私と話して感情と向き合っていたよね。それはなんのため?」
と主治医は言う。
「…え?治療のため?今、私は病気を治している?」
自信なげに言う。
するともう病棟をでなければいけない時刻になっていた。結局コンサータを持っていくか否かは決まらないままに部屋を出た。ナースステーションの前で頓服の薬やらを渡される。最後に「コンサータはどうする?」と主治医が再び尋ねた。私は「持っていきます」ときっぱり伝えた。
主治医は玄関先まで私を見送ってくれた。途中私にこんな言葉を託してくれた。
「今、あなたは人生を見つめ直しているんだと思うの。でね、人生を見つめ直すのってすごく重要で、人生を見つめ直した人のほうが魅力的で力を秘めてると思う。精神科だからかな、分からないけれど留年とか休学とかして人生見つめ直してきた先生が医局長になってたり、研修医の先生でもうちの病院来てほしいって思う人ほど留年休学してる。だから、ね」
その言葉に私は救われた。休学していることこうして閉鎖病棟に入院していること全てを引け目に感じていたがその重荷が急に軽くなった。
「じゃあ、行ってきます」
軽い足取りで病院から出発した。
母校での講演は練習通りうまくいった。久々に満ち足りた気持ちになった。
持っていったコンサータは鞄の中で息を潜めたままだった。

母校での講演の翌週は元から予定していた二泊三日の外泊があった。
内容としては美容院に行ったり後輩に会ったりといったちょっとした息抜きだった。
外泊1日目と2日目はうまくいった。しかし3日目は心のどんよりとした塊が私を制圧してしまった。病院に戻りたくなくなり自傷や飲酒欲求が高まった。そこで私は部屋の中で気の赴くままに服や床が汚れることなど気にせず腕を切り刻んだ。気付くとあたり一面血の海で服も血まみれだった。そして部屋には空になったチューハイの缶。荒れ果てていた。まるで入院前の私の部屋そのものだった。異変に気づいた両親が部屋に来て血を拭き私を病院まで連れて行った。病院に行くまでの道中でも私は酒を煽っていた。
病院に着いてから傷の手当をされ部屋に戻された。

このあたりから私に変化が起き始める。太ることが極端に怖くなったのだ。だから水は飲めないし食べ物も食べられないという状態に陥った。今までは病院食完食が当たり前だった自分がこんな風になるとは思ってもみなかった。
水が飲めないため点滴で水分補給する日々が始まった。最近の点滴はすごいもので機械が滴下速度をコントロールしたり異常を検知すると知らせてくれるのだ。
食べ物が食べられなくなって1週間ほどした日夜トイレに起きるとなんだかふらつく。気のせいだと思って用を足し部屋に戻ろうとすると世界が逆転した。頭が床に打ちつき衝撃が走る。点滴棒も倒れる。いやいや、おかしい、私は立っていたはずだ、と思い立ち上がる。すると再び「ガッシャーン」という音と共に世界が逆転する。点滴の機械の警告音が鳴る。看護師さんが音に気づき駆け寄って来る。運のいいことにトイレの目の前の部屋だったため命からがらベッドに横たわる。しかし猛烈な吐き気が私を襲う。吐く物など胃に入っていないのに。意識を失うように眠った。朝になった。もう一度トイレに行こうと今度は看護師さん同伴でトイレに向かう。しかし突然意識が無くなり尻もちをついてしまった。こんなことではトイレどころの騒ぎではないと思いトイレは断念した。
翌日はお風呂の日だった。体調も良くなっていたため大丈夫だろうと思い点滴を中断しお風呂に入る。無事風呂から上がり着替えが済むと視界がグラグラ揺れる。立っていられない。やっとの思いで椅子に腰掛けるが吐き気が襲ってくる。異変に気づいた看護師さんが点滴を再開しようと輸液を持ってくるがなんと穴がふさがってしまうという事態に。フラフラになりながら部屋に戻り点滴を刺し直し横になり事なきを得た。

ものが食べられなくなって2週間ほど経つと遂に主治医から鼻から管を入れて栄養をいれることを宣告される。しかし恐ろしくなってネットで調べるとすごく違和感があって辛いらしい。嫌なので食事にジュースを付けてもらってそれを飲めたら鼻から管をナシにしてもらえるよう頼みこみ了承をもらう。
そんな時馴染みの看護師さん(Jさん 「心に寂しさをー入院手記ー」参照)https://note.com/pon__pppon/n/nef4bb1e4ca76がやってくる。

「食事に付くジュース(メイバランスという)こんなのだよ〜」
と言って試し飲みさせてくれた。私が飲んだのはコーンスープ味だった。久しぶりに栄養のあるものを摂った気がした。たった125mlだけれどその時の私は飲み終えるのに3時間程有した。
飲み終えた時Jさんは
「偉い!!やっぱできる子だ!!」
と言って褒めてくれた。

Jさんともたくさん話をした。Jさんがいる日は必ず部屋に来ておしゃべりをしてくれた。アニメの話や今後についての話など。Jさんはよく言っていた。
「絶対、無理するじゃん。それでまた疲れちゃう」
私も退院後それが心配だった。無理をしてメンタル不調を起こしてまた酒浸り薬浸りの日々になってしまうことが。
「初めのうちは頼れる先を過剰なくらいもっときなさい」
とも言われた。だから訪問看護等をもっと活用していこうと思った。
ちなみにJさんは点滴を刺すのも採血も病棟で一番上手だった。更に夜勤の日は布団をかけ直してくれていたらしい。

急性期病棟に居られるのは3ヶ月と決まっている。だから退院について父親と主治医とで話し合う機会が設けられた。
父親は
「食べられるようにならないと退院しないでくれ」
と言ってきて
主治医は
「それなら慢性期病棟…ちょっとうるさいけど…そこに入院かな」
と言ってきた。
私は絶体絶命の危機に瀕していた。気持ちとしては食べたくない。しかし食べないと慢性期病棟に入れられる。
次の日私は意を決して食べ物を口にした。
これで一応は許されるだろう程度の量だけは頑張ってみた。
水もできる限り飲んだ。(点滴をしすぎて点滴を刺す血管がもう無いという事態に陥っていたからもある)
そんなこんなで退院までこぎつけたのであった。


振り返れば激動の3ヶ月であった。警察に保護され措置入院し保護室に入り夏を無駄にし母校に出向き外泊で酒浸り&自傷をし、飲まず食わずになるなんて展開は誰も予想しなかっただろう。予想しなかった展開ではあるが私は生きていてこうして文章を書いている。非常に不思議なものだ。
きっと退院した後も予想のつかないことばかりが起こるだろう。けれども私は生きていこう。と今現在は思っている。



私の文章、朗読、なにか響くものがございましたらよろしくお願いします。