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心に寂しさを ー入院手記ー

「寂しい」こんな感情いつぶりだっただろうか。
胸が締め付けられるような、それでいて胸から何かせせり上がってくるような、けれど胸の中は空洞であるような、そんな感覚。
ふと目の力を緩めれば涙が零れ落ちそうな、目の前が霞んでしまいそうな、そんな感覚。
私はそんなやわな女じゃないと自分に言い聞かせ手をぐっと握る。
歯を食いしばる。
けれどなぜだろう、胸はざわめき頬には冷たい雫がつたう。
心が揺れたのだった。


私がこんな感情になったのには理由がある。
それはこの閉鎖病棟という場所に長く身を置きすぎてしまったからだ。

長く一定の場に留まると情が移る。
故に私は一定の場所に留まることがあまり好きではない。
その場を離れることになった時の心のざわめきが大きすぎて途方に暮れてしまうのだ。

私は基本的に誰かと親密になるということはない。
親密になると先ほどと同様に情が移り心のざわめきが大きくなるからだ。
加えて人というのはどうにも信用ならない。
信用して相手に寄りかかると突然突き飛ばしてくるかもしてないし、近づくと相手の嫌な部分まで見えてしまうからだ。
けれど3ヶ月という入院期間のなかで誰とも親密にならないというのは難しいことだった。

看護師のJさんという人がいた。
彼女は入院した初期からやけに私に話しかけてきた。
初めは警戒して話しかけられても愛想笑いを浮かべてするりするりと部屋に戻っていた。
すると次は部屋に「こんにちはー!」とやってくるようになったのだ。
初めは困惑していたし『距離感近いな』と思っていた。
しかし追い返すわけにはいかないので少し雑談をするようになった。
困惑しながらも雑談をする日々が続くと、段々と私の警戒心が緩んでいった。
警戒心が緩み始めると次はその雑談が楽しくなって笑うようになっていった。
いつしかJさんが部屋にやってくるのが楽しみになっていったのだ。
「元気にしてる?」「今日は何してたの?」程度の会話しかしていないのだがその何気ない会話の繋がりが、繋がりを持つことを拒んでいた私には目映くて暖かくて心にそっとしまっておきたくなるようなものだった。

Jさんが病院にいる日はおしゃべりをする、そんな日々が二ヶ月ほど続いた。

外泊を当日に控えたある日のことだった。
悲しいことがあった。とてもとても悲しいこと。
それは私が今までに経験したことがないくらいに悲痛なことだった。
家にいるのなら悲しいこと苦しいことがあった時は、度数の高いお酒と煙草を片手についでに薬を目の前にそれらを一気に身体にねじ込んで、剃刀で腕に赤い線を描いて気分を紛らわして現実から目を背けるのだったが、病院には酒もなければ煙草もないし剃刀もない。
私は悲しみを持て余してしまった。
この薄暗く冷たい感情は私を容赦なく鞭打った。
すると私は泣いていた。
涙が溢れ出た。
嗚咽が漏れた。
胸を突き破りそうな勢いで心臓が動いて立っていられないほどに呼吸が速くなった。
私は部屋の隅にしゃがみこんだ。
感情を紛らわさずに直視することがこんなにも苦しいことだとその時初めて知った。
涙は床を塗らし嗚咽はどんどん大きくなった。
私はこのまま涙の海に溺れて死んでしまうのではないかとさえ思った。
同時に感情を直視することの苦々しさ、それを避けてきた自分はどれほどに甘えてきたかを悟った。
部屋に差し込む昼下がりの光は明るく私はその影になっていた。

そんな時だった。
聞き慣れた「コンコン」とドアをノックする音が聞こえた。
『なんてタイミングが悪い!』私は思った。こんな姿をJさんに見られたくなかった。
自分が人間らしい感情を丸出しにしてそれでいてその感情に飲み込まれている姿など誰にも見られたくなかった。
しかし足音は確実に部屋に入ってきていた。しゃがんだ膝の間からはJさんの履くいつもの白い靴が見えた。

「ここにいていい?」
いつもと変わらぬJさんの低めの声がした。

心のなかで『嫌だ!私を見ないで!』という声と『これで一安心だ』という声がぶつかりあった。

私はその問いに首を縦に振っていた。

「私、若くないからしゃがむのは膝が痛くてできないわ」
その声とともにトスンと椅子に腰掛ける音がした。

背中に温かいものが触れた。
Jさんの手だった。
その手はトントンとゆったりとしたリズムを刻んで私の背中の上で動いていた。

どのくらいの時間が経っただろうか。
止まることのないと思っていた涙は頬の上で乾いていた。
心臓も呼吸もいつも通りの速さに戻っていた。
しゃがみ続けた私の足はしびれていた。
私は深く息を吸って袖で目をゴシゴシとこすって、何ともないような顔をした。
そしてゆっくりと顔を上げた。

そこにはいつもと変わらぬJさんの姿があった。
でもその姿は拭ったはずの涙でぼやけていた。

「お散歩にでも行こっか」
Jさんは独り言のように呟き、私は静かに頷いた。


外には春の風が吹いていた。
桜はもう散っていた。
入院直後の冷たい空気が漂っていた時から随分と時間が経っていることを私は感じていた。
私とJさんは並んで歩いていた。
Jさんのことを距離が近い人と思っていたが、その時はJさんは「どうしたの」などと詮索するような言葉は発さなかった。
ただただ無言だった。
生暖かいけれど少し冷たい風が泣いた後の火照った身体を冷やしてくれた。

「座ろっか」
Jさんはベンチを指差して言った。
私はまたもコクリと頷いた。

ポカポカと西日が差していた。
陰った私の心を照らしてくれている、そんな気がした。
座っているだけで心地よい時間が流れていた。
唐突に
「外泊、行くんだよね。この3つは約束してほしいの」
とJさんは口を開いた。
「1.自分を傷つけないこと 2.他人を傷つけないこと 3.必ず戻ってくること。後は何したっていい。お酒飲むなって言われるかもしれないけどそんなことは破ったって構わない。だけどこの3つだけは約束してね」
「うん」
私はいつになく頼りなげな声で答えた。
「じゃあ、外泊楽しんでくるんだよ!病院に長くいるんじゃつまらないことばっかでしょ!ほら、顔が暗いよ!」
そう言うと私の頬をつついた。
「フフッ」
私の泣き顔が笑顔に変わった瞬間だった。


数時間後、私は家にいた。
家族となんとなくの会話を交わして自室に籠もっていた。
目の前にはお気に入りの煙草と安い酒と薬、剃刀があった。
私は再び悲しみの渦に巻き込まれていたのだった。
まずは酒で薬を流し込んだ。
喉が焼ける感覚を感じながらもそれを自罰行為のように流し込み続けた。
その時の私にとって酒など楽しいものではなく意識を朦朧とさせる道具に過ぎなかった。
薬だってそうだ。治療のためのものではなくふわふわとした快楽を得るためのものだった。
しばらく椅子に座って思考を巡らしていた。吐く息は嫌にアルコール臭かった。
段々と、だんだんと、巡らせていた思考が鈍くなっていった。
それと同時に私を蝕んでいた悲しみもどこかに封印されていた。
私は私でなくなっていた。
数時間前、西日のあたるベンチでJさんとした約束などまるでなかったかのようだ。
だから私は剃刀を手にとった。そしてその手を左腕の傷だらけの場所に振り下ろした。
とたんに『1.自分を傷つけないこと』というJさんの言葉が頭によぎった。
しかし私が腕に線を引くほうが速かった。
その言葉が私の行動を抑止することはなかった。
私は腕を切った快楽と共に一抹の後悔に襲われていた。
快楽と後悔その狭間で私は身悶えた。
『これ以上私が切り続ければ、私はJさんを裏切ることになる』
心のなかでそう唱えた。
けれど、私は抑えきれなかった。
悲しみから腕を切ることで逃げるという行為を。
私は弱かった。とてもとても弱かった。己に湧いた己の感情に立ち向かうことすらできないほどに弱かった。
だから私は後悔の感情など湧き出る隙が無いように一心不乱に腕を切り続けた。
気がついた時には腕は真っ赤に染まり、服も床も血で汚れていた。
あんなに沢山飲んだ酒の酔いからも薬の朦朧感からも覚めていた。
私は空っぽになった。
その空虚を埋めるように酒をつぎ込み薬を流し込み煙草に次々と火をつけ再び曖昧な世界へと戻っていった。
「ごめんなさい」私は誰に言うともなく繰り返しつぶやいた。


2日後、私は病院の処置室にいた。
傷の手当などをする場所だ。

外泊後の聞き取りの際に私は腕を切ったことを誰にも打ち明けなかった。
打ち明けられるはずがなかった。
しかし血を拭いたティッシュなどの残骸を見つけた母親から病院に連絡がいっていたようで、私が”腕を切っていた”という事実はすぐに明るみにでた。
帰院後、部屋でまったりしていた私を看護師数人が取り囲んだ。そこにはちゃんとJさんもいた。
「怪我、してるよね?」
そう問われた私は首を縦に振るしか仕方なかった。

処置室に着くと早々に私のガーゼを当てた腕があらわになった。
文字通りの”取ってつけたような”貼られ方をしたガーゼ。
傷のことなど何一つ考えず貼られたガーゼは傷にしっかりとくっついていた。
Jさんが私の前に立った。
私は当然Jさんの顔など見られるわけもなく、俯いていた。
ゆっくりと丁寧にガーゼが剥がされていく感覚がした。
消毒液のついた綿棒がやけに冷たかった。
ガーゼが剥がされてあらわになった私の傷跡はいつになく痛々しく感じられた。

「よく帰ってきてくれたね。ありがとね」
Jさんはそう語りかけた。
私はすべての感情を押し殺してコクリと頷いた。
それだけで精一杯だった。
「ほら、もう大丈夫」
その声と共に重たい頭を上げると私の腕には傷をすっぽり多い被すような大きな絆創膏が貼られていた。

退院の日が近づいていたある朝のことだった。
その日はJさんが夜勤明けで業務が終わるその前に私の部屋に顔を出しに来た。
「あなたが退院する前、最後の夜勤だったわ。夜中ね、見回りついでに寝顔見といたわよ。とっても可愛い寝顔をね」
その言葉に思わず笑ってしまった。
「恥ずかしいですよ〜」
そうヘラヘラと私は返事をした。
「もう、この寝顔は見られないと思うとね、寂しいの」
その言葉に私の心はひんやりとしたものに包まれた。
もうJさんとこうして話すのも数少ないのだ、その事実に私は抗えない重みを覚えて浮かべた笑顔を凍らせた。
『ああ、もう少しでJさんとはお別れなんだ』
私も寂しく感じた。
とっさに
「19日、19日が退院の日なんですけど、Jさんその日は病院にいますか?」
と私は尋ねていた。
手紙を渡そう、感謝の気持ちをすべて込めて。私の気持ちはそう決まっていた。
「うん、いるよ」
Jさんは笑顔で答えた。

退院の日は驚くほど早くやってきた。
退院の日、着替えを済ませガランとした部屋に座っていた私は”コンコン”とするいつもの音に笑顔とともに顔を上げた。
「今いいかい?」
Jさんが立っていた。

「今日退院かぁ。寂しくなるよ」
Jさんはいつもの優しい眼差しを私に向けた。
「3ヶ月、あっという間でした。。私も、私も寂しいです」
私は声を抑えながら言った。
そうでなければ私の声は震え、涙がこぼれてしまうから。
「寂しくなるよ」
Jさんは再び言った。
しばしの沈黙が流れた。

「いい子じゃなくていいんだよ」
Jさんの落ち着いた声が沈黙をすっと切り裂いた。
「あなたはいい子すぎるの。いい子じゃなくていい。反発したっていいの。そのくらいが自然なの。あなたはいつも感情を抑えて抑えて、それで感情を持て余してる。だからね、もっと自分を開放していいの。じゃないと爆発しちゃうでしょ」
そう言ってJさんは笑った。
私は目を細めて頷いた。
「元気でいるんだよ」
Jさんの温かい手が私の頭に触れた。
ポンポン、とその手が私の頭を優しさで包んだ。
「じゃあ、行くね。バイバイ」
「うん、ありがとうございました」
私は部屋を出ていくJさんのぼやけた姿を手を振りながら見送り続けた。

荷物をまとめて閉ざされた扉の外に立った私は
『寂しい』
心のなかで呟いていた。

私はこの感情が嫌いで人と深く関わることを避けていたがその時にはもう手遅れだった。けれど、”寂しい”この感情を味わうことができるのは、人と信じて心を通わすことができたからこそ味わえる特別な感情であることは間違いない。
だから私は”寂しい”という気持ちを受け入れてあげよう、そう思い病院の外の空気を吸い込んだ。
空洞な胸を突き抜けるような新しい匂いがした。



私の文章、朗読、なにか響くものがございましたらよろしくお願いします。