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必ずコンマを打たせる教育と、そんなことは気にしない教育 (再勉生活……の後日談)

私が《再勉生活》を無事(?)終え、帰国して数年後、長女が中学に入り、初めて英語の試験を受けた。
「試験、どうだった?」
「英語以外はまあまあかな」
「英語は?」
「ひどかった。《ペケ》ばっかり」
「ええ?」
私たち夫婦は顔を見合わせた。
「お前、英語、できるんじゃなかったの?」
彼女は3年余り米国の小学校に通っており、吹替のない映画を見ても私より理解しているようなので、そんな先入観を持っていた。

「答案見せてみろよ」
中学1年最初の英語である。
「これは鉛筆ですか」「はい、そうです」
てな会話を英訳するように、という問題の解答に、
「IS THIS A PEN」「YES IT IS」
などと下手な字で書いてある。

「この《イエス》の後に《コンマ》を打たなきゃいけないんだってさ。アタシ、全然知らなかった。それから、文の最初は大文字で残りは小文字で書かなきゃならないんだってさ。おまけに、最後には点とかクエスチョン・マークを付けるんだってさ」
「……そりゃ、そうだろう」
なるほど、これでは惨敗するはずである。

「でも、英語を話す時に《コンマ》なんていちいち言うわけじゃないしさ。だいたい、アメリカでそんなこと習わなかったし、友だちは全部大文字で書いてたけどねえ。《コンマ》付けなくても《ペケ》じゃなかったし」
娘は他人事のように言っていた。確かに、発音すれば同じだし、せめて《✖》でなく、《△》ぐらいにしてくれても良さそうなものである。

(うーむ。ここで父親としてはこいつをencourageしておく必要がありそうだ)
そう考えた私は、
「確かに、この《コンマ》なんかどうでもいいと俺も思うぞ。これは《ペケ》じゃない。父ちゃんは《マル》だと思う。アメリカの学校だったら間違いなく《マル》だろう。気にするな」
と厳かに言い渡した。
「別にぃ、最初っから気にしてないけどぉ」
ノー天気な娘はそう言い残して去っていった。

そういえば私も小学生の頃、漢字の試験で、撥ねるべき所で撥ねていない、書き順が違う、とよく《✖》を付けられた。日本の教育は《減点法》のようである。
一方,米国時代に娘は,幼稚園で線を真っ直ぐ引いても、
「Good job!」
小学校で、
「3×2は?」
の問いに、
「6」
と答えただけで、
「Good job!」
めったやたらと褒められたという。これは《加点法》なのであろう。

もちろん、無条件に《加点法》がいいわけではない。重要なのは《減点法》の教育と、《加点法》で育てられるのとでは、価値観が大きく変わる点である。
そのせいであろう、米国人学生は、
「自分は○○ができる」
「△△が得意だ」

と主張する。やらせてみると大したことはない「芸」でも、決して謙遜しないのである。

これはなかなか面白い《文化対照テーマ》になりそうだ。
──というわけで、会社の食堂での雑談や酒の席などで何度か話した。友人たちの反応は、おおまかに言って、次のようなものであった。
「なるほど、日本の教育は《形式》にこだわり過ぎているのかもしれないな。そんな風だから独創的な人間が育たないのだろう」
おそらくは、多くの日本人が同じような意見を持つだろう。私自身もそうだった。このように、同意が多いと予測できる話題は、新たな発見こそないものの、安心して話すことができる


ところが、中学生の頃から通っている近所の本屋のおばちゃんにこの話をした時のこと、私より十歳ほど年上の彼女は笑いながら言った。
「ふうん。……でもさ、ほら、日本の工業製品って、信頼性が高いっていうのかしら、外国の物より壊れにくくて安心して使える、って言うわよねえ? それってさあ、《コンマ》を打つべき所では必ず《コンマ》を打つ、という教育の賜物じゃないの?
 ガーン、とここで私は衝撃を受けた。まったく、目から鱗である。
「そりゃ、おばちゃんの言う通りかもしれないねえ。確かに、《コンマ》ぐらいどうでもいいじゃないか、という《品質管理》と、コンマを打つ所では必ず、忘れずに《コンマ》を打つ、という《品質管理》とはえらい違いだよね。うーむ、なるほど。これはものすごーく深い問題なのかもしれない」
私はレジの前で立ちつくした。
「……独創性立てれば信頼性立たず、信頼性欲しけりゃ箸の上げ下ろしまで形にこだわれ、っちゅうことなんだろうか? それとも、《コンマ》なんか気にするな、というグループと、《コンマ》をちゃんと打つグループと、二通りに分けて教育すべきなんだろうか?」
「さあ、アタシにゃ、むずかしいことは良くわかんないねえ」
私はこの偉大な女性に敬意を表しつつ、本屋を出たのだった。


「ねえねえ、あきれちゃったわ」
妻が英語を教えている近所の中学1年生が試験の採点結果を持って来た。どこも間違っていないのに《✖》がついているので尋ねてみると、下図のように文字「a」の最後の《撥ね》が基準線についていないのが理由なんだそうである。

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「ひどいと思わない? こんな風だから個性が育たないのよ」
と憤慨する妻に、
「確かに個性という点ではそうなんだろうけど、一方で、こういう教育が、信頼性の高い工業製品を産んでいるのかもしれないよ」
本屋のおばちゃんの受け売りをする、それ以来の私なのであった。

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日本の試験における、採点ルールの厳格さとは対照的な……


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