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クレオパトラのワイン (試験の時間)

人生は《試験》に満ちている。

受験勉強が科目ごとに《パターン化》され、受験生はそのパターンを憶えることにより、偏差値を上げることができるそうですね。
「考える力を推し量る」のが本来の目的だった《小論文》や「人物を見る」ための《面接試験》ですら例外ではなく、既に《パターン化》されているらしい。

半世紀近く前ですら、《チャート式》と称する、
「ここだけ(=チャート箇所)憶えればいいからね」
的な参考書が既に勢力を拡げつつあり、
「余計なお世話だ! 俺はオレ流でやるぜ!」
という自由人は、世界の片隅に追いやられていきました。

高校時代、私の得意科目は歴史、地理、現代国語、といったあたりでしたが、とある《危険思想》に染まって大学は理系を受験したため、入学後の数学、物理、化学といった教養科目でさっそく壁に当たりました。
(それ以外の理由もあるが、結局、留年😿)

その中で、今もはっきり覚えている「物理化学」科目の問題がありました。中間試験で出された4つの設問のうちのひとつであり、100点満点中25点の重みでした。

クレオパトラがシーザーに献じたワイン

【問題】その昔、エジプトでクレオパトラがシーザーにグラス1杯のワインを献じた。そのグラスの中の水分子に全て印がついていたとしたら、今朝、君が台所で汲んだコップ1杯の水道の水には、その水分子が幾つ含まれていたか?

某大学1年化学前期中間試験問題より
この中の水分子に……

この問題には本当に驚きました。
藪からいきなり竹槍!です。
そんな議論は、授業の中ではまったくなかった(はず……あまり出席していなかったけれど)。
さすがにその先生も、あとの3問はオーソドックスな授業由来の設問だった(と思う……自信はないけれど)。

おそらくこの問題は、学生各自で《境界条件》や必要な《定数》を仮定・設定して解くのでしょうね。

しかし、それ以来思うのです:
むしろ小学校時代から、それこそ4問に1問ぐらいの割合で、このように《まったくパターン化されていない試験問題》を出すことにより、子供たちに《自分のアタマで考える習慣》ができるのではないでしょうか?


そのほかの「試験」話は……

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