トルココーヒー&チャイを飲みながら《先入観》に起因する《違和感》について考える+そこそこ快適トイレ マルマラ海沿い街道の旅★2019(6)
チャナッカレに出かける前に2点書き残しておきたく:
今回は夏休みで《Tea man》は不在でした。
以前、友人Mの大学で教授室を訪ねた時、コーヒーかお茶かを尋ねられ、コーヒーを所望すると、TurkishかAmericanか、と確認されました。
どこかに内線電話をかけ、しばらくすると、30代ぐらいのハンサムな男性がコーヒーを持ってくる。
「彼は《Tea man》だ。コーヒーやお茶を入れるプロであーる」
どうやら、学科にひとり(建物の各階にひとり、かな?)、お茶を入れるだけが仕事の係がいるらしい。
わざわざそのためにひとり雇うのはどうなんだろ、と思ったが、考えてみればその昔、日本のオフィスには(課の電話を受ける、経費を処理するなど他にもいっぱい仕事があった点が違うけど)お茶を入れてくれる女性が、確かにいたと聞く。
私が感じた《違和感》はおそらく、「そのためにひとり」部分ではなく、むしろ、「男性」がその仕事に就いていることに対することに対してなのだろう、と自己分析した。つまり、私個人の《古い先入観》によるものだ。
ここはトルコ、(3)でレストランに男性従業員しかいないことに触れたように、むしろ女性がそうした仕事に就くことに《違和感》(いや、それ以上か?)のある国なのであーる。
同じような《古い先入観》に基づく《違和感》は、25年ほど前に中国上海の某研究所を訪ね、エレベーターに乗った時にも感じた。
《箱》の中には50歳ぐらいの、人民服を着た「不機嫌そうなおばちゃん」が《常駐》しており、椅子に座ったままで行き先階のボタンを押すのが彼女の仕事だった。
「あの人はなんのためにいるの?」
とそこの先生に尋ねたら、肩をすくめ、
「エレベーターを壊されないように、じゃないかな」
と答えた。
この時も、最初は「なぜひとり雇ってまで?」と思ったが、かつての日本にも《エレベーター・ガール》なる職業があったっけ、と思い直した。
しかし、自己分析すると、《真の違和感》は、子供の頃にデパートで見た《にこやかで、きれいなお姉さん》ではなく、《人民服を着た、不機嫌なおばちゃん》だったことにあるらしいことがわかった。
このような、
《異文化》に対して抱く、《個人的先入観》に起因する《違和感》
には気を付けなくてはならないな、と時折、自戒する。
(うーむ。しかし、窓のない狭い《箱》の中にずっといるんじゃ、不機嫌にもなるよな)
《自戒》後、おばちゃんに同情したのを憶えています。
脇道にそれました。
ご存じのように、《トルココーヒー》は粉がどっぷりと浮遊している非常に《濃い》代物なので、しばらく置いて粉を沈殿させ、《上澄み》のみをいただく。
食後でなければ胃が荒れそうだが、これに砂糖を入れて飲む。
トルコで女性と食事をともにすると、このトルココーヒーの《上澄み》を飲んだ後、沈殿物を受け皿にひっくり返して、その模様から《コーヒー占い》をしてくれることがある。
あれは、自分に都合のいいことを言ってるだけじゃないかな、と密かに思っています。
食事にしろ、気候にしろ、海外生活には瞬時に適応する自信がありますが、海外でひとつだけ不便に思うことは、いわゆる《温水洗浄便座》がないことです。
10年ほど前に米国に住んでいた時は、借家のトイレに自力で取り付けましたが、会社や外出先でトイレを使うのが嫌でしたね。
イスラム圏では、排便後に《不浄の手》である「左手」で、《水》を使ってキレイキレイしなければいけない。下記記事の「イスラム教徒のトルコ人」はもちろん、このシリーズの重要人物「友人M」です。
ディープなイスラム教の国、例えばマレーシアなどでは、トイレに入ると辺り一面水浸しで、大掛かりな水ホースがあったり、水桶があったりで途方に暮れます。
それに比べると、トルコのトイレは快適です。見た目はほとんど日本と同じ(↓)。
日本の温水便座のように、後ろにノズルがついています。「格納」や「自己洗浄」はできませんが、まあ、トイレットペーパーでキレイキレイすればよし。
そして、コトが終わったら、右手を伸ばしてコックをひねり、ノズルから水を出す。お湯は出ないので、真冬は少々辛いが、まあ、贅沢は敵だ。
この、「右手側」についているというのがミソで、イスラム教徒は不浄の左手(やはり素手で?)でキレイキレイするのでしょう。
すみません。今回はいわば、ヒトの上下水道話に終始しました。
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