高野洸 "tiny lady" のくすぐったさ
去る11月頭、高野洸のライブツアー "mile" で聴いた生音での "tiny lady" があまりによかった。
同ライブで聴いた楽曲の中で、個人的には一番、音の解像度があがるなどした。
(詳しくはこちら↓)
そんな折、たまたま横浜に行く機会があり、せっかくなので "tiny lady" のMV聖地巡りをした。
恥ずかしながら、同曲のMVをしっかり見たのはこの時が初めてだった。
するとどうだろう、その映像から流れ込んでくる印象が、音だけの時とまるで違うじゃないか。
と、いうことで、今回はみんな大好き "tiny lady" の話がしたい。
2年の周回遅れもなんのその、たった今発表された新曲を聴いたかのような熱量だが、出会ったその時が「今」だ、あしからず。
高野洸 "tiny lady" を聴く・見る
結論から述べると、
"tiny lady" の最大の魅力は
「焦がれて背伸びする、くすぐったさ」
にあると感じている。
MVを見る前、楽曲を聴くだけの段階では、そのサウンドの華やかさと、歌詞の耳心地のよさにフォーカスして聴いていた。
意味や世界観よりも、ただ音のグルーヴ感、その心地よさを楽しんでいた。
だが、MVを見ると楽曲の描く物語がまざまざと浮き彫りになる。
歌詞に見るいじらしさ
まず歌詞から見ていこう。
"tiny lady" の中にはたくさんの「願い」が出てくる。
象徴的なフレーズは、
ではないだろうか。
「全く俺を見てくれない君」
「俺ばかりが君を見ている」という一方通行の光景が目に浮かぶようだ。
もう彼女の眼中にもないのかもしれない。
そしてあわよくば、
である。
まず視界に入りたくて、あわよくば振り向いてほしくて、なんなら惚れて欲しい、と。
最低でも3段階は壁がある。その遠さ。
アクセルを踏み続けていないと、今にもこの関係にブレーキがかかってしまいそうだとでもいうような、にじみ出る不安・脆さ。
"tiny lady" と可愛げなワードを掲げながらその実、お相手はこちらに目もくれない高嶺の花ですらあるようだ。
一方、そんな「君」を必死に追いかける健気な姿勢とは裏腹に、どこか浮ついた気もちも垣間見えるのも、この曲のチャーミングな側面だ。
なにせ冒頭から、浮かれて、夏のバカンスに、愛の花火ときたもんだ。
人間の心身が天秤やシーソーだとしたら、心で恋に落ちるとき、身体は重力を失ったかのように浮足立ち、脳内では花畑や花火のようなお祭り騒ぎになるあの感覚は、たしかにこの歌詞の通りかもしれない。
と、今書きながら自分のいつかの未熟な恋を追体験し、少しおもはゆい。
そして、
の部分。
あまりに奥手で過保護で、いじらしい。
君好みの曲をかけ、反応に一喜一憂する感じ。
どこまでも行こうと言ったすぐあとには、止まると言われれば仰せのままに、と甘々な感じ。
運転席で舵を切るのはたしかに「俺」なのだろうが、もうこの関係の主導権は確実に「君」が握っているようだ。
繰り返し歌われる、
の通り、惚れた人が隣にいる舞い上がった気持ちと、時折顔をのぞかせる不安とのゆらぎが、「俺」の不慣れな部分を浮き彫りにして、もう、たまらない。
この "tiny lady" は、そのタイトルで「かわいらしい女性」と謳いながらも、どこまでも追いかける立場の不安定さがにじみ出る「いじらしい男性」の物語であるように思う。
MVが加速させるもの
さ。そろそろ、MVの話をしよう。
筆者がMVを初めて見たのは、2023年11月半ばだ。
このMV,2年前の公開当時に見ていたらまた印象は違ったのかもしれない。
だが2023年の高野洸を知っている筆者としては、この映像はあまりにくすぐったかった。
というのも、そのビジュアルだ。
真っ赤なジャケットに、ゴールドの太めのネックレス、扉が上に開いちゃう高級車。
目に見えるもののどれもが、あまりに「強い」のだ。
だからこそ歌詞ににじみ出る「いじらしさ」が際立つこととなる。
結果、この視覚的な「強さ」が「背伸び」をしているように見え、くすぐったくなるのだった。
MVにおいて筆者の好きなポイントは、最後の最後、音が止んだ余韻の中なお映される彼の手元だ。
心理学の一説によると、手を組んで揉む動作は、不安や自信のなさの表れなのだそうだ(そんな意図はないかもしれないが)。
このMVは結局、1人の映像で締められる。
"tiny lady" との関係はどうなったのか、探していた「最高の景色」は見られたのか、歌詞に見られたいくつもの「願い」は叶ったのか、その先は描かれないまま、ただ1人の男の手元を映して終わってしまうのだ。
2人を乗せた車が走り去るでもなく、どこかへ「連れてゆく」描写でもなく、「君」と出会ったであろうレストランに1人で佇む姿で締めくくられるその理由は、いったい。
……などと、ここまで深読みなどしなくてもいいのだろうが、まあこれが楽しいんである。
冒頭に書いた
「焦がれて背伸びする、くすぐったさ」。
これは、音だけでは出会えなかった感覚かもしれない。
高野洸の音楽の裾野
高野洸の楽曲には、角度やタイミングによって彩りを変える多面性がある。
楽曲を聴いた時、
MVを見た時、
ダンスパフォーマンスを見た時、
ライブで見た時、
楽曲に誰か・何かを重ねた時、
高野洸のこれまでの文脈にのせた時、
高野洸に誰か(例えば役者として演じたキャラクター)を重ねた時……
などなど。
高野洸の楽曲と対峙する時、そこにはたくさんの着眼点がある。
別にこれは何も高野洸に限ったことではないかもしれない。
だが彼の、
パフォーマンススキルの高さ、
本人の掴みどころのなさ、
芸歴の長さ、
役者としてこれまで演じたキャラクターの濃さ……
それらによる「選択肢」の多さ、これは高野洸にしかない魅力だとわたしは思っている。
この、見る角度・タイミングや、文脈で幾度となく表情を変えていく高野洸の音楽を何に例えようと考えていたのだが、ふと浮かんだものがある。
「プリズム」だ。
ガラスのような多面体で、光を屈折させたり分散させたりする、あれだ(例えばこれだ↓)。
以前、高野洸のライブレポートにこのように書いた。
あれからいろいろ見聞きしてみてもやはり、わたしは高野洸の「陰」の描き方にゾッコンだ。
だが、「陰」「影」があるということは、同時にそこに「光が当たっている」ということの表れでもある。
光なくして影はできまい。
聴く側の着眼点や都合によって、つまり光の当て方によっていかようにも色彩や表情を変える高野洸の楽曲。
そこには、プリズムさながら多様な「色彩」、ひいては「可能性」というか「ルート」というか「選択肢」、つまりは「裾野の広がり」がある。
うん、「裾野」かな。
これ書きながら思い至ってそのまま書くけれど、高野洸の音楽は「裾野の広さ」が強みなのかもしれない。
それはつまり、「余白」だ。
受け手に委ねられているものの多さ、だ。
(以下、小声)
余談だが、その「余白」はSNSや公式サイトの更新頻度の低さも相まっていると思う。
わたし個人としては、SNS疲れしやすいタチなのでその距離感がけっこうラクだったりはする。
だが、その余白を埋めようと、熱に薪をくべるべく奮闘していることも少なくない。
(さらに小声)それにしたってFCのMEMBER'S REPORT、たま〜には更新してくれてもいいんだよ……?とは思ってはいる。誰かに届け、この想い。
(以上、小声終了)
もしかしたら、高野洸サイドとしては、
「こう見てほしい」
「こうは見てほしくない」
みたいなものがあるかもしれない。
だが、その裾野の広がりをもって、たくさんの人に届いて欲しいと願わずにいられないくらいに、高野洸の音楽はこうも多彩で、多才なのだ。
さいごに
あれ、なんの話だっけ。
そう、"tiny lady" ね。
わたしは曲を聴くだけにとどまりがちなのだが、ライブで浴びて、MVを見て、噛みしめていたら、こんなドデカ感情大爆発と相成りました。
3,800字だって、うわーお。
いずれにせよ、2023年の高野洸を見た筆者は、2021年の楽曲を経由して、さらに今の高野洸の背中がたくましく見えるようになったのだった。
3週間前にライブで見た "tiny lady" は、くすぐったさなど感じる余地もないほど圧倒的だった(何度も書くが、生音で聴く同曲がほんと〜〜によかったんである)。
同曲が世に出てこの2年の間の経過を目撃できなかったことが悔やまれるくらい、2023年現時点の高野洸の音楽はあまりに信頼できる。
「期待」というよりも、
「信頼」なのである。
こうして自分が間に合わなかったものを後追いするたび、高野洸の今後の活躍からますます目が離せないと、改めて思うのだった。
高野洸さんについての記事は、こちらにまとめてあります。
p.s. 2ndライブの映像とか見たら、また追記すると思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?