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1993年のカルティエ③
ホテルのベッドで眠りこけている間、また夢を見ていた。
夢の中で俺は夏の函館にいた。函館駅の改札口に母親が立って俺を見ている。それは見覚えのある険しい顔つきだった。俺を大声で叱責しようとしているに違いない。俺は駅のホームに踵を返し、札幌行きの特急列車に乗り込んでしまった。
でも俺は気づく。そうだ、エマを置いてきてしまった。次の駅ですぐに降りてホテルに電話をして、エマを迎えに行かなければならない。
1993年のカルティエ②
1月の始めのこと。
エマと函館に旅行に行く当日。
前の夜も仕事をして、自分の体中に中年オンナの体臭と化粧品の臭いが染み付いているような気がした。まだ夜が明ける前に部屋に戻り、バスタブにお湯を張って浸かった。
つくづく、この仕事は限界だと思っていた。いや、何度もそう思いながらも考えることを先延ばししての繰り返しだったけれど。
中年オンナのベタついた感情を、肌に擦り付けられるような夜がもう我慢な
1993年のカルティエ①
「母がね」
新宿3丁目の明治通りの交差点で信号待ちをしている時、エマが言った。季節はもう12月になろうとしていて、通りに立つと足元から腹の底まで冷えるようだった。俺は客から買ってもらったカシミアのコートの襟を立てて時々身震いした。
「母がね、乳がんなんだって」
正直なところ、それがどのくらい深刻な状況なのか俺には分からなかった。
「そろそろ、覚悟しなくちゃね」
エマはそう言って俺の左腕に
血管をなぞるように理解する夜④【2015年】
18歳で東京に移り住んでも、最初の2年くらいは基本的にアパートと新宿のごく狭い地域しか知らなかった。
まだ幼かった俺は、時間を見つけてはあちこち探検するような性格はしていなかった。心に病気を抱えていたので、新しい環境では毎日同じことを繰り返すのがやっとだった。
だからほんの狭い世界で怯えながら生きていた。目線を外して遠い景色を見ることすら怖かったのだと思う。
電車も毎日決まった路線と駅しか使わ
【Love Rescue】血管をなぞるように理解する夜③(2015年)
20代の終わり。俺はまた結婚しようとしていた。
記憶が薄いガキの頃から家族というものに恵まれず、家族のような形だけの環境で育った。
その家族のような「箱」には、愛とか安定とか当たり前とか永遠というものは存在せず、あったのは暴力と絶望と貧困。明日の朝もおはようと言える、明後日もおはようと言える、10年後もきっとおはようと言える、そういう期待を許してくれる「箱」が家族なのだろうとずっと考えて育ってき