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「自分」を「自分たらしめる」要素から距離を取り「自分らしさ」を磨いていく。

最近、自分がもしアメリカに生まれてたらクソいじめられてたんだろうな、と想像することがあります笑
(それか万年ボッチ)
陰キャオタクのまま健やかにここまで生きてこられたのは日本だったからだな、と、自分が日本に生まれた奇跡をありがたく感じています。
いや、日本で生まれたから陰キャオタクになったのか…?
因果が謎ですが、まあでもアメリカでクソいじめられて育ったとしてもそれは貴重な経験になるのでそれも経験できることなれば経験してみたいものです。

さて、このnoteでは、自分を自分たらしめるために「自分自身を構成する要素そのものから距離を取る」ということを書きたいと思います。

「自分自身を構成する要素そのものから距離を取る」とは、
自分が関わっていたり所属していたりする、本来自分を自分たらしめているはずの、「自分の居場所」から、距離を取る、という意味で書きました。
例えば、子育てをして仕事もしている人だったら、
母親である自分や、会社員としての自分や、ついでに妻としての自分から距離を取る、ということです。
本来、母親であり会社員であり妻であること自体が、自分を自分たらしめていると思うのですが、
その一方で、
どこにも居場所の無い自分自身しか知らない内なる自分、誰にも開示する必要な無い自分自身もまた、
自分を自分たらしめる要素の一つだ、と私は思うのです。
もう少し噛み砕いて言い換えると、
「社会的な自分」と社会的であるかどうかを度外視した「裸の自分」、どちらか一方ではなく、両方ともが、自分を自分たらしめるために必要だよね、ということを書きたかった次第です。
その上で、自分を上手に自分たらしめるには、「社会的な自分」からも、「裸の自分」からも距離を取るのが大事なのではないか、と私は思うのです。

では距離を取る、とはどういうことかというと、端的に言うと自分を俯瞰する努力をする、ということでしょうか…。(なんで自分で言ってて不安げなんだよすみません)
例えば、仕事でめちゃくちゃプレッシャーがかかっていて辛い状況にあるとします。
やばい、今月数字足りてないだの、あれやらなきゃこれやらなきゃ、、、のように、仕事のことばかりが頭から離れない!みたいな自分の状況に気づけたら、
待て待て、一旦会社員の私は置いといて…
他の自分たらしめる要素に目を向けてみるのです。
「誰かの彼女」としての自分が今感じている都合・不都合であったり、「アーティスト」としての自分が次の土日に作りたい作品って何だっけ?、といった具合に、です。
そして、いつも中心にいるのは、他の誰にも見せる必要のない、特に何の肩書も持たない「裸の自分」です。
「裸の自分」は、他のどの要素とも異なって、誰にも開示する必要も無い、まさに自分だけの秘密の花園である、と私は思っています。
しかし、「裸の自分」が他の要素より強いか?偉いか?でいうと、私個人的にはそうではない、と思っていて、どの要素ともフラットに付き合えたらいいなと思う派です。(人それぞれだと思いますが)
どれかに重きを置いてしまうと、当然他の部分が弱くなる。
それでも良いのですが、(今まで私は「裸の自分」ばかり重視しすぎて他の要素を蔑ろにした結果人間関係レベルが赤ちゃんレベルの大人という痛い存在になってしまいました)
私は「私」を「私たらしめる」要素で不要なもの(自分では抱えきれないもの・自分を苦しめるもの)を削る努力をし、今の私にとって重要だと確実に頷けるものしか残していない状態なので、全部を大切にしたいから、どれかに重きを置くのではなく、一つ一つ大切にしたい。
そうすることで、やっと、「地に足がつく」という状態になれるのではないか、と最近ひしひし思う次第です。

今まで自分が人間関係に努めてきた結果得られた社会的な「居場所(役割)」は自分を自分たらしめるものです。
しかしながら同時に、そういった居場所(役割)を取っ払った裸の自分も、自分を自分たらしめるものです。
どちらもかけがえのない、自分の財産です。
自分を自分たらしめているそれぞれの要素と距離を取り、
何かひとつの要素にとらわれたり執着するのではなく、
それぞれの要素と大切に向き合うことで、自分らしさが磨かれていく。
そしてバランスを保つ、
という地味で泥臭いコツコツとした日々の自己管理が、健やかな自分でいるために大切なんだなあ、と個人的に思う次第でした。
(勿論いつも通り私の独断と偏見です)

やばい、今これをキャンプ場で書いているのですが、虫!!!!!!!!!!!!!!!!むかつくな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!くそったれ!!!!!!!!!!!!!!!
(虫ごめん勝手に来といてごめん)

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